2012年5月3日木曜日

程陽の観光化とありのままさー文明化と観光化の功罪について(3、完)


   程陽についてワゴンから降りると、入場券を買うように言われる。なんと60元(約780円)だという。中国の観光地の入場料は特に物価と比べても軒並み高いことは承知していても、例えば桂林から三江まで200km弱のバス代が40元であったことからすると、破格の出費である。「学生証があれば半額」というので、日本の学生証をみせるとあっさり半額にしてくれたが、これは蛇足である。
   今回の旅ではこれまで一度も入場料は払ってはいない。高定等が観光地化されていないというのはまさにこの点に現れている。もちろん、入場料の件を取り上げたのは高額だというような不満を言いたいからではない。文明化と観光化の功罪についての問題に直結するからである。

   たしかに、これまで見てきたどんな風雨橋よりも、程陽のそれは素晴らしかった。1916年に建築され、5つの櫓をもつこの橋は風雨橋の中でも最大規模で保存状態も良好なものだということであった。そして、ライトアップのための照明も準備されていたし、付近の散策道もよく整備されていた。橋の付近は清掃が行き届いており、ゴミも見当たらない。これに対して、これまで見てきた華錬等の風雨橋はゴミが橋内や周辺に無造作に捨てられたままになっていたし、美しい高定の村でも路上に目を転じればタバコの吸殻やら、ビニール袋やらのゴミがとても目立っていた。

程陽風雨橋は噂に違わず素晴しいものであった

   景観の美しさを保ち続けるためには、観光化につながることは避けられないのかもしれない。高い入場料があるからこそ、清掃員がゴミを片付けてくれる。あたりまえのことだが。そして、高い入場料に見合った魅力を作り出さねばならず、その工夫がたとえばライトアップであったりとか、作り物の民族舞踊のショーになるのであろう。
   独峒の数年前の写真をみると、今ほど無機質なコンクリートの無機質な建築物目立つ状況ではなく、なお風情をとどめているように見える。先に書いたように、今は少なくとも中心部にはあまり風情は感じられない。鼓楼の隣に4階建てのコンクリートビルを建てるのだけはやめて欲しかった。行政による観光地化のための規制が存在しないからこのようなことになるのである。ついでだが、程陽で田おこしを見た際には、みな小型の耕運機を使っており、馬や牛は使われていなかった。

   そして、風雨橋を渡ると、英語の記載まじりで外国人を含めた観光客をあてにしていると思しきゲストハウス兼レストランが何軒もあった。風雨橋の中は、集会場になっているのではなく、土産物の売り場と化しており、私が到着した時間は既に遅かったから皆帰り支度をしていたが、土産物を勧められるかわりに宿を勧められた。
   客引きには従わなかったが、私が宿泊したのもそのようなゲストハウス兼レストランのうち最も環境が良さそうに思えたところだった。既に書いたように私も24時間いつでも出るホットシャワーと、インターネットという文明の魅力にあえなく屈した旅人である。そしてその文明の魅力は、高い入場料やライトアップ等に象徴される観光化と切り離して考えることはできない。

   程陽の風雨橋は素晴らしかったが、既に高定のまちを見てきた私にとってはそれ以上に大きな見どころがあるとも思えなかった。作り物の舞踊にもそれほど興味はない。もっとも今にして思えば独峒の踊りと比較してみても良かったかもしれないが。
   それで、翌朝便利で清潔な食堂にてトン族名物の油茶を朝食にした私は、近郊を含めたまちをぶらぶらすることに決めた。

トン族名物の油茶


   少し本筋からそれるが、トン族の村は子どもが多い。これは高定でも程陽でもどこでも変わらない。そして、20代から40代くらいまでの若者、とくに男性が見当たらないのが特徴的だ。おそらくは、農民工として広東省などの都会に出稼ぎに行っていると考えられる。赤子をあやしてるのは半分かそれ以上が母親でなくて祖母にあたるおばあさんであるような印象だった。高定村の呉さんの話や、このような現実を見るにつけ、おそらく私を含めた多くの観光客が好ましく思わないであろう、風雨橋での土産物売りや客引きを責めることはできないと感じる。トン族の名誉のために付け加えておくと、個人的にはナシ族の次くらいに貧しいながらも廉潔かつ暖かい心を持っている民族だと思う。華錬で途中下車する際、座席にデジタルカメラを忘れかけた僕に、トン族の子どもはすぐ声をかけてくれた。ほうっておいてもし私が気づかなければ、容易に数百元の収入になったであろう。高定村の呉さんの無欲なガイドの申入れや、独峒の宿のおかみさんがワゴンを止めるまで世話を焼いてくれたことなど、他にも例を枚挙するに暇がない。貧しさに対して良心を屈することのないトン族には敬意を抱く。

   決して以上のような小難しいことを考えながら散策していたのではない。当時もやもやっとしていたことを今整理しながら文章にしているだけである。
   まちの美しさは到底高定村には及ばないが、まち歩きは心浮き立つものだ。河で洗濯する人、元気そうに小学校に登校する沢山の子どもたち、幼稚園で走り回る子どもたち、集会場にもなっている鼓楼でトランプや将棋に興じる老若男女、懐かしい風景にたくさん出会うことができた。

   特に、程陽の風雨橋から一時間強、最後は山道を歩いてようやく到着する吉昌村の印象はよかった。徐々に強くなる雨のため、私はかっぱを着ていたが、それがよほど変だったのか、山道ですれ違うトン族の人たちは物珍しそうに見ていく。トン語の挨拶は最後まで勉強しなかったので、日本語で「こんにちは」と僕が言えば必ず満面の笑みでお返ししてくれる。これまで割に旅行者に無関心にみえたトン族のよりは、明らかに積極的だった。
   茶畑が広がる未舗装の山道を30分強登ってたどり着いた村は本当に小さかった。高定同様、あるいは小学校を含め幾つかのコンクリート建築がある高定よりもより厳密な意味で、木造建築しかない、昔ながらの村であった。鼓楼周辺ではおじいさんとおばあさんがすることなさげに座っており、鼓楼の隣の舞台では幼稚園児くらいの子どもが走り回って遊んでいた。子どもたちは僕の姿をみとめるとキャアキャアと大きな声をあげ、ちょっかいをかけては逃げるということを始めたので、私も童心にもどって鬼ごっこに興じた。本当に無邪気な子どもたちだった。おじいさんおばあさんは僕が逃げられる姿をみて、あわてて逃げようとした子どもがスリッパを落としたのを見て歓声をあげていた。本当に平和な時が流れていた。
   あまり遊んでいてもしょうがないので、しばらくして小さな村をひと通りながめて、座っているおじいさんおばあさんたちと適当な会話をして写真を取らせてもらったりすると、村を後にした。比較的若いおじさんが、「これでもう帰っちゃうのか」と残念そうに言った。
   このあと、平埔村という別の村にも行ったが、こちらは国道沿いに面しており、かつ風雨橋のような観光上の目玉もないせいか、観光地化はされていないが中途半端に文明化されたトン族の村になっていた。程陽橋付近のように観光化の恩恵を得ることもないので、あえて古いままの姿を残す必要がないのであろう。観光化と無関係に文明化が進んでいるこの村は、ある意味であるがままの現在のトン族の村の姿かもしれなかった。

吉昌村の子どもはあくまで無邪気だった。


   近郊の村むらを散策して戻ると、もうお昼過ぎだ。今日は深夜に桂林から春秋航空で上海にもどるが、三江発桂林行きの最終バスの時間は早いので、そろそろ出発しなければならない。
   観光化・文明化の功罪を語るのは難しい。
   ただ、宿泊していたゲストハウスの前の川沿いに机を出してもらい、新たに落成したという作りものの鼓楼と、昔ながらの小さい風雨橋を眺めながら、ユキヤナギのような花が舞い散るなかで昼からビールをあけながら味わった昼食は、この旅のなかでも格別なものであったことは確かである。そして、観光化・文明化されていないがゆえに美しい高定の村の魅力よりも、私はホットシャワーとインターネットという文明の魅力にあっさり屈したこともまた、紛れもない真実だった。
   ビールでほろ酔いになって気分が良くなり、三江行きのワゴンを捕まえて飛び乗った私は、もはやその問題を考えることはなかった。
  はっきり言えそうなことは、高定村が観光化の道を選ぶとしても、そうでないとしても、あと数年もすれば手付かずの高定村の風景を見ることはできないであろう、ということである。

この昼食の味は格別だった

                                                                                                                 (トン族の村訪問記、了)

2012年5月2日水曜日

高定村の美しさとその影にひそむものー文明化と観光化の功罪について(2)


   独峒のホテルは一つしか営業してなく、選択の余地もない。部屋も見ずに宿泊を決めたところ、部屋の一角にあるトイレ兼シャワールームにはかつて湯沸かし器が取り付けられていた形跡はあるものの、今はなにもついていない。夜は冷えるし、とても冷水シャワーを浴びられたものではないので、我慢してシャワーは浴びないことにした。

   朝起きて腹ごしらえをすると、高定村を目指し出発しようとした。前日に宿の主人から聞いた話では、祭りのために頻繁にワゴン車が行き来しているから、それを捕まえれば5元で行けるということであった。そこで、高定村の方向から来るワゴンに片っ端から「高定村に行くか」と聞くと、ことごとく「干冲だ」と言って否定された。干冲は高定村と同じく、独峒よりもさらに奥まった地にあるトン族の村だが、トン族の村の中では人口最大らしい。なかなかワゴンを捕まえられない僕を見かねてか、宿のおかみさんがちょうど高定村から来たワゴンをうまく捕まえて話をつけてくれた。おかげで、なんとか出発することができた。

   ワゴンは渓谷と美しい棚田の広がる田舎道を快走して、20分ほどで高定村の入り口についた。入り口は鼓楼のようなゲートになっており、そこから坂を下って村の中に入っていく。坂をすこし下ると、ぱっと視界が開けた。

   そうして目に飛び込んできたのは、タイムスリップしたのではないかと錯覚を覚えるほど、木造建築がひしめきあっている風景であった。正直、まちなかについては独峒の村には多少失望していた。コンクリートづくりの無機質な建物が中心部にはかなりの量あり、鼓楼の隣ですらそうであった。少数民族の隠れ里のようなものを勝手に想像していた私の期待はもろくも裏切られていたのであった。
高台から望む高定の村。4本の鼓楼が美しい。右はじには小学校も見える

   ところが、高定村はどうか―。その勝手な私のイメージそのもの、いやそれ以上の状態がなおも保たれていたのであった。わたしは高揚する気持ちでまちのなかを歩きまわった。まちはずれにも足を伸ばしてみたが、風情のある小さな風雨橋や、馬を使って田おこしするトン族の姿を見たり、ここでもタイムスリップしたかのような風景を満喫することができた。それにしても、鼓楼が数本立ち並ぶ姿は圧巻であった。私はしばし疲れを知らずに歩きまわり、気づけば歩き疲れたことから、5本ある鼓楼のうち一つの前にある広場のベンチに腰掛けて休憩をすることにした。


   呉智明さんに話しかけられたのはここであった。
   おそらくトン族の人はシャイなのだと思う。あまり外から来た観光客に積極的に声をかけることはしない。もっとも、こちらが挨拶をすれば必ずはにかんだ様子を見せながらも挨拶を返してくれる。宿のおかみさんやご主人がそうであったように、基本的にとても親切だ。高定村は観光地化されていないとはいえ、おそらく日に数人程度は観光客が足を踏み入れるところであるから、村人としては観光客に慣れていないはずはない。しかし、観光客なれしているからいつものこととして放置しているものとは思えない。いずれにせよ、私の経験上、珍しく外国人が来たりすると、すぐに町中から「何事だ」とばかりに老若男女が集まって来ることが普通だったので、この点はやや意外だった。
   だからというか、呉さんも最初は私が腰掛けて使っていたノートパソコンを遠巻きに見つつ、「それは何だ」という風に声をかけてきた。そこから「旅行に来たのか」「どこから来たのか」という質問があり、私が日本人だということが呉さんに分かるまで時間はかからなかった。
   呉さんも話好きなのだ。今日は朝から山に木を切りに行って疲れて今休憩しているんだとか、日本と中国とどっちが綺麗だと思うとか、僕の持っているカメラやスマホの値段であったりとか、家族構成であるとか、いろいろな話をした。歴史好きでもあるらしく、中国と日本はもともと同根なのだ、秦の始皇帝の時代に中国人が日本に渡ったのが根付いているのだ(これは徐福のことを指したのだろうか)とか、日本には女帝がいたのかとか色々な話を投げかけて来た。私もこの手の話は嫌いじゃなく、日本人は皆三国志が好きだとか、中国の女帝は武則天(則天武后)ただ一人だが日本には昔女帝が数人いたとかなどと応答していた。徐福のことは誤解があると思ったが指摘するのはやめた。

   そうこう話ししているうちに、「最近このあたりはどんな変化があったか」と、文明化・観光化がどう進んでいるかという問題意識を念頭においた質問をしてみた。私の予想していた答えは「大分便利になった」とか、「伝統が廃れてきた」というようなものであった。
   ―農村にはなにも変化なんてないよ。
   呉さんはそう吐き捨てた―というほどではなかったが、淡々とそう答えた。これは意外だった。実際は変化がないはずはない。電気は既に行き渡っているし、家々の屋根には衛星放送用とみられるパラボラアンテナが付いており、なんといってもこんな山奥でも携帯の電波はアンテナ5本分、完璧に入っていたのだ。そのおかげで、私はこんな中国の辺境で日本からのショートメールに返信して用事を済ますことも出来たのである。
   「道路は出来たけど、農村の貧しさはずっと変わらないよ」呉さんはこう続けた。理解した。それはそうだ。呉さんらにとってまず最大の関心事は生活の向上なのだ。そしてそれは何も変わっていないのだ。村の入り口付近に、やや異色なコンクリート三階建ての建物があり、小学校である。3階には「国家最貧窮地区に義務教育を」といったようなスローガンが記載されている。そう、その美しさと裏腹に、高定村は間違いなく「国家最貧窮地区」なのだ。小学校は国の政策による援助で建てたものであろう。
   意外にも電気は1991年には通ったという。それにしては確かに他の部分の変化が乏しい。独峒のようにコンクリート造りの建物が増えていたっておかしくはないはずだ。そうすると、やはりまだまだ高定村は他の村に比べて文明化から遅れをとっているようである。そして、私が感動したところのまちの姿はその犠牲のもとに成り立っていた。

   私がこのまちの美しさを称えると、呉さんは「そうかい。私達にとっては何年も毎日見続けている風景だから、よくわからないよ」と、別に皮肉る様子でもなく、やはり淡々と続けた。いつからこういう生活を続けているのだろうと呉さんの生年を聞くと、1971年ということであった。そうして話題は私の生年やお互いの家族のことに移り、まちの文明化・観光化のことを改めて聞く機会を失った。
   呉さんはなおも饒舌に話しを続けた。風水を見ることができるらしく、このまちがいかに風水上よいかを熱心に語っていたが、私は半分も理解できなかった。さらに、私が望遠鏡を持っていないことを知ると、「望遠鏡は観光に必須だ!」と驚いて「次は必ず持って来い」と、これは別れ際まで3度くらい強調された。中国各地の名勝の話をしていると、「今度来たときは私が湖南、貴州、広西省のあたりを案内してあげるよ。少数民族はけっして開放的でない人も多いから、私がついていってあげれば便利だ。もちろん、宿も食事も私のおごりだから」と言ってくれた。これは決してセールストークでも嘘でもないだろう。日本からの距離や訪問に要した時間については聞かれなかったが、ちょっと足を伸ばせばこられるところくらいに思ってくれていたのだろうか。「次回来たら必ず私を尋ねてくれ」と鼓楼から路地を少し入ったところにある自宅の場所を案内してくれた。
   記念に一緒に写真撮影をしよう、というと「こんなボロっちい格好だから」と着ている服をさして固辞された。確かに、着ているジャンバーはあちこち破れてボロボロ、ズボンも破れや汚れが目立ち、気持ちはわからなくなかった。
   自宅の場所から鼓楼前の広場にもどると、ちょうど二人の娘さんが小学校から下校してきたところだった。トン語で呉さんは何かしゃべっていたが、私が二人にカメラを向けると、にっこり微笑んでよい被写体になってくれた。
   「そろそろ行くよ」と別れを告げる僕に、呉さんは「次は必ず望遠鏡を持って来るんだぞ」と念を押した。
   ―残念ながら次はないだろうな―
   多少後ろ髪を引かれるような思いで、僕は呉さんと別れた。

呉さんの二人の娘さん


   呉さんからまちの実情を聞いた私は、多少複雑な気持ちにはなったが、観光化されていない美しいまちを見ることができたことに大いに満足し、小学校などをさらに散策したのちに、ワゴンを捕まえて独峒に戻った。

   独峒に戻って宿で荷物を受け取ると、「今日ももう一泊するのか」とおかみさんから聞かれた。呉さんと話しているうちに高定村で大分時間をとったので、すでに昼の2時を回っていた。このあと、独峒からすこし三江寄りにある村むらの風雨橋をみて歩こうと思っていたが、三江に向かう最終バスの時間に間に合うか少し怪しい時間である。私は、「最終に間に合うようなら三江に行くよ。間に合わなかったらまた戻ってくる」と言い残して出発した。

   華錬という村で途中下車して、平流、八協という村をやや急ぎ気味で歩いて風雨橋を眺めつつ歩いて行くと、三江行きの最終バスは逃したが、乗合ワゴンを捕まえることができた。下車して、さらに有名な観光地である程陽に向かうワゴンを捕まえた。

華錬の風雨橋。これから八協まで幾つかの美しい風雨橋が眺められた。


   観光地化された程陽には外国人向けのゲストハウスがいくつもあり、ホットシャワーもWIFIも完備されていると聞いていた。観光地化されていない場所がよいなどと偉そうなことを言っていた私は、何のことはない、わずか1日でホットシャワーとインターネットという文明の誘惑に負けたのであった。
   やや水圧が足りないもののホットシャワーを存分に浴びつつ、高定村にホットシャワーはあるのか、呉さんたちはどのくらいの頻度で浴びられるのだろうか、などということを少し考えた。

2012年5月1日火曜日

独峒のユエイエー文明化と観光化の功罪について(1)




   独峒の町の鼓楼前は、民族衣装を着たトン族の女性と、笛を吹く男性と、それを見る大勢の観衆で大賑わいだ。童謡で「村の鎮守の神様の~今日はめでたいお祭り日~」というのがあるが、まさにその歌がぴったりあてはまるような感じだ。村民は輪になって掛け声を挙げていたが、私にもう少し勇気と強引さがあれば、一緒に輪に入ってはしゃいでいたかもしれない。

   桂林といえば水墨画の如き奇岩の風景が有名であるが、それに一目もくれずトン族の村にやってきたのは理由がある。一つは、8年前の旅行で十分すぎるほど満喫していたからで、二つ目は、8年前は無職でほぼ無制限に時間がありながらも、容易には訪れ難い少数民族の村を旅することをしなかったからである。また、なぜ「トン族」かといえば、城のような櫓を組んだ「風雨橋」や村の象徴的な存在である「鼓楼」の美しさを写真で見て大いに惹かれたからである。8年前の旅行の時はその存在を知らなかった。

   ここ数年、大型連休の際には、溜まっていた仕事を片づけたり、大型事件の準備を集中して行ったり、普段はなかなか手を付けられない原稿やらなにやらを処理したりと、結局十分に休養をとることができないままだった。それがたたってか、昨年の秋ごろからほとんど恒常的にやる気が起きず、仕事に集中できない時間が多くなり、結果的に仕事の効率が落ちる状況が続いていた。そこで、なかば強引に5日の休みをとって旅行に出ることにしたのである。

   8年前の旅行の際も少数民族に関する場所をあれこれ訪れたのだが、どうも観光用に作られた感じのする場所が多かった。新疆ではウイグル人の踊りを見たり、龍勝ではミャオ族の棚田を見たり、貴州や昆明では少数民族の文化村というところに立ち寄ったり、麗江ではナシ族の文化に触れたりはしたが、いずれも観光=金儲けのために作られた感を否定することができなかった。そういう作り物のようなものより、例えば蘭州近郊の炳霊寺でたまたま出会ったチベット僧であるとか、ウイグル人ならばウイグル人街に飛び込んでなにがなにやら分からないままにコミュニケーションを取ったこととか、麗江の近郊をトレッキングしているときにたまたま家に招いてくれたナシ族のおばあさんとか、ベトナムのバクハで出会った花モン族の人々とたまたま話したこととか、至って自然な出会いが強く印象に残っている。
   そういうわけで、トン族についても、できるだけ観光化されていないところ、生のトン族に触れられるところを旅先に選択しようとした。そうして選んだのが、冒頭の独峒とその近郊の町々なのであった。昔ながらの村落と、トン族の象徴たる鼓楼と風雨橋がそのままに残っているらしいということであったからである。

   独峒とその近郊の町々はそのような私の期待にまったく違わないものであった。5月1日は労働節(メーデー)で、中国でも大型連休の時期である。にもかかわらず、おそらくその日に独峒を訪れていた観光客は私を除き中国人が10人以下、宿泊したのは4人だけであった。
   独峒の町は、今や決して辺鄙とまでははいえないとおもわれる。私が事前にネットで調べた情報だと、三江の町からバスで2時間半を要するということであったが、実際には一時間強で到着した。後に触れるが、高名な観光地である程陽は三江から約30分であることと比較しても、気になる程度の時間ではない。なお、公式的な路線バスは30分に一本であるが、乗合のワゴン車が頻発している。12時40分のバスに乗ろうと窓口でチケットを買おうとした私が実際に購入できたのは2時40分のものであった。あまりにも待ち時間が長いと思ってバスターミナル付近を探すと、案の定乗合ワゴンが乗客を手ぐすね引いて待っているところで、ものの10分も経たぬうちに出発することができたのである。ちなみに、料金は路線バスが11元であるのに対し、乗合ワゴンは15元であり、気になるような差ではない。私も2時40分のチケットを破棄してワゴンに乗り込んだことはいうまでもない。
   一方、数年前の情報では、路線バスが1時間に一本であり、独峒に少なくとも4件のホテル・旅館があったようであるが、今は一つしか営業していない。つまり、交通の便が向上して、人の往来が活発化した割には、訪れる客は減ったということである。

   独峒の町がいかに観光化されていないかを長く述べすぎた。
   桂林からバスで3時間かけて三江に到着した私は、そうして2時ころには独峒に到着した。他のトン族の村でもそうであったが、トン族はわりあい引っ込み思案の方が多いのか、あるいは観光地化されていないためなのか、逆に私のような旅人が時に訪れることに慣れているのか、明らかにストレンジャーである私に対しても全く自然体であった。他のまちであれば、観光地か否かを問わずに客引きに取り囲まれるが、誰一人声をかけるようなことはして来なかった。それで、とりあえず宿を決めようと小さな町を歩き回ったが、それらしい場所では「もう営業していない」と断られたり、あるいは全く開いていなかったりと、私はまず宿に窮することになってしまった。
   仕方なく、バックパックを抱えたまま町をウロウロしてみた。メインストリートは、基本はトン族の木造建築であるが、中にはコンクリート造りの4階建て以上の建物がいくつかあり、風情を損なっていた。ただ、5分もまちの外に歩けば、小さな風雨橋があったり、見事な棚田が一面に広がる光景があったりと、風情ある風景が広がっていた。
一歩まちを出ればのどかな田園風景が広がっていた


   まちはずれの棚田をうろついてメインストリートに戻ってくると、きっちりした民族衣装とミャオ族ににた金属の髪飾り(というか冠に近い)に身を包んだ少女たちが勢揃いしているのが目に入った。トン族の女性は今でもほとんど民族衣装を来ているが、それはかなり青に近い紺のシャツと、黒のズボンというお決まりの格好である。髪飾りをつけた少女たちの服装は明らかにそれと異なり、ハレの日の格好であることを物語っていた。
   メインストリートの中心にある鼓楼の周りには、町中総出のような感じで人だかりができていた。あとで村の人に聞いたところによると、5月1日の労働節の祭だ、という人と、ある男性が女性に愛を誓う祭りだ、という人もいてはっきりしなかった。今調べると、トン語「月也(ユエイエ)」という祭りであり、トン族のある村が別の一つの村をもてなす伝統的な社交活動をさすとある。昼には老若男女が民族衣装で正装し楽器をならして踊り、夜にはトン族の民謡を男女で唱和し(原文は[対唱]で、現代風にいうとデュエットである)、未婚の男女が愛を語らうということである。
   確かにほぼそのとおり、鼓楼の前でまず若い男性たちが笙に似た楽器を鳴らし、その後民族衣装に身を包んだ女性が輪になって踊った。中央で一人が一節を歌い、輪になった皆が次の一節を皆で続けるという掛け合いを繰り返しながら踊り、どんどん盛り上がって行く。掛け声は聞いたままでカタカナにすると「ヤーモホイー、イエモッホイヤ」「ヤー、モヘアッホヤ」という2種類のくり返しなので、単純である。皆弾けるような笑顔で、声を張り上げて踊っているのにつられて、思わず冒頭のように加わってみたくなったというわけだ。
   踊り終わると、民族衣装の女性を先頭に一列にならんだ。何故か女性は折りたたみ傘をさしている。先頭の女性だけは蛇の目傘に似た伝統的な傘をさしていたので、現代は折りたたみ傘で代用しているのかもしれない。この女性たちを先頭に、後には男性がつづき、派手な爆竹音の中、皆でまちの外の方向に歩き出した。その日の夕食時にレストランの人に聞いたところによると、まちをでていったあと、平流という三江よりのまちにて男女が宴会を行なっているということであった。確かにユエイエの説明どおりである。



   独峒はおよそ観光客を想定しているようなまちとは思えないし、実際に訪れた観光客も既に書いたようにごくわずかであった。この祭りは観光用のものでなく、紛れもなくトン族本来のものであったわけである。たまたま遭遇できた私にとっては、この上ない幸運であった。

   行列が去って祭りの騒ぎが嘘のように一段落すると、さっきまで固く門が閉ざされていたホテルの門が開いている。一泊50元のツインの部屋にチェックインし、日本のパスポートを見せると、少し珍しがられた。宿のおかみさんは気のいい人で、10年前に宿泊したという北海道在住の一家の写真をわざわざ見せてくれた。
   私のあとにチェックインしようとしていた二人も珍しがり、さらに偶然があって夕食をともにすることになった。陳さん、戴さんという二人組で、湖南省から自家用車で旅をしているという。陳さんは私より2つ年上で「小小的生意」、ちっちゃな商売をしてるよーと言っていた。が、旅行期間を聞くと「やめたいと思う時まで」と言っていたくらいであるから、きっと商売が軌道にのっているのであろう。そこにレストランの店員なのか、たまたま居合わせていた人が湖南省出身とのことで、二人と意気投合し、結局4人で「米酒」という日本酒によく似たお酒と、ビールを空けつつ大いに盛り上がることとなった。平流というまちで、祭りの一行が宴会を行なっているというのはその店のトン族の店員から聞いたものだ。陳さんが「それはよそ者でも参加できるのか」と聞くと、「もちろん大丈夫だ」というので、「ではこれから行こうか」という話になりかけた。しかし、陳さんがつづけて平流までの時間を聞くと「すこし遠いなあ」ということで、行く流れではなくなった。

   少し惜しい気がしたのは間違いないが、それでもできるだけ観光化されていない少数民族の村を求めて来た私にとって、十二分すぎるほどの一日になったことは間違いなかった。

2012年4月30日月曜日

桂林-バックパッカー再び



   上海を1時間半遅れで飛びだった飛行機は、苛立った乗客をのせて桂林の空港に滑りこんだ。ただ、私は遅延についてあまりジリジリしていなかった。中国の国内線が遅延するのはいつものことだし、どのみちその日は桂林で泊まるだけで、他の予定がなかったからだ。ジリジリするだけ損であるし、バックパッカーはそんなことで苛立ってはいけない。
   桂林は8年ぶりだった。前回訪れたのは真冬だったから寒いくらいだったが、5月の今回は飛行機のタラップから足を一歩踏み出すとまるで日本の真夏のようなむわっとした空気が体をつつみ、思わず「あつっ」ともらしてしまう。隣を歩いていた中国人も「暑すぎる!」と言っていたくらいだから、決して誇張ではあるまい。
   空港からのリムジンバスを降り、多少の値段交渉の上、ホテル(といってもドミトリーだが)に向かうバイクタクシーに乗る。バイクは、川沿いに桂林の町を北上した。もう真夏と言っていい気候だろう、老若男女は短パンTシャツのような軽装で河原の公園にて涼をとっていた。既に9時を回っており、日本では考えられないほどの人出だ。バックパックを背負って旅にでるのも5年ぶりくらいだろう。バイクタクシーにのって地方都市の喧騒を突き抜けて走るうちに、懐かしいバックパッカーの感覚が蘇った気がした。
   ホテルはやけに空いていた。6人用のドミトリーは3人しか入っておらず、他に宿泊者も見かけなかったから、全部で3人だろう。拡張工事中か何かなのか、解体中のビルのような、粉っぽい匂いと感じがし、少々息がしにくかった。部屋は清潔だが、このへんの問題で宿泊客が少ないのかもしれない。


   荷物を置いて、遅い夕食をとりに外に出た。既に10時を回っていたし、翌日5月1日はメーデーで休日のため、ほとんどレストランは開いていない。10分ほど徘徊して、なお開いていて、他に客が入っているレストランに目をつけて席につく。地元客で賑わっている店はたいがい美味しい。
   トマトと卵の炒めものと、焼き豆腐を注文し、ビールを飲みながら一人で久々の休日とバックパッカー気分を味わっていると、店員の一人が声をかけてきた。旅行者然としていたからであろうか、「桂林名物だから食べてみろ」(前の客の残りものであったのはご愛嬌だが)と鍋物を勧めてきたのである。この店員はこれまた前の客の残したビールを大事そうにちびちびやりながら、隣の席でその鍋を食べている。私も自分の皿とビールとともに移動した。「桂林名物」はなかなかうまかった。牛の腸だったか、なんと言っていたか忘れてしまったが、見た目は切り干し大根を更に細長くしたような干豆腐という感じである。
   そうして話しているうちに、私が日本人だということがわかると、彼は「こんにちは」「おいしいですか」とカタコトの日本語をいくつか喋り出した。なんでも、学生のころ日本語を勉強しようとトライしたが、50音をなんとか覚えるくらいでやめてしまったそうである。
   そのあとも色々話をした。私がこれまで訪れた地について、お互いの家族構成、日本と広西省の収入比較、彼は結構話し好きなタイプと見えて、話しだすと止まらない。なかでも印象深かったのは、日本のアニメの話である。彼はアニメ好きと見えて、スラムダンク、ドラゴンボール、クレヨンしんちゃんなど、有名なアニメを次々と挙げ、非常に好きだと言った。その中で「イーシュウ」という名前がでてきて、何のアニメかわからずに戸惑った。わからないと私がいうと、「お坊さんが出てきて……」とさらに続ける。お坊さんをキーワードに「イーシュウ」に該当する漢字を色々思い出していくと、「一休」の字が浮かび、まさに一休さんの如く「チーン」と閃いた。私が両手の人差し指の指先で頭をぐるぐる擦り付ける動作をすると、彼も勢いよく「そうだそうだ」という。「一休さん」は我々の世代にとって知らない人がいないであろうほど有名だが、まさか中国人が知っているとは思わず、驚いた。あとで知ったことだが、「一休さん」は中国はおろかヨーロッパでも有名らしい。


一休さん好きのおじさんと


   そうこうしているうちに、久々にバックパッカーに戻った最初の夜は更けていった。ここ最近、海外は団体旅行か出張で上海などの都会に行くことが多かった。遅延にも苛立たない感覚、8年ぶりの桂林の喧騒をバイクタクシーで突き抜ける爽快さ、ちょっと空気の悪いドミトリー、いきなり入ったレストランで現地人と話し込むこと。
―こういう感じ、悪くない。
   久々にバックパッカーの感覚を取り戻したようで、仕事やなにやらに追われまくる日常で荒んだ心がすこし回復したような気がした初日だった。