2005年1月10日月曜日

廬山・陽朔―愉快な中国人


 中国歴史の旅を終え、僕は武漢の町に来ていた。最終的には、香港から日本に一時帰国しようと考えていたが、まだ寄り道する時間がある。
 漠然と、ヒントを得ようかと思って、バスターミナルに行ってみる。
 「赤壁」、三国志の赤壁の戦いで有名な地名が目にとまる。しかし、気乗りしない。もう、赤壁への距離感は地図で十分想像できたし、今までの中国歴史の旅から、赤壁は岩山に「赤壁」と文字が書いてあるだけの場所であることは容易に想像できたのだ。
 「廬山」。これだ。武漢で黄鶴楼を見た僕は、今度は詩情を掻き立てられていた。が、白状すれば、漫画「聖闘士星矢」の影響が大きい。廬山の瀑布が頻繁に描かれていたからである。実際、廬山をテーマにした詩は、李白の「廬山の瀑布を望む」くらいしか知らない。この詩も、子供のころ上記の漫画の影響でおぼえたものだ。
 ともかくも、武漢から九江を経由して、僕は真冬の廬山に入ることにした。
 武漢から九江までは、まったくローカルなバスであった。最初は空席が目立ったが、路上で次々に人を拾いあるいはおろして、ゆっくりと進みながら、バスはあっというまにいっぱいになった。
 九江の地図は持っていない。バスの運転手が何か言っている気がするが、聞き取れないうちに終点らしきところで降ろされた。例によってつたない中国語で「汽車站(チーチャージャン)」とバスターミナルまでの行き方をたずねると、はいよとばかりに3輪オートバイのおばちゃんが現れ、「2元」といわれるがままに後ろの荷台に乗せられた。あっという間にバスターミナルに着いた。おばちゃんとはそこでさよならかと思ったら、彼女はトラックを降りて僕の行き先を聞くと切符の売り場まで案内してくれ、バス乗場にまで連れて行ってくれた。しかも、バスの時間を確認してくれて、まだ15分くらいある、ご飯は食べたか、と弁当屋さんにまで案内してくれた。ここまで親切にされると、重慶でのおせっかいガイドのこともあるし、チップをねだられるのかと不気味だったが、暗に相違しておばちゃんは僕が弁当を無事に買ったのを見届けると身を翻して去って行った。
 そういえば、決して金目当てで親切な人ばかりでなかったな。中国は。電車の中で知り合った人たち、蘭州の白さん一家、皇都招待所の人たち、安西の張麗―数えだしたらきりがない。

 廬山は、雪で真っ白だった。比較的緯度は低いはずだけど、高度があるだけに寒いのだろう。「香炉峰の雪は簾をかかげてみる」という白楽天の一節を思い出し、そういえば昔から廬山は当然雪が降るところだったんだなと納得した。
 入山料を100元だか払わされて、町の中に入る。観光客らしい乗客は僕だけで、後はみんな現地の人のようだった。僕以外に入山料を支払っている人はいなかった。バスを降りると待ってましたとばかりにホテルの客引きが寄ってくる。もちろん泊まるあてがあるわけではなかったので、そのうちの一人についていった。
 料金表をみると、一番安い部屋でも60元と、とても予算に合わない。じゃあ、と回れ右しようとすると、必死で引き止められた。「60元じゃとても泊まれないよー」というと、「安くするから」とどんどん値段を下げていく。「35元」といわれてもなお断ったが、「一度部屋を見てくれ」といわれたので試しに見に行ってみる。結構きれいな部屋だ。シャワーもトイレも室内についている。「20元ならいいよ―」と言ってみると、客引きのおばちゃんは「30元」「25元」となおも粘る。こちらが譲らないのを見て、携帯電話を取り出して、オーナーらしき人に電話をしてどうやら20元でいいかどうか確認しているらしい。OKが出たようで、あきらめ顔で「20元でいいよー」。これで商談成立。冬場はよほど観光客が来ないらしい。ちょっと足元を見すぎた気がするが、オーナーに電話までして値段を下げさせたのはそれほど多い経験でないから、まあ良しとしよう。
 しかし、雪の廬山は交通の便が本当に悪いらしい。例の廬山の大瀑布は結構遠くにあり、車をチャーターしていかなければならないらしい。宿の従業員が、「別の観光客と車をシェアしないか」と持ちかけてきた。それで、一緒になったのが上海からの大学生二人組だった。
 一人は体格どおりどっしり落ち着いたタイプ、もう一人はこれも外見どおり飄々としたタイプ。調子のいいやつで、僕がデジカメを持っていると知ると、自分もとってくれとどんどん撮らせた。あとで廬山の町の写真屋に寄って、すぐにデータを印刷したのだが、それに僕も付き合わされた。容赦なく「これだけの枚数印刷するんだから安くしろよ、そうだ、お前も印刷するだろ、じゃあもっと一枚あたりの値段を安くしてくれ」とこっちの意向もお構いなく強引に話を進めていく。その一方で、「客なんだから椅子とストーブの前の場所を譲れ」と店員をどかして、僕に席を勧め、自分も座る。なんだかすっかり彼のペースだったが、なぜだかそう憎めないやつではあった。新たなタイプの中国人だな―と思って一人おかしかった。
 それで、結局遠くの滝を見に行ってもしょうがないだろ、という学生2人の主張により、「廬山の瀑布」には行かず、近くの滝などを見ることになった。まあ、廬山には多数の滝があるので、漫画でこだわりでもなければわざわざそれを見に行くことはなかろう。実際、李白の詩も僕の思う「廬山の瀑布」を詠んだものなのか、はっきりしないらしい。
 結局寒い廬山に何日もいたってしょうがないので、一泊してまたふもとの九江にもどった。学生2人組も同じバスだったが、電車で上海に帰る、とバス停でさよならした。

天橋。まるで天然の橋のように石が突き出ている。


 次の行き先を九江まで向かうバスの中で考えていた。桂林に行きたいと思っていたので、コンパクト版の時刻表を見ると、南昌から直通の夜行電車が出ているらしい。九江と南昌はバスで数時間なので、一気に南昌に向かうことにした。
 南昌へ到着したのはすっかり日も落ちたあとで、若干不安だったがすぐに安宿は見つかった。「外国人もとまれるか」と宿に入って聞くと、従業員の女の子たちは目を丸くしていたが、「いいよ」ということであっさりとまた20元の宿が見つかった。
 南昌は、国民党の武装蜂起があったことで有名な町だが、これと言って観光のネタはなかった。それでもガイドブックに載っている町なので一応一通り見てまわって、夜行列車に乗り込む。
 何がきっかけだったか、一人の老人に話しかけられた。この老人はシリアスな話が好きなようで、僕が日本人だと知ると、「昔日本と中国は戦争をしたことを知っているか」と聞かれたり、学生か、何を勉強しているんだ、どこへ行ってきたんだ、などなどいろいろ聞かれた。最後は、「今後は日中友好が大事だ。若い君たちががんばってくれ」と話を締めくくってくれた。
 南昌から南寧まで帰省するという大学生の集団とも話した。自分たちの専門の話、日本文化の話、日本人の収入や結婚年齢の話など、話題は尽きることはなかった。そのうち、例によってギターで日本の曲を披露した。中国人は「東京ラブストーリー」が大好きなので、みな小田和正の「ラブストーリーは突然に」を知っている。それも歌ったし、kiroroの「長い間」「未来へ」という曲は劉若英というアーティストがカバーして大ヒットしているから、よく知っている。このあたりの曲を歌うと大うけだった。
 近くで何事か、と見ていたひとも多いようで、「まるで陳小春みたいね」という若い女性からの声援?も頂いた。陳小春とは、そのとき筆談で教えてもらったが、香港の大スターなのだそうである。ほんとうに似ているらしく、その後中国人や台湾人に何度か「似ている」といわれたことがあった。
 大学生のみんなや、シリアス老人、陳小春ファン?の若い女性などと、話は尽きることはなかったが、やがて消灯時間となって、後日の再会を期して、みな床に付いた。今度は硬臥だったが、前の硬座24時の時より盛り上がった列車の中だった。

ちょっと昭和のかおりがする大学生たち

 電車はまだ薄暗いうちに、桂林に到着した。すぐに僕はバスに乗って、桂林近郊の町、
陽朔に移動した。姉から、陽朔のほうが町が小さいし、旅行者向けにすごしよい、ということを聞いていたからだった。
 陽朔もまた出会いの宝庫だった。陽朔は、桂林同様石灰岩が丸く隆起した奇峰がつらなる水墨画のような風景が有名な町だ。西洋人のバックパッカーも多数くるような風光明媚なところなので、電車の中のシリアス老人も教えてくれた通り、みんな英語ができる。つまり、だいぶ観光客なれした町なのだが、田舎町だからなのか、みんなとても気のいい人たちばかりだった。例えば、蘇州で感じたような、旅行者を金としか思っていないような感じは一切受けなかった。
 すぐに宿泊先の従業員と仲良くなった。例によってギターを披露したり、名物の砂鍋をおごってもらったりと、特に従業員のリーダー格の偉君と、湖南省から来た郭君とはだいぶ話した。偉君は、下の名前「利林」にちなんで「トシ」と呼んでくれと言って、日本語を勉強中なので教えてほしいと僕に頼んだ。
 今、筆談ノートを見直してみると、ほとんど会話のメモがない。このころでは、サバイバル旅行でだいぶ中国語も鍛えられていたし、中国語でダメな部分は英語で会話したと思う。
 ご飯は、ティナズカフェというところでよく食べた。最初、なぜこの店に入ったのかはあまり記憶がない。店の前においてあるメニューをみて惹かれたのだと思う。テリーとサリーの2人とはここで仲良くなった。2人はまだ高校生くらいで、確か年齢を聞いたら18だったと思う。もちろん、テリーとサリーと言っても生粋の中国人で、英語風のニックネームだ。店に入ると、「今日はどこに行ってきたの?」とか「隣に座っていい?」などと何かと話しかけてくれる。一人旅の僕にとっては恰好の話し相手だった。
 2人とも、英語をもっと勉強したいらしいが、あるいは西洋人は敷居が高いのだろうか。それで、一人旅の日本人である僕に何かと英語で話しかけてくる。僕は僕で、中国語を教えてもらう。ご飯をサービスしてくれたり、ここに行くといいのよ―といろいろ世話してくれたりするので、すっかり2人が気に入ってしまった。末っ子なので、妹がいたらこんな感じだろうな、と思って。
 陽朔の町は、本当に過ごしよかった。自転車を借りてあたりを走ると、奇峰が立ち並ぶ風景が続く。目を驚かせる景色の連続なのである。うまい表現が思い浮かばないが、子供のころやったドラクエでたとえれば、ボスキャラ級が次々出現するような、そんな油断のできない風景が―他の場所だったらこの山ひとつだけで一大観光地になる、というような山が―次から次へと現れるのだ。
 冬であるが、気候も北に比べればだいぶ温和だ。青島、洛陽など、北のほうでは凍える寒さの連続だった僕にとっては気候の意味でもかなりよかった。
 すっかり陽朔が気に入ってしまった。ユースのみんなも、ティナズの2人も気に入って、この後広東省の姉の家によって、香港から一度家に帰るのだが、香港から旅の続きを始めるとき、春節でごった返す陽朔にまた来て、3日くらい滞在した。3週間くらいぶりの再会をユースのみんなやテリーとサリーと果たし、僕はこの地を後にして、桂林から貴州省の貴陽に旅立った。

 九江のおばちゃん、廬山の大学生、夜行列車のみんな、陽朔のみんな、ほんとに気のいい人たちばかりで愉快だった。ここには書かなかったが、陽朔で出会った旅行中の中国人など、数え切れない人たちと話をした。
 不愉快、とまではいかないが、違和感を覚えたこともある。陽朔には観光客向けのバーがあって、そこでバンドがライブ演奏などをしている。郭君と2人でそういうバーに入って話していたところ、シンセンから来た、ホテルを経営しているという金持ち一家のおばさんに「日本人!」ということですっかり気に入られ、しまいには一緒にステージに上がってバンドに演奏させて「時の流れに身をまかせ」を歌う羽目になった。おばさんは上機嫌で、小さな瓶で一瓶20元くらいするバドワイザーだか、ハイネケンだかの輸入ビール(ちなみに国産の青島ビールの大瓶は大体2、3元である)をどんどん薦め、われわれに奢った。お金を出そうとする僕に対し、郭君は制止して「いいんだ。お金を持っているんだから、払わせておけば」。いかにも成金の振る舞いに好意をもっているような口ぶりではなかったし、僕も内心辟易していたので、まだ上機嫌でわれわれを引き止めにかかるおばさんを尻目に、僕らは店を出た。急激な経済成長と貧富の格差の実態が、あまりにもわかりやすくおばさんの行動に現れていた。
 湖南省は貧しい土地柄と聞く。郭君が「僕もシンセンに行くつもりだ。シンセンにはオポチュニティ(チャンス)がある」とこのおとなしい人が珍しく感情をこめて言っていた。
 英語をもっと学ぼうと一生懸命なテリーとサリー。英語にくわえて、日本語もものにしようという偉君。陽朔の町を飛び出してさらなるチャンスを求めようとする郭君。その行き着く先が成金おばさんでなければいいが―。僕が出会った愉快な中国人たちは、あるいは金銭的には裕福でないかもしれないが、決して心は貧しいことはなかった。



陽朔は本当に風光明媚なところだ


2005年1月1日土曜日

襄陽・重慶・三峡下り―史記・三国志の旅(2)


 本当の意味で一人ぼっちの旅行だった。一人旅をしていても、別の場所では似たような旅人に会うことが多い。ところが、今回は全く観光ルートを外れているがために、上海を出て以来、同じような旅人に出会うことも、日本語を使ってしゃべったこともなかった。ただ、淮陰のレストランの親切なおばちゃん、徐州の宿のこれまた親切なおばちゃん、洛陽のホテルの女の子―僕がギターを持っているのを見て何か歌ってくれとせがんだ。テレサ・テンの「時の流れに身を任せ」を中国語で歌ってあげると、気に入ったようで僕が宿泊している間よく鼻歌で歌っていた―、洛陽のホテル近くのレストランの従業員の人懐っこい女の子たち。みな良い思い出だが、決して僕の孤独を十分に埋めてくれるものではなかった。
 予想にたがわず、三国志の史跡めぐりにも飽きてきた。楽しみといえば、距離感をつかむことだけである。洛陽から襄陽への距離感も概ねつかむことができた。
 三国志で「荊州」という場合に、大体この襄陽あたりを想像して差し支えない。現在の荊州は、当時の江陵という長江流域の都市である。三峡下りのあと、現在の荊州の町に行ったが、三国志関係の史跡は取り立ててないように思えた。襄陽は漢水の南側の町であり、樊城とは漢水を隔てて向かい側に位置する。現在は都市の名前自体も襄陽・樊城の頭文字をとって「襄樊」とされている。関羽が呉に殺害される前に守っていたのは樊城であるし、劉備が諸葛亮を三顧の礼で迎えた新野城は襄陽から少し北に行ったところにある。有名な長坂橋の戦いなどもこの付近での出来事である。
 電車が襄樊の駅に到着したときは、既に夜の帳は完全に下りていた。例によって客引きのおばちゃんについていって、安い宿を確保した。ここでも宿の人たちはかなり親切だった。駅から遠く、交通がどうしても不便なため、翌日駅前の宿に変わったが、駅まで送迎してくれ、次に重慶まで行くという僕に「それなら電車だな」とチケット売り場まで運転手のおっちゃんは案内してくれた。観光客ずれしていない町なのであった。
 諸葛亮が三顧の礼によって迎えられる前に隠棲していた地は古隆中という場所で、このあたりでは一大観光地である。隠棲地であるから、ポツンと庵が一つ建っていたような場所なはずだが、行ってみると20個くらいは建物があったように思える。「草廬遺址」という碑があったが例によって怪しい。
 ただ、新野あたりから雪の降る中諸葛亮を迎えに行ったという劉備一行を想像して、何となくおかしかった。雪は降っていなかったが、積もっていたし、池は凍りついていた。張飛がぶつぶつ言いながら雪の中馬を走らせる光景を想像したのだ。
 古隆中で一人の少年に出会った。まだ中学生くらいの子だ。売店の店員みたいなことをやっているようだが、正式な店員でないのか、自由が利くようだ。少しつたない中国語などで話をしていると、「一緒にローラースケートをしに行こう」というので、ついていくことにした。近くの小学校の体育館らしいところに入ると、驚いたことに100人くらいの子供がローラースケートでぐるぐると体育館を回っていた。諸葛亮が隠棲していたくらいだから、今でも人里はなれた感じの場所である。どこにこんなに人が、しかも子供が位しているのだろうと不思議だった。
 ローラースケートは貸し出しをしていないらしく、ダメだと少年が言うので、僕らは一緒にご飯を食べることにした。川魚らしきものを一匹煮たものなど、色々食べて、僕らは分かれた。それだけのことだ。そして僕は古隆中を後にした。

孔明の草蘆跡だが、怪しい

 翌日は襄陽の町を歩いてみることにした。後に三峡下りの後に訪れた荊州(かつての江陵)もそうだが、襄陽には城壁が残されている。明代に修復されたもののようだが、中国の「城」の概念を体感するには丁度よい。日本で「城」といえば、普通天守閣など城主が住む館や要塞を思い浮かべるが、中国で「城」とは都市を指す。城壁で囲まれた一角がまるまる都市なのである。もちろん、今では襄陽の城壁外にも町は広がっているが。
 町歩きは、まあ、面白いが退屈だった。面白いものはいくらかあるのである。汚らしい市場や、路上でマージャンをする人々、民族衣装を着てパフォーマンスをする人々、ビルの上から者を投げていたずらをする少年達、思い返してみると、地方都市の日常というのがこの町に集約されているような感じだった。ただ、僕が町に溶け込みすぎているのかもしれない。特に声をかけられることもなく、黙々と町を歩いた。
 襄陽の町にも大きな公園があった。町中のどこでもそうだが、とにかく中国は人が多い。公園は市民の憩いの場なのだろう、家族ずれなどで大賑わいだった。
 僕は歩きつかれてベンチに腰をかけて、確かデジカメをいじっていたのだと思う。3、4歳くらいの女の子2人がまつわりついてきた。「なあに、それ。見せて」とでも言ったのだろうか。聞き取れなかったので僕はつたない中国語で「デジタルカメラ」と言って二人に見せた。発音におかしなものを感じたのか、珍しいものを持っている都会人と思ったのか、「あなたは北京人」と尋ねられた。「いや」と答えると、「じゃあ東北人」と更に尋ねるので、これも「いや」と答えた。なぜだか「日本人」と答える気がしなかった。
 女の子は首をひねって「でも、南方の人ではないみたいね」というような表情をした。が、それも一瞬のことで、すぐに「写真とって」とねだって、僕は彼女らのいい退屈しのぎとなった。もちろん、僕の退屈しのぎにもなっているが。
 そうこうしているうちに、何か複雑なことを中国語で言ったので、僕は理解できなかった。筆談ノートを出して書いてもらうと、綺麗な漢字で「これから私たち遠くに行くから、それを写真にとってね」という意味のことを書いた。中国にはひらがながないから、小さな子供でもこれだけの漢字を書けるのだな、と感心した。
 そういって、こっちを見ながら去っていった。親元に帰ったのだろう。また一人に戻って散歩を続けた。

 そして襄陽から重慶に向けて夜行電車に乗った。誰も僕が日本人と気付かなかったし、上海から蘭州のときのような体験もないまま、電車は翌朝、霧深い重慶の町に到着した。


こんなに小さな子どもでもしっかり漢字を書く


 重慶の町は、僕が知らないだけかもしれないが、取り立てた観光地がない。重慶では、長江と嘉陵江という二つの大河が交わる。山間の坂ばかりの都市だが、3000万近い人口があるというから、飲料水や農業用水の豊富なことと、水運の影響力の偉大さを感じざるを得ない。
 ガイドブックによると、重慶の反日感情は強いという。僕の勉強不足だが、重慶の近代史を全く知らなかった。日中戦争時、蒋介石の国民党政府がここを臨時首都とした際、日本軍は苛烈な爆撃を行ったらしい。中国側の資料では、死者が11000人を越えるというから、戦慄すべき行為と言ってよい。4年後、同僚を上海に案内する機会があって上海の歴史や特に上海事変などについて勉強した時にも思ったのだが、もう少し日中戦争の流れについて詳細に高校で学ぶべきでないか、と思う。自分の不勉強を棚に挙げての話だが。
 僕が重慶に来た理由は、三峡下りの基点だからである。実際、駅で電車を降りると一見して旅行者風の僕は客引きから次々と声をかけられて勧誘された。ただで町まで車に乗せていってくれるという人が現れ、たしか大分きつく「無料だな」と問い返したのだろう、乗ることにした。そうすると、案の定旅行会社に連れて行かれて三峡下りを勧められた。相場が分からない僕は断った。観光船でなく、普通の交通手段としてフェリーがあるはずなので、一般の中国人が買うチケット売り場で買うのが一番確実なはずである。
 チケット売り場に行くと、若い女性とおばさんが2人で担当していた。僕は、白帝城と張飛廟は欠かせないと思っていたので、筆談ノートを使って必死で行けるかどうかを確認した。その中で、おばさんが
「あなた、韓国人か」
と聞いてきた。僕は隠すことなく、
「日本人だ―」
と答えた。
 するとすぐにおばさんは眉間にしわを寄せて、不快の表情をあらわにしたが、横から若い女性のほうが
「日本人も韓国人も差不多(チャーブドゥオ)」
と、たしなめるように割って入ったのが今でも深く印象に残っている。「差不多(チャーブドゥオ)」とは読んで字のごとく、「差多からず。大差ない」の意味だ。そうやって雰囲気が険悪になるのを避けてくれたのであった。こうして翌日の夜発のチケットを手に入れた。
 ホテル探しも決して容易でなかった。例によって安いホテルを探すのだが、なかなか見つからない。そんな僕を見咎めたのか、勝手に僕にまつわりついて
「ホテルを探しているのか―」
と、案内してくる男が現れた。僕は無視して、いかにも安そうな宿に行って空室を確かめてみたが、外国人不可とか値段が高すぎるとかでなかなか決まらない。
「重慶は物価が高いからそんな安いホテルはないんだよ」
怪しげな満面の笑顔でそんなことを言ったと思う。もちろん、そんな話は全く信用しなかったが。
 とはいえなかなか見つからないので、彼の勧めるまま、ためしに何十階とあるビルに入ったホテルに入って値段を聞いてみた。シングル170元とか言われ、すぐに回れ右して出て行こうとすると、従業員が必死で「安くするから―」と引き止めてきた。
「僕は学生で金がないんだ。どれだけ高くても60元くらいでないと泊まらないよ」
こういうと、相手方も徐々に値段を引き下げてきた。最終的に「110元」となったときに、僕も根が切れて泊まることに決めた。シングルで、部屋内にトイレ・シャワーつきであり、エアコンも24時間付け放題、お湯も24時間でるという。部屋をみるとなかなか綺麗なものだった。この長い旅行中、後にも先にもこんなにいいホテルに泊まったことはない。値段的には、実は河回マウルの民泊(約2500円)が韓国からタイまでの旅行をとおして最高値だったと思うから、それでも安いが。
 その後、荷物を部屋において、両替するために彼がまだうろうろしていた。「どこへ行くのだ」というから「中国銀行、両替」というとまた勝手に案内してくれ、勝手に両替を請け負ってくれた。
 そうして、別れ際に
「小費(チップ)」
と手を差し出してきた。まあ、途中からそう予想はしていたが、「お前が勝手についてきただけだ」とやりあう気力はなかったし、途中で追い払わなかった僕も悪い。そこで10元(約150円)札を渡すと。
「不好意思(わるいねぇー)」
と言って満面の笑みで去っていった。
 以上のチケット売り場でのやり取りと、インチキガイドとのやり取りが僕にとっての重慶の点景だ。
 一人旅の寂しさは、募るばかりだった。



重慶は霧深いまちだ。対岸まではロープウェイで移動する。


 船に乗り込むと、日本人とみたか、早速旅行社の人間らしき人が寄ってきた。どうやら、オプショナルツアーを売り込むつもりらしい。旅行社の人間は「小姐が来るからまってて」と言い残していったが、そこで登場したのが、劉敏(リィウ・ミン)小姐である。小姐といってももう30は軽く過ぎている、おばさんといって差し支えない感じの人だった。
 「白帝城は、真夜中に通り過ぎてしまうから、寄ることが出来ない」と言う。チケット売り場の女性とは言うことが違うので突っ込んでいくと、どうやら途中下船して行く気なら不可能ではないということらしい。長江ダムができると、白帝城は島になってしまうらしいし、白帝城はなんと言っても孫権に敗れた劉備が諸葛亮に後事を託す地である。「劉禅(劉備の子)に力がなければあなたが皇帝になってくれ」と劉備が諸葛亮に言った話は三国志演義だけでなく、正史にも出ている。劉備の人柄を表すようなストーリーだが、それだけになんとなしに白帝城にはあこがれていた。結局、あきらめた。
 船の中では、久しぶりに観光客に出会った。2等船室では、青島から来たという老夫婦と、福建省から来たという自称商売人と一緒になった。自称商売人は乗りのいい人で、僕にギターを弾いて歌うように何度かリクエストした。当時中国で流行っていた、刀郎という新疆を主題にする曲が多い歌手の歌を歌うと、大分僕のことを気に入ったようで、いろいろ親切にしてくれた。老夫婦は、仕事をやめてから中国各地を旅行しているのだ、と言った。僕が日本人でほとんど中国語も分からないまま旅しているのを聞いて、「You're very good!」とほめてくれた。
 オーストラリア人が3人乗っていた。別に、欧米人と華僑らしく北京語と英語を操る女性のカップルも乗っていた。僕らは、トランプゲームなどに興じて楽しんだ。
 困ったのは、商売熱心な劉敏小姐が、オプショナルツアーがある観光地に差し掛かるたびに、僕にその内容を中国語でわーっと説明して、「お手数だけど、オーストラリア人たちに英語で今のことを伝えてくれ」と来ることだ。中国語もろくに分からず、英語だって受験英語程度しか知らない僕が、にわかにトリリンガルをやるのはちょっと大変すぎた。
 船の上ではマージャンをやっている人がいた。マージャン嫌いでない僕がそれを見ていると、
「やらないか―」
と誘いをかけられた。
 簡単に結末を語れば、1万円弱騙し取られた。僕以外の3人はグルで、いかさまマージャンなのであった。僕は最初賭けではないと思っていたが、いざ席に着くと一点100元だかのとにかく日本の物価から考えても高額なレートでやるという。普通なら1元くらいのものだったと思う。その時点でやめるといって引き下がればよかったが、「中国人とマージャンで交流」という事態に判断能力がマヒしていたのか、席を立てなかった。
 敵は三順もしない間に上がりを積み重ねていったので、あっという間に僕の手元から金はなくなった。もう金がないんだ―といってやめたいという僕を、彼らはあまり引き止めることはなかった。それはそうだ。この地域では1ヶ月ぶんの給料ぐらいの金額をものの10分程度で稼いだのだから。
 劉敏小姐が心配していたらしく、
「船にはいかさま師がいるから注意しなさい、と言おうと思っていたところなのよ」
と部屋に戻った僕に結末も聞かず言った。
「いくら損したんだ」
と聞いたのは、自称商売人の彼だった。
「中国にはいい人が多いが、悪い人もいるのだ」
厳しい顔つきで、老夫婦の主人のほうが僕を諭した。
 船は2泊3日で宜昌に到着するが(3泊目の朝に到着したのかもしれないが、忘れた)、船の中ではこんな感じだった。



新張飛廟は由緒もなにもなかったが、夜景が美しかった





 張飛廟は、長江ダムの完成にともない、水没してしまうそうだ。水没にともなって移転するそうだが、張飛の首が流れ着いた由緒ある場所にたつ張飛廟を見るのはこの機会を逃せば不可能だろう。そう思って、例によって張飛廟の説明をお願いに来た劉敏小姐に、古い張飛廟に行くんだよね、と聞くと、
「新的」
新しい張飛廟に行くという。
「うそだろ、もうすぐダムが出来て水没してしまうのに、何故新しいのに行くのだ―」
びっくりした僕は、筆談でなく、おそらく当時もてる最大限の中国語力でこう伝えた。すると、劉敏小姐は、
「一様的(いっしょじゃないか)」
と、何でそんなことを気にするんだ―といった顔で首をかしげた。
 このやり取りが、僕の今回の史跡めぐりの旅を象徴的にあらわしているような気がした。

  そんなこんなで、寂しさは結局まぎれることはなかったと思う。張飛廟は、いかにも由緒なく、ただ三国志の物語にそって銅像などを展示しているようなものであった。張飛廟から眺めた対岸の夜景が、神秘的に美しかった。
 中国人の乗船客は、張飛廟からでると、10人くらいで食堂に入って皆でご飯を食べていた。劉敏小姐が気を利かせて、僕も一緒に食べるように言ってくれた。
 食堂ではお米が足りないらしく、マントウ(肉まんの生地だけで中身がないものを想像すればよい)で誤魔化していたが、野菜の炒め物、チンジャオロースーやらホイコーローやら、スープなど、何の変哲もない普通の中華料理ではあるが合計10皿以上の料理が食卓に並んだ。

 おいしかった。このときの食事は、涙が出そうなくらいおいしかった。
 中国歴史の旅の間、何週間かくらい、ずっと一人でご飯を食べていた。食堂の従業員と仲良くなって話したり、いろいろしゃべる機会はあったが、ひとりの食事が寂しさを増幅させる原因になっていたのかもしれなかった。
 司法試験の受験勉強をしているころ、1週間くらい誰とも会話しないということもしょっちゅうあった。もちろん、食事も毎日一人だった。その時よりも寂しさを感じていたのは、異国ならではの不安ということなのだろうか。

 船を下りれば、またしばらく一人だな―
 僕は満腹になって、船までの短い道のりを歩き出した。