2012年5月3日木曜日

程陽の観光化とありのままさー文明化と観光化の功罪について(3、完)


   程陽についてワゴンから降りると、入場券を買うように言われる。なんと60元(約780円)だという。中国の観光地の入場料は特に物価と比べても軒並み高いことは承知していても、例えば桂林から三江まで200km弱のバス代が40元であったことからすると、破格の出費である。「学生証があれば半額」というので、日本の学生証をみせるとあっさり半額にしてくれたが、これは蛇足である。
   今回の旅ではこれまで一度も入場料は払ってはいない。高定等が観光地化されていないというのはまさにこの点に現れている。もちろん、入場料の件を取り上げたのは高額だというような不満を言いたいからではない。文明化と観光化の功罪についての問題に直結するからである。

   たしかに、これまで見てきたどんな風雨橋よりも、程陽のそれは素晴らしかった。1916年に建築され、5つの櫓をもつこの橋は風雨橋の中でも最大規模で保存状態も良好なものだということであった。そして、ライトアップのための照明も準備されていたし、付近の散策道もよく整備されていた。橋の付近は清掃が行き届いており、ゴミも見当たらない。これに対して、これまで見てきた華錬等の風雨橋はゴミが橋内や周辺に無造作に捨てられたままになっていたし、美しい高定の村でも路上に目を転じればタバコの吸殻やら、ビニール袋やらのゴミがとても目立っていた。

程陽風雨橋は噂に違わず素晴しいものであった

   景観の美しさを保ち続けるためには、観光化につながることは避けられないのかもしれない。高い入場料があるからこそ、清掃員がゴミを片付けてくれる。あたりまえのことだが。そして、高い入場料に見合った魅力を作り出さねばならず、その工夫がたとえばライトアップであったりとか、作り物の民族舞踊のショーになるのであろう。
   独峒の数年前の写真をみると、今ほど無機質なコンクリートの無機質な建築物目立つ状況ではなく、なお風情をとどめているように見える。先に書いたように、今は少なくとも中心部にはあまり風情は感じられない。鼓楼の隣に4階建てのコンクリートビルを建てるのだけはやめて欲しかった。行政による観光地化のための規制が存在しないからこのようなことになるのである。ついでだが、程陽で田おこしを見た際には、みな小型の耕運機を使っており、馬や牛は使われていなかった。

   そして、風雨橋を渡ると、英語の記載まじりで外国人を含めた観光客をあてにしていると思しきゲストハウス兼レストランが何軒もあった。風雨橋の中は、集会場になっているのではなく、土産物の売り場と化しており、私が到着した時間は既に遅かったから皆帰り支度をしていたが、土産物を勧められるかわりに宿を勧められた。
   客引きには従わなかったが、私が宿泊したのもそのようなゲストハウス兼レストランのうち最も環境が良さそうに思えたところだった。既に書いたように私も24時間いつでも出るホットシャワーと、インターネットという文明の魅力にあえなく屈した旅人である。そしてその文明の魅力は、高い入場料やライトアップ等に象徴される観光化と切り離して考えることはできない。

   程陽の風雨橋は素晴らしかったが、既に高定のまちを見てきた私にとってはそれ以上に大きな見どころがあるとも思えなかった。作り物の舞踊にもそれほど興味はない。もっとも今にして思えば独峒の踊りと比較してみても良かったかもしれないが。
   それで、翌朝便利で清潔な食堂にてトン族名物の油茶を朝食にした私は、近郊を含めたまちをぶらぶらすることに決めた。

トン族名物の油茶


   少し本筋からそれるが、トン族の村は子どもが多い。これは高定でも程陽でもどこでも変わらない。そして、20代から40代くらいまでの若者、とくに男性が見当たらないのが特徴的だ。おそらくは、農民工として広東省などの都会に出稼ぎに行っていると考えられる。赤子をあやしてるのは半分かそれ以上が母親でなくて祖母にあたるおばあさんであるような印象だった。高定村の呉さんの話や、このような現実を見るにつけ、おそらく私を含めた多くの観光客が好ましく思わないであろう、風雨橋での土産物売りや客引きを責めることはできないと感じる。トン族の名誉のために付け加えておくと、個人的にはナシ族の次くらいに貧しいながらも廉潔かつ暖かい心を持っている民族だと思う。華錬で途中下車する際、座席にデジタルカメラを忘れかけた僕に、トン族の子どもはすぐ声をかけてくれた。ほうっておいてもし私が気づかなければ、容易に数百元の収入になったであろう。高定村の呉さんの無欲なガイドの申入れや、独峒の宿のおかみさんがワゴンを止めるまで世話を焼いてくれたことなど、他にも例を枚挙するに暇がない。貧しさに対して良心を屈することのないトン族には敬意を抱く。

   決して以上のような小難しいことを考えながら散策していたのではない。当時もやもやっとしていたことを今整理しながら文章にしているだけである。
   まちの美しさは到底高定村には及ばないが、まち歩きは心浮き立つものだ。河で洗濯する人、元気そうに小学校に登校する沢山の子どもたち、幼稚園で走り回る子どもたち、集会場にもなっている鼓楼でトランプや将棋に興じる老若男女、懐かしい風景にたくさん出会うことができた。

   特に、程陽の風雨橋から一時間強、最後は山道を歩いてようやく到着する吉昌村の印象はよかった。徐々に強くなる雨のため、私はかっぱを着ていたが、それがよほど変だったのか、山道ですれ違うトン族の人たちは物珍しそうに見ていく。トン語の挨拶は最後まで勉強しなかったので、日本語で「こんにちは」と僕が言えば必ず満面の笑みでお返ししてくれる。これまで割に旅行者に無関心にみえたトン族のよりは、明らかに積極的だった。
   茶畑が広がる未舗装の山道を30分強登ってたどり着いた村は本当に小さかった。高定同様、あるいは小学校を含め幾つかのコンクリート建築がある高定よりもより厳密な意味で、木造建築しかない、昔ながらの村であった。鼓楼周辺ではおじいさんとおばあさんがすることなさげに座っており、鼓楼の隣の舞台では幼稚園児くらいの子どもが走り回って遊んでいた。子どもたちは僕の姿をみとめるとキャアキャアと大きな声をあげ、ちょっかいをかけては逃げるということを始めたので、私も童心にもどって鬼ごっこに興じた。本当に無邪気な子どもたちだった。おじいさんおばあさんは僕が逃げられる姿をみて、あわてて逃げようとした子どもがスリッパを落としたのを見て歓声をあげていた。本当に平和な時が流れていた。
   あまり遊んでいてもしょうがないので、しばらくして小さな村をひと通りながめて、座っているおじいさんおばあさんたちと適当な会話をして写真を取らせてもらったりすると、村を後にした。比較的若いおじさんが、「これでもう帰っちゃうのか」と残念そうに言った。
   このあと、平埔村という別の村にも行ったが、こちらは国道沿いに面しており、かつ風雨橋のような観光上の目玉もないせいか、観光地化はされていないが中途半端に文明化されたトン族の村になっていた。程陽橋付近のように観光化の恩恵を得ることもないので、あえて古いままの姿を残す必要がないのであろう。観光化と無関係に文明化が進んでいるこの村は、ある意味であるがままの現在のトン族の村の姿かもしれなかった。

吉昌村の子どもはあくまで無邪気だった。


   近郊の村むらを散策して戻ると、もうお昼過ぎだ。今日は深夜に桂林から春秋航空で上海にもどるが、三江発桂林行きの最終バスの時間は早いので、そろそろ出発しなければならない。
   観光化・文明化の功罪を語るのは難しい。
   ただ、宿泊していたゲストハウスの前の川沿いに机を出してもらい、新たに落成したという作りものの鼓楼と、昔ながらの小さい風雨橋を眺めながら、ユキヤナギのような花が舞い散るなかで昼からビールをあけながら味わった昼食は、この旅のなかでも格別なものであったことは確かである。そして、観光化・文明化されていないがゆえに美しい高定の村の魅力よりも、私はホットシャワーとインターネットという文明の魅力にあっさり屈したこともまた、紛れもない真実だった。
   ビールでほろ酔いになって気分が良くなり、三江行きのワゴンを捕まえて飛び乗った私は、もはやその問題を考えることはなかった。
  はっきり言えそうなことは、高定村が観光化の道を選ぶとしても、そうでないとしても、あと数年もすれば手付かずの高定村の風景を見ることはできないであろう、ということである。

この昼食の味は格別だった

                                                                                                                 (トン族の村訪問記、了)

2012年5月2日水曜日

高定村の美しさとその影にひそむものー文明化と観光化の功罪について(2)


   独峒のホテルは一つしか営業してなく、選択の余地もない。部屋も見ずに宿泊を決めたところ、部屋の一角にあるトイレ兼シャワールームにはかつて湯沸かし器が取り付けられていた形跡はあるものの、今はなにもついていない。夜は冷えるし、とても冷水シャワーを浴びられたものではないので、我慢してシャワーは浴びないことにした。

   朝起きて腹ごしらえをすると、高定村を目指し出発しようとした。前日に宿の主人から聞いた話では、祭りのために頻繁にワゴン車が行き来しているから、それを捕まえれば5元で行けるということであった。そこで、高定村の方向から来るワゴンに片っ端から「高定村に行くか」と聞くと、ことごとく「干冲だ」と言って否定された。干冲は高定村と同じく、独峒よりもさらに奥まった地にあるトン族の村だが、トン族の村の中では人口最大らしい。なかなかワゴンを捕まえられない僕を見かねてか、宿のおかみさんがちょうど高定村から来たワゴンをうまく捕まえて話をつけてくれた。おかげで、なんとか出発することができた。

   ワゴンは渓谷と美しい棚田の広がる田舎道を快走して、20分ほどで高定村の入り口についた。入り口は鼓楼のようなゲートになっており、そこから坂を下って村の中に入っていく。坂をすこし下ると、ぱっと視界が開けた。

   そうして目に飛び込んできたのは、タイムスリップしたのではないかと錯覚を覚えるほど、木造建築がひしめきあっている風景であった。正直、まちなかについては独峒の村には多少失望していた。コンクリートづくりの無機質な建物が中心部にはかなりの量あり、鼓楼の隣ですらそうであった。少数民族の隠れ里のようなものを勝手に想像していた私の期待はもろくも裏切られていたのであった。
高台から望む高定の村。4本の鼓楼が美しい。右はじには小学校も見える

   ところが、高定村はどうか―。その勝手な私のイメージそのもの、いやそれ以上の状態がなおも保たれていたのであった。わたしは高揚する気持ちでまちのなかを歩きまわった。まちはずれにも足を伸ばしてみたが、風情のある小さな風雨橋や、馬を使って田おこしするトン族の姿を見たり、ここでもタイムスリップしたかのような風景を満喫することができた。それにしても、鼓楼が数本立ち並ぶ姿は圧巻であった。私はしばし疲れを知らずに歩きまわり、気づけば歩き疲れたことから、5本ある鼓楼のうち一つの前にある広場のベンチに腰掛けて休憩をすることにした。


   呉智明さんに話しかけられたのはここであった。
   おそらくトン族の人はシャイなのだと思う。あまり外から来た観光客に積極的に声をかけることはしない。もっとも、こちらが挨拶をすれば必ずはにかんだ様子を見せながらも挨拶を返してくれる。宿のおかみさんやご主人がそうであったように、基本的にとても親切だ。高定村は観光地化されていないとはいえ、おそらく日に数人程度は観光客が足を踏み入れるところであるから、村人としては観光客に慣れていないはずはない。しかし、観光客なれしているからいつものこととして放置しているものとは思えない。いずれにせよ、私の経験上、珍しく外国人が来たりすると、すぐに町中から「何事だ」とばかりに老若男女が集まって来ることが普通だったので、この点はやや意外だった。
   だからというか、呉さんも最初は私が腰掛けて使っていたノートパソコンを遠巻きに見つつ、「それは何だ」という風に声をかけてきた。そこから「旅行に来たのか」「どこから来たのか」という質問があり、私が日本人だということが呉さんに分かるまで時間はかからなかった。
   呉さんも話好きなのだ。今日は朝から山に木を切りに行って疲れて今休憩しているんだとか、日本と中国とどっちが綺麗だと思うとか、僕の持っているカメラやスマホの値段であったりとか、家族構成であるとか、いろいろな話をした。歴史好きでもあるらしく、中国と日本はもともと同根なのだ、秦の始皇帝の時代に中国人が日本に渡ったのが根付いているのだ(これは徐福のことを指したのだろうか)とか、日本には女帝がいたのかとか色々な話を投げかけて来た。私もこの手の話は嫌いじゃなく、日本人は皆三国志が好きだとか、中国の女帝は武則天(則天武后)ただ一人だが日本には昔女帝が数人いたとかなどと応答していた。徐福のことは誤解があると思ったが指摘するのはやめた。

   そうこう話ししているうちに、「最近このあたりはどんな変化があったか」と、文明化・観光化がどう進んでいるかという問題意識を念頭においた質問をしてみた。私の予想していた答えは「大分便利になった」とか、「伝統が廃れてきた」というようなものであった。
   ―農村にはなにも変化なんてないよ。
   呉さんはそう吐き捨てた―というほどではなかったが、淡々とそう答えた。これは意外だった。実際は変化がないはずはない。電気は既に行き渡っているし、家々の屋根には衛星放送用とみられるパラボラアンテナが付いており、なんといってもこんな山奥でも携帯の電波はアンテナ5本分、完璧に入っていたのだ。そのおかげで、私はこんな中国の辺境で日本からのショートメールに返信して用事を済ますことも出来たのである。
   「道路は出来たけど、農村の貧しさはずっと変わらないよ」呉さんはこう続けた。理解した。それはそうだ。呉さんらにとってまず最大の関心事は生活の向上なのだ。そしてそれは何も変わっていないのだ。村の入り口付近に、やや異色なコンクリート三階建ての建物があり、小学校である。3階には「国家最貧窮地区に義務教育を」といったようなスローガンが記載されている。そう、その美しさと裏腹に、高定村は間違いなく「国家最貧窮地区」なのだ。小学校は国の政策による援助で建てたものであろう。
   意外にも電気は1991年には通ったという。それにしては確かに他の部分の変化が乏しい。独峒のようにコンクリート造りの建物が増えていたっておかしくはないはずだ。そうすると、やはりまだまだ高定村は他の村に比べて文明化から遅れをとっているようである。そして、私が感動したところのまちの姿はその犠牲のもとに成り立っていた。

   私がこのまちの美しさを称えると、呉さんは「そうかい。私達にとっては何年も毎日見続けている風景だから、よくわからないよ」と、別に皮肉る様子でもなく、やはり淡々と続けた。いつからこういう生活を続けているのだろうと呉さんの生年を聞くと、1971年ということであった。そうして話題は私の生年やお互いの家族のことに移り、まちの文明化・観光化のことを改めて聞く機会を失った。
   呉さんはなおも饒舌に話しを続けた。風水を見ることができるらしく、このまちがいかに風水上よいかを熱心に語っていたが、私は半分も理解できなかった。さらに、私が望遠鏡を持っていないことを知ると、「望遠鏡は観光に必須だ!」と驚いて「次は必ず持って来い」と、これは別れ際まで3度くらい強調された。中国各地の名勝の話をしていると、「今度来たときは私が湖南、貴州、広西省のあたりを案内してあげるよ。少数民族はけっして開放的でない人も多いから、私がついていってあげれば便利だ。もちろん、宿も食事も私のおごりだから」と言ってくれた。これは決してセールストークでも嘘でもないだろう。日本からの距離や訪問に要した時間については聞かれなかったが、ちょっと足を伸ばせばこられるところくらいに思ってくれていたのだろうか。「次回来たら必ず私を尋ねてくれ」と鼓楼から路地を少し入ったところにある自宅の場所を案内してくれた。
   記念に一緒に写真撮影をしよう、というと「こんなボロっちい格好だから」と着ている服をさして固辞された。確かに、着ているジャンバーはあちこち破れてボロボロ、ズボンも破れや汚れが目立ち、気持ちはわからなくなかった。
   自宅の場所から鼓楼前の広場にもどると、ちょうど二人の娘さんが小学校から下校してきたところだった。トン語で呉さんは何かしゃべっていたが、私が二人にカメラを向けると、にっこり微笑んでよい被写体になってくれた。
   「そろそろ行くよ」と別れを告げる僕に、呉さんは「次は必ず望遠鏡を持って来るんだぞ」と念を押した。
   ―残念ながら次はないだろうな―
   多少後ろ髪を引かれるような思いで、僕は呉さんと別れた。

呉さんの二人の娘さん


   呉さんからまちの実情を聞いた私は、多少複雑な気持ちにはなったが、観光化されていない美しいまちを見ることができたことに大いに満足し、小学校などをさらに散策したのちに、ワゴンを捕まえて独峒に戻った。

   独峒に戻って宿で荷物を受け取ると、「今日ももう一泊するのか」とおかみさんから聞かれた。呉さんと話しているうちに高定村で大分時間をとったので、すでに昼の2時を回っていた。このあと、独峒からすこし三江寄りにある村むらの風雨橋をみて歩こうと思っていたが、三江に向かう最終バスの時間に間に合うか少し怪しい時間である。私は、「最終に間に合うようなら三江に行くよ。間に合わなかったらまた戻ってくる」と言い残して出発した。

   華錬という村で途中下車して、平流、八協という村をやや急ぎ気味で歩いて風雨橋を眺めつつ歩いて行くと、三江行きの最終バスは逃したが、乗合ワゴンを捕まえることができた。下車して、さらに有名な観光地である程陽に向かうワゴンを捕まえた。

華錬の風雨橋。これから八協まで幾つかの美しい風雨橋が眺められた。


   観光地化された程陽には外国人向けのゲストハウスがいくつもあり、ホットシャワーもWIFIも完備されていると聞いていた。観光地化されていない場所がよいなどと偉そうなことを言っていた私は、何のことはない、わずか1日でホットシャワーとインターネットという文明の誘惑に負けたのであった。
   やや水圧が足りないもののホットシャワーを存分に浴びつつ、高定村にホットシャワーはあるのか、呉さんたちはどのくらいの頻度で浴びられるのだろうか、などということを少し考えた。

2012年5月1日火曜日

独峒のユエイエー文明化と観光化の功罪について(1)




   独峒の町の鼓楼前は、民族衣装を着たトン族の女性と、笛を吹く男性と、それを見る大勢の観衆で大賑わいだ。童謡で「村の鎮守の神様の~今日はめでたいお祭り日~」というのがあるが、まさにその歌がぴったりあてはまるような感じだ。村民は輪になって掛け声を挙げていたが、私にもう少し勇気と強引さがあれば、一緒に輪に入ってはしゃいでいたかもしれない。

   桂林といえば水墨画の如き奇岩の風景が有名であるが、それに一目もくれずトン族の村にやってきたのは理由がある。一つは、8年前の旅行で十分すぎるほど満喫していたからで、二つ目は、8年前は無職でほぼ無制限に時間がありながらも、容易には訪れ難い少数民族の村を旅することをしなかったからである。また、なぜ「トン族」かといえば、城のような櫓を組んだ「風雨橋」や村の象徴的な存在である「鼓楼」の美しさを写真で見て大いに惹かれたからである。8年前の旅行の時はその存在を知らなかった。

   ここ数年、大型連休の際には、溜まっていた仕事を片づけたり、大型事件の準備を集中して行ったり、普段はなかなか手を付けられない原稿やらなにやらを処理したりと、結局十分に休養をとることができないままだった。それがたたってか、昨年の秋ごろからほとんど恒常的にやる気が起きず、仕事に集中できない時間が多くなり、結果的に仕事の効率が落ちる状況が続いていた。そこで、なかば強引に5日の休みをとって旅行に出ることにしたのである。

   8年前の旅行の際も少数民族に関する場所をあれこれ訪れたのだが、どうも観光用に作られた感じのする場所が多かった。新疆ではウイグル人の踊りを見たり、龍勝ではミャオ族の棚田を見たり、貴州や昆明では少数民族の文化村というところに立ち寄ったり、麗江ではナシ族の文化に触れたりはしたが、いずれも観光=金儲けのために作られた感を否定することができなかった。そういう作り物のようなものより、例えば蘭州近郊の炳霊寺でたまたま出会ったチベット僧であるとか、ウイグル人ならばウイグル人街に飛び込んでなにがなにやら分からないままにコミュニケーションを取ったこととか、麗江の近郊をトレッキングしているときにたまたま家に招いてくれたナシ族のおばあさんとか、ベトナムのバクハで出会った花モン族の人々とたまたま話したこととか、至って自然な出会いが強く印象に残っている。
   そういうわけで、トン族についても、できるだけ観光化されていないところ、生のトン族に触れられるところを旅先に選択しようとした。そうして選んだのが、冒頭の独峒とその近郊の町々なのであった。昔ながらの村落と、トン族の象徴たる鼓楼と風雨橋がそのままに残っているらしいということであったからである。

   独峒とその近郊の町々はそのような私の期待にまったく違わないものであった。5月1日は労働節(メーデー)で、中国でも大型連休の時期である。にもかかわらず、おそらくその日に独峒を訪れていた観光客は私を除き中国人が10人以下、宿泊したのは4人だけであった。
   独峒の町は、今や決して辺鄙とまでははいえないとおもわれる。私が事前にネットで調べた情報だと、三江の町からバスで2時間半を要するということであったが、実際には一時間強で到着した。後に触れるが、高名な観光地である程陽は三江から約30分であることと比較しても、気になる程度の時間ではない。なお、公式的な路線バスは30分に一本であるが、乗合のワゴン車が頻発している。12時40分のバスに乗ろうと窓口でチケットを買おうとした私が実際に購入できたのは2時40分のものであった。あまりにも待ち時間が長いと思ってバスターミナル付近を探すと、案の定乗合ワゴンが乗客を手ぐすね引いて待っているところで、ものの10分も経たぬうちに出発することができたのである。ちなみに、料金は路線バスが11元であるのに対し、乗合ワゴンは15元であり、気になるような差ではない。私も2時40分のチケットを破棄してワゴンに乗り込んだことはいうまでもない。
   一方、数年前の情報では、路線バスが1時間に一本であり、独峒に少なくとも4件のホテル・旅館があったようであるが、今は一つしか営業していない。つまり、交通の便が向上して、人の往来が活発化した割には、訪れる客は減ったということである。

   独峒の町がいかに観光化されていないかを長く述べすぎた。
   桂林からバスで3時間かけて三江に到着した私は、そうして2時ころには独峒に到着した。他のトン族の村でもそうであったが、トン族はわりあい引っ込み思案の方が多いのか、あるいは観光地化されていないためなのか、逆に私のような旅人が時に訪れることに慣れているのか、明らかにストレンジャーである私に対しても全く自然体であった。他のまちであれば、観光地か否かを問わずに客引きに取り囲まれるが、誰一人声をかけるようなことはして来なかった。それで、とりあえず宿を決めようと小さな町を歩き回ったが、それらしい場所では「もう営業していない」と断られたり、あるいは全く開いていなかったりと、私はまず宿に窮することになってしまった。
   仕方なく、バックパックを抱えたまま町をウロウロしてみた。メインストリートは、基本はトン族の木造建築であるが、中にはコンクリート造りの4階建て以上の建物がいくつかあり、風情を損なっていた。ただ、5分もまちの外に歩けば、小さな風雨橋があったり、見事な棚田が一面に広がる光景があったりと、風情ある風景が広がっていた。
一歩まちを出ればのどかな田園風景が広がっていた


   まちはずれの棚田をうろついてメインストリートに戻ってくると、きっちりした民族衣装とミャオ族ににた金属の髪飾り(というか冠に近い)に身を包んだ少女たちが勢揃いしているのが目に入った。トン族の女性は今でもほとんど民族衣装を来ているが、それはかなり青に近い紺のシャツと、黒のズボンというお決まりの格好である。髪飾りをつけた少女たちの服装は明らかにそれと異なり、ハレの日の格好であることを物語っていた。
   メインストリートの中心にある鼓楼の周りには、町中総出のような感じで人だかりができていた。あとで村の人に聞いたところによると、5月1日の労働節の祭だ、という人と、ある男性が女性に愛を誓う祭りだ、という人もいてはっきりしなかった。今調べると、トン語「月也(ユエイエ)」という祭りであり、トン族のある村が別の一つの村をもてなす伝統的な社交活動をさすとある。昼には老若男女が民族衣装で正装し楽器をならして踊り、夜にはトン族の民謡を男女で唱和し(原文は[対唱]で、現代風にいうとデュエットである)、未婚の男女が愛を語らうということである。
   確かにほぼそのとおり、鼓楼の前でまず若い男性たちが笙に似た楽器を鳴らし、その後民族衣装に身を包んだ女性が輪になって踊った。中央で一人が一節を歌い、輪になった皆が次の一節を皆で続けるという掛け合いを繰り返しながら踊り、どんどん盛り上がって行く。掛け声は聞いたままでカタカナにすると「ヤーモホイー、イエモッホイヤ」「ヤー、モヘアッホヤ」という2種類のくり返しなので、単純である。皆弾けるような笑顔で、声を張り上げて踊っているのにつられて、思わず冒頭のように加わってみたくなったというわけだ。
   踊り終わると、民族衣装の女性を先頭に一列にならんだ。何故か女性は折りたたみ傘をさしている。先頭の女性だけは蛇の目傘に似た伝統的な傘をさしていたので、現代は折りたたみ傘で代用しているのかもしれない。この女性たちを先頭に、後には男性がつづき、派手な爆竹音の中、皆でまちの外の方向に歩き出した。その日の夕食時にレストランの人に聞いたところによると、まちをでていったあと、平流という三江よりのまちにて男女が宴会を行なっているということであった。確かにユエイエの説明どおりである。



   独峒はおよそ観光客を想定しているようなまちとは思えないし、実際に訪れた観光客も既に書いたようにごくわずかであった。この祭りは観光用のものでなく、紛れもなくトン族本来のものであったわけである。たまたま遭遇できた私にとっては、この上ない幸運であった。

   行列が去って祭りの騒ぎが嘘のように一段落すると、さっきまで固く門が閉ざされていたホテルの門が開いている。一泊50元のツインの部屋にチェックインし、日本のパスポートを見せると、少し珍しがられた。宿のおかみさんは気のいい人で、10年前に宿泊したという北海道在住の一家の写真をわざわざ見せてくれた。
   私のあとにチェックインしようとしていた二人も珍しがり、さらに偶然があって夕食をともにすることになった。陳さん、戴さんという二人組で、湖南省から自家用車で旅をしているという。陳さんは私より2つ年上で「小小的生意」、ちっちゃな商売をしてるよーと言っていた。が、旅行期間を聞くと「やめたいと思う時まで」と言っていたくらいであるから、きっと商売が軌道にのっているのであろう。そこにレストランの店員なのか、たまたま居合わせていた人が湖南省出身とのことで、二人と意気投合し、結局4人で「米酒」という日本酒によく似たお酒と、ビールを空けつつ大いに盛り上がることとなった。平流というまちで、祭りの一行が宴会を行なっているというのはその店のトン族の店員から聞いたものだ。陳さんが「それはよそ者でも参加できるのか」と聞くと、「もちろん大丈夫だ」というので、「ではこれから行こうか」という話になりかけた。しかし、陳さんがつづけて平流までの時間を聞くと「すこし遠いなあ」ということで、行く流れではなくなった。

   少し惜しい気がしたのは間違いないが、それでもできるだけ観光化されていない少数民族の村を求めて来た私にとって、十二分すぎるほどの一日になったことは間違いなかった。

2012年4月30日月曜日

桂林-バックパッカー再び



   上海を1時間半遅れで飛びだった飛行機は、苛立った乗客をのせて桂林の空港に滑りこんだ。ただ、私は遅延についてあまりジリジリしていなかった。中国の国内線が遅延するのはいつものことだし、どのみちその日は桂林で泊まるだけで、他の予定がなかったからだ。ジリジリするだけ損であるし、バックパッカーはそんなことで苛立ってはいけない。
   桂林は8年ぶりだった。前回訪れたのは真冬だったから寒いくらいだったが、5月の今回は飛行機のタラップから足を一歩踏み出すとまるで日本の真夏のようなむわっとした空気が体をつつみ、思わず「あつっ」ともらしてしまう。隣を歩いていた中国人も「暑すぎる!」と言っていたくらいだから、決して誇張ではあるまい。
   空港からのリムジンバスを降り、多少の値段交渉の上、ホテル(といってもドミトリーだが)に向かうバイクタクシーに乗る。バイクは、川沿いに桂林の町を北上した。もう真夏と言っていい気候だろう、老若男女は短パンTシャツのような軽装で河原の公園にて涼をとっていた。既に9時を回っており、日本では考えられないほどの人出だ。バックパックを背負って旅にでるのも5年ぶりくらいだろう。バイクタクシーにのって地方都市の喧騒を突き抜けて走るうちに、懐かしいバックパッカーの感覚が蘇った気がした。
   ホテルはやけに空いていた。6人用のドミトリーは3人しか入っておらず、他に宿泊者も見かけなかったから、全部で3人だろう。拡張工事中か何かなのか、解体中のビルのような、粉っぽい匂いと感じがし、少々息がしにくかった。部屋は清潔だが、このへんの問題で宿泊客が少ないのかもしれない。


   荷物を置いて、遅い夕食をとりに外に出た。既に10時を回っていたし、翌日5月1日はメーデーで休日のため、ほとんどレストランは開いていない。10分ほど徘徊して、なお開いていて、他に客が入っているレストランに目をつけて席につく。地元客で賑わっている店はたいがい美味しい。
   トマトと卵の炒めものと、焼き豆腐を注文し、ビールを飲みながら一人で久々の休日とバックパッカー気分を味わっていると、店員の一人が声をかけてきた。旅行者然としていたからであろうか、「桂林名物だから食べてみろ」(前の客の残りものであったのはご愛嬌だが)と鍋物を勧めてきたのである。この店員はこれまた前の客の残したビールを大事そうにちびちびやりながら、隣の席でその鍋を食べている。私も自分の皿とビールとともに移動した。「桂林名物」はなかなかうまかった。牛の腸だったか、なんと言っていたか忘れてしまったが、見た目は切り干し大根を更に細長くしたような干豆腐という感じである。
   そうして話しているうちに、私が日本人だということがわかると、彼は「こんにちは」「おいしいですか」とカタコトの日本語をいくつか喋り出した。なんでも、学生のころ日本語を勉強しようとトライしたが、50音をなんとか覚えるくらいでやめてしまったそうである。
   そのあとも色々話をした。私がこれまで訪れた地について、お互いの家族構成、日本と広西省の収入比較、彼は結構話し好きなタイプと見えて、話しだすと止まらない。なかでも印象深かったのは、日本のアニメの話である。彼はアニメ好きと見えて、スラムダンク、ドラゴンボール、クレヨンしんちゃんなど、有名なアニメを次々と挙げ、非常に好きだと言った。その中で「イーシュウ」という名前がでてきて、何のアニメかわからずに戸惑った。わからないと私がいうと、「お坊さんが出てきて……」とさらに続ける。お坊さんをキーワードに「イーシュウ」に該当する漢字を色々思い出していくと、「一休」の字が浮かび、まさに一休さんの如く「チーン」と閃いた。私が両手の人差し指の指先で頭をぐるぐる擦り付ける動作をすると、彼も勢いよく「そうだそうだ」という。「一休さん」は我々の世代にとって知らない人がいないであろうほど有名だが、まさか中国人が知っているとは思わず、驚いた。あとで知ったことだが、「一休さん」は中国はおろかヨーロッパでも有名らしい。


一休さん好きのおじさんと


   そうこうしているうちに、久々にバックパッカーに戻った最初の夜は更けていった。ここ最近、海外は団体旅行か出張で上海などの都会に行くことが多かった。遅延にも苛立たない感覚、8年ぶりの桂林の喧騒をバイクタクシーで突き抜ける爽快さ、ちょっと空気の悪いドミトリー、いきなり入ったレストランで現地人と話し込むこと。
―こういう感じ、悪くない。
   久々にバックパッカーの感覚を取り戻したようで、仕事やなにやらに追われまくる日常で荒んだ心がすこし回復したような気がした初日だった。

2005年3月5日土曜日

ハノイ―奇妙に自然な場所

 8年ぶりに降り立ったハノイの地を目にしての感想は、「あんまり変わってないな」というものであった。8年前に空港には寄っていないが、ノイバイ空港はそれなりに老朽化した、簡易な施設に思えた。あるいは空港からハノイまでの高速道路などは新しく作られたものなのかもしれないし、工事中の橋梁などはかなりの規模のようには見えたが、全体的な印象は変わらない。
 理由の一つは、どうしても中国との比較で見てしまう点だろう。8年前にはじめて上海に足を踏み入れて以来、毎年上海には行っているし、別の地域もそこそこ見ている。8年前の上海の地下鉄は4号線くらいまでだったかと思うが、今や10号線を越えていて、わけがわからない。路上にあふれていた自転車も、今やスポーツサイクルで走る人を見るほどで、当時とは隔世の感がある。8年前は路上を走る自動車は、タクシーかトラックかバスがほとんどだったのが、今や自家用車が大半である。
 それと比べてみると、ハノイにはあいかわらず摩天楼はないし、バイクが溢れ、多少自家用車が増えたかという印象があるだけだった。
 別に、マスメディアが喧伝するほどベトナムは発展していないんだとか、なんらかの見解につながるようなことを述べたいのではない。ただ、見て感じたままを漠然と感想として述べたまでである。
 空港からホテルまでバスに乗り、ハノイ市内に入ると、ふと見覚えのある堤防というか、城壁用の壁というかが目に入ってきた。8年前、自転車で快走した思い出が鮮やかに蘇って、思わず「8年前ここを自転車で走ったんです!」と同乗する日本語を解するガイドに話しかけた。ガイドの反応は「ハノイは自転車よりもバイクの方が多いよ」といったかみあわないものであったが。


ハノイの旧市街。この雑多な感じがたまらない。

 それで話は8年前に戻る。
 バクハ、サパを回った私は、ラオカイから夜行列車でハノイを目指すこととした。バスもあるが、昼間移動するには時間がかかりすぎるし、また私は基本的に夜行列車が好きなのだ。ラオカイの駅前で電車を待っていると、イギリスだったかスペインだったか2人いて両方だったかもう忘れたが、近くに座った欧米人とビールで乾杯し、薄暮れのテラス席で、持っていたギターで知りうる限りの英語の歌を歌ったのがよい思い出だ。一緒に最初「これを歌えるか」とドナドナのメロディーを口ずさみだしたときは多少面食らったが、ベトナムと中国の国境まちでなぜかドナドナを盛大に合唱してきた。

 ラオカイからハノイに行く夜行列車の時間設定は奇妙で、夜の8時くらいにラオカイをでて朝の4時くらいにハノイに到着する。2等寝台では何人かのベトナム人と同室になったが、外国人である私を珍しがるでもなく、ごく自然に同部屋の乗客として迎えてくれた。逆にいえば、中国でよくあったように、好奇の目で見つめてあれやこれやと質問を浴びせてくるということも一切なかった。

 そうして、電車はまだ日の出前のハノイ駅に到着した。さっさとバイタクで移動して宿探しをしようかとも思ったのだが、例の「バイタクはボッタクリが横行している」とか「人気のいない場所に連れて行かれて脅された」というようなガイドブックの注意書きがさすがに怖かったので、駅のベンチで明るくなるまで時間を潰すことにした。
 日が登りかけて、大分明るくなったころ、僕はバックパックとギターを背負って、安宿街のある旧市街へと歩きだした。
 ハノイのバイタクは、というかハノイのあらゆる物売りの人は、すごい。
 何がすごいかというと、十中八九、満面の笑みでこちらを見て「ヘイ」とかいいながら声をかけてくるのである。そのあまりの笑顔に、つい足を止めてしまうのだが、単なる客引きと分かってまた歩き始める。これはなれるまでに大分時間がかかった。「営業はまず笑顔」と言われることがあるみたいだが、ハノイでその意味をはじめて理解した気がする。

 「ハノイは変わらない」という話の続きをするのであれば、8年後のハノイのバイタクおじさんたちも、相変わらず満面の笑みで声をかけてくれた。屋台のおばちゃんだって同じである。すこし店先で物欲しそうに見ていると、すぐに満面の笑みで食べるように促す。もっとすごいのは、地元民が集まる市場に入り込んでウロウロしているときですら、物珍しそうに店を見て回る一見してストレンジャーな私に対しても、店のおばちゃんたちはやはり満面の笑みで手招きすることである。

 安宿街はすぐに見つかり、僕は2ドルだかの安宿にチェックインした。早速レンタサイクルを借りて、街に繰り出すことにした。



川沿いを北上する。

 別に目的があったわけではない。なんとなく地図を見て、旧市街を抜けて、湖をみつつ川沿いに北上して、上述の堤防道をとおり、大きな橋を渡った。特に橋をわたってからはのどかな風景だった。川沿いの道をゆっくり下っていったが、日本の農村を思わせるようなのどかな風景が続いた。

 不意に重さを感じた。なんとベトナム人男性が自転車の荷台に座り、二人乗りをしだした。何を言っているかはわからないが、私の進路方向に進むのでちょっと乗っけてくれと言っているみたいだった。
 3分も立たないうちに2人の道中は終わり、彼は自転車を降りていった。何か盗まれるのではとすこし警戒心を持っていたが、もちろん、なにも奪われることはなかった。


木の皮?を干している。こういうのどかな風景を眺めているところに突然二人乗りされた。


 ハノイは本当に自然なまちだった。韓国、中国ではまるで透明人間のように外国人として扱われない。ベトナムに入ればそうでもないかと思っていたが、そうでもないようで、そうでもあるような、不思議なところだった。彼らにしてみれば、いつもどおり笑顔で営業して、笑顔で外国人料金を請求し、笑顔で僕の自転車に飛び乗る。警戒心の高い僕を、ハノイは自然に受入れてくれた。そして、それは8年後も全く変わらなかったのである。

昔ながらの機関車が走っていた。


2005年3月1日火曜日

バクハの花モン族とサパの黒モン族-文明と文化-ベトナム・中国国境地帯


 今、ベトナムへと向かう機内でこのベトナム旅行記を作成している。
 と、いうと何やら奇妙に思われるかもしれないが、8年ぶりにベトナムを訪問するに際して、8年間サボタージュして、手をつけるきっかけを失いかけていた旅行記を認めているというわけだ。もちろん薄くなっていった記憶をもとに書くわけだが、何かしらの臨場感は得られるかもしれない。
 少数民族の暮らしを見てみたいと思っている。これはこの長いアジア縦断の旅の後でも変わらないが、一応このアジア横断の旅のテーマは、「韓国、中国、ベトナムという黄河文明・漢字文化圏と、カンボジア・タイというインダス文明圏を渡り歩いて、各文明内と文明間の共通点・相違点を感じる」ということであった。
 各地の少数民族は、そうすると興味深い存在ということになる。黄河文明やインダス文明の影響を受けながら、独特の文化を維持してきた存在なのである。ただ実際は、近代以降の西洋文明の浸透が急激すぎるので、古い文明の影響はわずかにしか感じられなかった。その意味で、「文明化と観光化の功罪」のくだりとやや重複するきらいはあるが、思い出すままに書き連ねてみたい。



 実は、ベトナムに入国するのはかなり怖かった。およそ無茶な旅行をしているのにまたおかしなことを、と思われるかもしれないが、実際そうだったし、旅行の情報、特に安全やお金に関することにかんしてはかなり綿密に調べる性格なのである。そして、ガイドブックの情報によれば、“ベトナムでは金持ちの外国人からは多くお金をとることは当然とされている”とか、“バイクタクシーに乗ったら人気のいない場所に連れていかれてお金を巻き上げられた”とか、ネガティブな情報が溢れていたのである。

 昆明発の夜行バスは早朝に国境のまち、河口に到着した。バスで一緒になったアイルランド人バックパッカーたちと早速国境に向かう。陸の国境越えは、香港と中国本土のそれをカウントしないとすれば、私にとってはじめてだった。国境となるホン河の向こうには、漢字ではなく見慣れないアルファベットの看板をつけた建物が並んでおり、イミグレーションの建物は重厚で、国境にかかる橋も少なくとも私たちが通過する際は一台の車も通過しなかったのにもかかわらず、広く、しっかりした作りのものであった。国の威信をかけて建設したことの現れなのだと思う。

 国境を抜けると、早速、バスターミナルまでの移動のためのバイクタクシーとの交渉が待ち構えていた。が、多少の値下げ交渉を経ると、ガイドブックのいう適正相場まであっさりとディスカウントがあり、無事にバスターミナルまで到着した。
 ベトナム側の国境のまちは、ラオカイ(老街)という。ラオカイからまず私が目指したのは、バクハという高原にある少数民族のまちだった。毎週日曜日のマーケットには、色鮮やかな民族衣装を身にまとった花モン族の女性が集まるという。生のままの少数民族の姿を是非見たいと思ったのだ。

 ラオカイは河が流れるため、山間の渓谷にできたまちのようになっているが、バクハはその片方の山側にある高原の山あいにある。
 ラオカイから現地民を満載するミニバスに乗って、山あいの道をノロノロと越えてバクハについてみると、数件のホテルとレストラン、あとは学校と民家があるという、とても小じんまりした印象のむらであった。サパにはおしゃれなフランス料理店のようなお店もいくつかあるが、もちろんバクハにそのような店はない。なお、「少数民族のまち」と書いているが、基本的にまちなかに少数民族が暮らしているわけではない。近郊に少数民族の集落が点在しており、その集落の中心的なむらであるということだ。
 適当に部屋を見せてもらって、値段を聞いて(確か一泊2ドルくらいだったと思うが)、泊まることに決めたホテルのおばさんは、私のベトナムに関するイメージとは相違して、親切だった。ニコニコしながら、レストランはどこどこだ、明日は日曜日で市場が開かれる、などといろいろ世話を焼いてくれた。不安を抱えたままのベトナム初日は、こうして平穏に過ぎていった。


バクハあたりの高原地帯ではハッとするような棚田風景が続く


 翌日、起きると、目的であるマーケットを見に行った。圧倒された。
 いわゆる少数民族っぽい少数民族というのは、実ははじめてみたのかもしれない。昆明のあたりでは刺繍の行商に来ている少数民族(確か彝族)をよく見かけたし、麗江ではナシ族にたくさん出会った。行商の人たちは観光用ではないだろうが、ナシ族はまちなかでは民族衣装を着ているひとは少なかったし、まちなかで着ている場合は観光用であった。虎跳峡で出会ったナシ族のおばあちゃんは、人民服のような衣装だったと思うが、民族衣装には見えなかったし、少なくとも華やかさはなかった。
 ところが、バクハには見渡す限りというか、色鮮やかな民族衣装を来た女性であふれていた。まだ2、3歳の子どもですらそうだ。子どもまで民族衣装を着ているのは珍しいことだと思う。衣装は人によって違いがあるが、黒や青をベースにした服に、色とりどりの刺繍が施された上着とスカートを身にまとっているという感じである。これは写真を見て頂いたほうが早いであろう。
 文明、すなわち、それなりに通用力をもった普遍的なものというのは私がこれまで旅してきた、新疆ウイグルのオアシス、貴州や雲南の少数民族のむらでも豊富にみられた。それは例えば、ジーンズであったり、携帯電話であったり、ビールであったりした。ただ、このバクハでは、少なくとも女性については頑ななようにそういう文明的な衣装というのを拒否しているように見えた。

 マーケットが終わると、花モン族たちはそれぞれのむらに帰っていく。私は地図も、予定もないまま、ある一団のあとをついていくことにした。
 バクハの中心街をすぐに抜けて、目のさめるような棚田の風景を眼下にみつつ歩き続けていくと、追いついたのか、彼らが休憩していたのか、老人と若い男性の二人と一緒になり、なにやら話すこととなった。
 話すーといってもお互い一切共通言語を解さないので、身振り手振りとか、雰囲気なのだが、
「私はベトナム人だけど、花モン族だ」
とでも言ったのだろう。身分証明書を取り出して、名前や民族が記載されている部分を示してくれた。
 歩きながら、僕のカメラを興味深そうに眺めて、写真をとってくれ、とか、あれを写真にとれとかいうので、言われるがままに僕はこれらをカメラにおさめた。その中には、鼻をたらしながら、樹の枝を持って遊んでいる3、4歳くらいの少女がいたが、今写真を見なおしてみると幼いような、妙に大人びたようなオーラをもっている不思議な写真である。この長い旅の中でも、お気に入りの一枚だ。


花モン族の少女。なにか不思議なオーラをもっている。



「少数民族の暮らしは大変なんだ」
 とか、かれは続けたのだと思う。座って話し込んだ際に僕が取り出したボールペンを指さして、「これをくれないか」というようなことを言った。僕は迷ったが「安易にものをあげてはいけない、あげてしまうと、彼らはそれで生計が立てられると思うようになってしまう」というガイドブックの記載に忠実に、あげないことにした。彼は別に不満そうにするわけでもなく、笑顔で次の話に移った。
 そうしているうちにも、バクハから戻ってきたと思しき花モン族の女性たちが通りかかった。まだ僕と同じくらいの年齢の女性が小さな子どもを背負って帰り道を急いでいた。写真撮影をすると、照れくさそうに笑いながら応じてくれた。
「私のむらまで一緒に来たらいいよ」
 私、彼を順に指さして、さらに道の先の方向を彼は指さした。正直かなり行ってみたかったのだが、地図を持っていないのと、帰るまでの時間が読めないので、大事をとって断念した。この点は下調べをもっとマメにしておけばと後々まで後悔しつつ、バクハに戻った。


花モン族の皆は、基本的にノリの良い人たちだった。


 ラオカイを起点にして、バクハの、反対側の山にはサパという避暑地として有名な観光地がある。サパ近郊には多数の少数民族が暮らしているが、黒モン族という民族がおそらく数としては最多数であると思う。有名な避暑地だけあって、まちの中にはフレンチのおしゃれなレストランがあったり、大きなホテルがある。私が行ったのは真冬のシーズンオフだったので、どのホテルも閑古鳥が鳴いており、立派なホテルの部屋もわずか一泊2ドルで使うことができた。

 黒モン族の少女たちも、やはり民族衣装を着ているが、文字通り黒っぽい衣装で、花モン族ほどの華やかさはない。ただ、サパの黒モン族はいろんな意味ですごかった。英語はもちろん、片言の日本語まで駆使して、まだ中学生くらいの女の子たちが土産物を販売してくる。小さなまちのメインストリートあたりを歩けばすぐに彼女たちにつかまってしまう。オフシーズンであるからかもしれないが、彼女たちは結構ひまを持て余していて、おそらく観光客向けと思われるインターネットカフェでパソコンゲームやインターネットに興じたりもしている。近郊の電気もとおってないようなむらから出てきて、黒モン族の名に象徴される黒い民族衣装をまとつつ、いわば文明の先端の象徴であるインターネットカフェに彼女らがたむろする姿は大いに違和感を感じさせるものであった。文明と未開の極端な交差がサパでは起こっていたのである。
 結局話しをうまくまとめあげることはできない。が、それが生計に関わることであるから、黒モン族の少女たちは英語も日本語もすぐに習得するのであろう。そしてあまりに身近に文明が存在するから、ごく自然な形で彼女らはそれに触れるのであろう。
 バクハの花モン族の女性に私は文明に侵食されない頑固な文化を見たような気がする。しかし、男性はすでに民族衣装を放棄していることに表されるとおり、それも時間の問題であるかもしれなかった。あれから8年経った今では、あるいは花モン族のみなも、英語や日本語を駆使して土産物を売っているのかもしれないし、やはりかわらないのかもしれない。

2005年2月21日月曜日

麗江―やさしいナシ族


 麗江に来た。
麗江は,中国雲南省の四川省よりの地域にある,小さな古都だ。
かつての面影を残す町並みは,麗江古城といって,世界遺産に登録されている。
小さな,きれいな町だ。
 もともと,ナシ族という少数民族が住んでいた地域で,ナシ族の里といわれている。雲南省は少数民族の宝庫だが,この地域ではナシ族が多いのだ。
 最近は,テレビの影響で有名になったが,現存する唯一の象形文字,トンパ文字を使うのはこの民族である。もっとも,最近ではトンパ文字を読み書きできる人は少なくなり,もっぱらTシャツの図柄など,お土産用として使われるくらいである。
 貴陽を朝出発して,一路雲南省を目指した僕が,雲南省の省都である昆明にようやく到着したのはもう夜も10時を回ったころだった。
 予定をどうするかはあまりはっきり決めていなかった。
昆明を2,3日かけて観光するつもりではあったものの,大理や麗江という他の町にも興味があった。そして,その後目指すベトナムへの興味もますます深まってきていた。
 昆明に一泊する手もあったが,僕は強行軍でそのまま夜行バスを使い一気に麗江に向うことにした。昆明は大きすぎる街で,何にも予定を決めずにふらふらするにはあまり向いていない。それなら,麗江に明日の朝つくようにして明日はゆっくり街を見て回ればいいのだ。
 
 こうしてにわかに麗江行きを決心した僕は,バスターミナル内で麗江行きの夜行バスを探した。大理行き(正確には,近くの下関行き)のバスは多いが麗江行きのバスは見当たらない。客引きの若い男に,「麗江行きはないのか」とたずねると,麗江行きらしいバスまで連れてってくれ,チケットを買わされた。
「正規運賃よりも安い,140元だ」
言われてガイドブックを見てみると,確かにガイドブックに書いてある正規運賃より安い。言い忘れたが,雲南省では正規で走っているバス以外に,私的に運行されるバスが多いようである。夜になると,バスターミナル付近に客引きがあふれる。バスターミナルを一応使っているのだから,正規のバス会社じゃないのかといわれると,僕は詳しくないので分からないが,とりあえず時刻表などなく運行されているようなので,僕は私的に運行されるバスだ,と思った。
 余談になるが,その後僕が昆明からベトナムとの国境の町,河口に向うときにまたこのバスターミナルに来た。その時は僕の言う意味で正規のバス,つまり,チケット売り場でチケットを買い,時刻表どおりに出発するバスを利用した。
 昆明から河口へのルートは,中国からベトナムへと抜ける旅行者の著名なルートになっており,その日も僕以外にアイルランド人のバックパッカーが4,5人乗り合わせた。そのとき,われわれが大きな荷物をバスのしたの荷物入れに預けようとすると,一人の少年がつかつかとやってきて,
「荷物を預けるには一人50元いる!」
と結構流暢な英語でアイルランド人の一人に話しかけた。僕はもちろん,旅行者相手のたちの悪いたかりだと思って,中国語で受け答えしてあまり口を開かなかった。彼は,疑うアイルランド人に対し,
「Fack off!」
と口汚い英語をはいて執拗に食い下がっていたが,一人50元をだんだんと40元,30元,20元,,,ついには10元とまけていった。
 アイルランド人は10元になったところで,それくらいは仕方ないか,という感じで結局支払ってしまった。
 僕は,同じように大きなバックパックを背負っていたが,中国人のふりをしたため,彼のたかりを逃れることができた。
 何が言いたいのか,というと,中国も雲南省くらいに来るとまだまだ公安の統制がゆるいのかな,ということである。こういうせこいたかり行為は今まで別の省では見たことがなかったし,多分おおっぴらにやれば誰かに密告されるなど取締りの対象にはなるのではないか。
 私的なバス会社が多いというのも,その所為なのかもしれない。
 もちろん,以上はまったく僕の想像に過ぎないが。

 話がそれたが,僕はチケットを買って,麗江行きのバスに乗り込んだのだが,実はそれは大理(下関)までしか行かなかったのだ。どうも,もともと大理に行くバスで,僕が乗るときだけ,バスのフロントガラスに掲げるプレートを「麗江」行きに変えたらしい。チケットにも「麗江」と書いてあるが,もちろん,それを大理のバス職員に見せても麗江行きのチケットには変えてくれなかった。
 要するに,まんまとだまされたのであった。
 仕方なく,僕は麗江行きのチケットを買いなおして麗江に向った。バスは,雲南の盆地を疾走した。はっきりと覚えていないが,何度か峠を抜けたりしたろうか。移り行く景色に見とれているうちに,バスは麗江についた。
 麗江の宿は,「古城香格韻客棧」に決めていた。前に敦煌の飛天賓館で出会った日本人旅行者が,麗江を非常に気に入ったらしく,この宿に泊まるといい,と薦めてくれたのがそこだった。
 麗江の古城にはいる。麗江の古い町並みが残る地区は古城と呼ばれている。赤い観音開きの扉が入り口で,白い壁と灰色の瓦葺の家。石畳の道。世界遺産なりの趣はある。ただ,惜しいのは観光化されすぎていることだろう。古城の中には,お土産屋があまりに多い。観光客もあふれている。
 あこがれていた麗江だが,すこし僕は落胆した。勝手なもので,いい観光地ほど観光客が少なくあってほしいのだ。
 目指す宿は,古城の東のはずれにあった。
「ドミトリーはありますか?」
以前に比べて大分上達した中国語で尋ねると,
「有,有(ある,ある)」という答えがすぐに宿の主らしきおばさんから返ってきた。一泊いくら?15元。というやり取りの後,従業員らしきお姉さんに僕を部屋に案内させると,そのおばちゃんは,
「荷物を置いたら,下に来てお茶を飲め」
といった。中国の宿で,そこまで熱心な歓迎を受けたのは初めてだったから,僕は大分面食らった。
 宿のおばちゃんは,ナシ族らしい。これが,僕のナシ族との最初の出会いだった。
ちょっと,おばちゃんの迫力に圧倒され気味な旦那さんも,従業員のお姉ちゃんも若い兄ちゃんも,何の意味もなくふらっと宿の中に入っきて話をして帰っていく近所の売店のおっちゃんも,みんなナシ族だった。
 いちいち書くのが面倒なくらい,ナシ族の人々は親切だった。本当にお金をもうけるつもりがあるんだろうか,と疑いたくなる。宿には,中庭があり,いすがたくさん置いてある。いすに座ってくつろいでいると,お茶を飲め,とお茶を入れてくれるし,いろんなお菓子を食べろといって持ってきてくれる。こんな宿だから,いろんな人をひきつけてやまないらしく,長く滞在する人も多いようだった。
 宿には,中国人はもちろん,日本人や,ロシア人や,韓国人や,スイス人,フランス人など,きわめて多国籍な顔ぶれが集っていた。おばちゃんが,「ギターを弾け」というので,僕も多国籍に曲を披露した。中国語曲は既に何曲か歌えたし,ロシアは学校で習ったロシア民謡(一週間とか,カチューシャ),韓国人には韓国語曲はさすがに知らないので,韓国でもカヴァーされた日本曲,後は,全世界共通のビートルズ。
 音楽はいいものだ。おかげで,あっという間に各国の皆と仲良くなれた。宿は,まるで家のように居心地がよかった。一週間くらい滞在しても気にならないくらいだ。
 なんにせよ,こんなに居心地がいいのも,おばちゃんをはじめとして,宿の人の人柄のおかげだろう。

麗江はすっかり観光地化されているが、街並みは美しい


 長江の上流が麗江の近くを流れている。
長江も,ここまで来ると大分川幅が狭くなっている。諸葛孔明が異民族の征伐に来たときもこの付近を渡ったという。中でも,トラでも飛んでわたれそうなほど狭く深い渓谷になっている部分があり,虎跳峡という。ここは,トレッキングのスポットになっていて,非常に面白いという話なので,僕も出かけることにした。虎跳峡のトレッキングは結構距離があるので,一泊はしないと全行程を徒歩で行くことはできない。僕は,一泊分の荷物をもって,虎跳峡へと出発した。

 虎跳峡の景色は,やはり言葉で表現することが難しい。日本の渓谷のように,うっそうと茂る森はない。とはいえ,シルクロードのようにらくだ草しか生えていないというわけでもない。草はむしろ一面に生えている感じである。
 僕は,車で回る,と言っていた同宿の韓国人に便乗して,虎跳峡の入り口,橋頭についた。ただ,運転手さんにはそのことがうまく伝わっていなかったらしく,登山口のようなところを通り過ぎてしまった。
「僕は,歩いて虎跳峡を見るつもりだったんだ―」
そう伝えると,僕は路上で下ろされた。車道は,長江沿いにあり,トレッキングルートは車道を上に上ったところに有る。運転手さんが地元の人に聞いてくれたが,要するに上へ上へと道なき道を行けば,トレッキングルートにぶつかるらしい。いまさら入り口にもどのるのは面倒だから,ここから上に上っていけ,とのことだった。

 若干不安だったが,例によって親切なナシ族の地元民が,この道を登って,右に行って左に行って,,,,と行けば必ずつくから,というので,僕もようやく安心して,草だけが生えたがけのような道を上へと向かうことにした。
 案の定,すぐに迷った。
右に行け,左に行け,と言ったって,何しろもともと道なき道のようなものなのである。どこで曲がったらいいのかとても分かったものではない。
 民家があり,一人の少女が遊んでいた。風貌からして,ナシ族だろう。彼女は僕を見咎め,何をしているの,と聞いてきた。つたない中国語と,身振り手振りで,「上に行って,トレッキングするんだ」というと,彼女はついて来い,といって僕を道案内してくれた。ナシ族は子供まで親切なのだ。
 それで,大分上まで行き,後はまっすぐ行くだけ,となったところで,彼女は突如
「銭(チエン)」
お金をちょうだい,と言い出した。
 これには,面食らった。気のいいはずのナシ族の少女がそんなことを言い出すとは,しかも,まだいたいけない少女なのである。そんな生々しい要求があるなど,思っても見なかった。
 しかし―。
 僕は,すぐに思いなおした。少女の住む家にせよ,決して裕福には見えない。また,少女もあまりきれいな格好をしているとはお世辞にもいえないようなものだった。
―金,生活するための金ってのは,普遍原理なのだ―
中国に初めてやってきたとき,思い知らされたが,半分忘れかけていたようなことが,また頭をよぎった。誰が少女を責めることができる。
 ただ,これも既に学んだことだが,適正相場は守らなければならない。安易に金が入ることを覚えることは却って少女に悪影響を及ぼしかねない。情にほだされたり,あるいはお金に群がる人々をみて優越感を感じてついつい与えすぎてしまう旅行者も多いようであるが,安易にお金や物をあげることの危険性は十分認識すべきであろう。
 僕は,そういうジレンマの中で若干苦しんだが,結局一元札を取り出し,彼女にあげた。それがよかったのかどうかは,自信がない。
 いずれにせよ,ナシ族の善良さを無条件に信じてしまっていた僕にとって,ショックではあった。真っ白な人間の頭は無防備だ。宿のナシ族のあまりの善良さに,僕の真っ白な頭は占領されていたのだ。人間の事実に対する認識や,価値判断は,こうも影響されやすいものなのである。

 ともあれ,僕はトレッキングルートを見つけると,それに沿って歩き始めた。虎跳峡を一泊で歩きぬけようとするのは強行軍なのだ。一日目で半分以上行って置かないと,虎跳峡の出口の町,大具から麗江へのバスに乗り遅れかねないのだ。そうすると,もう一泊を余儀なくされる。
 道中では,スイス人とよく出会った。山の多いスイス人だから,トレッキングが好きなのだろうか。アルプスの風景に親しんでいるはずのスイス人も,虎跳峡の風景は素晴らしい,と手放しでほめていたから,僕もやはりここの景色は本物なのだな,と思った。
 そういうスイス人や,日本で2年くらい仕事をしていたというニュージーランド人に出会いながら,僕はどんどん先を目指した。彼らは2泊で行くらしいので途中の宿に泊まっていったが,僕は先を急いだ。
 今度は,中国人の団体に出会った。この団体の人々は,山道のトレッキングロードが途切れて,車道と合流するところにある宿に宿泊するらしい。さすがにかなり疲労がたまっていた僕は,もう少し先を急ごうかな,とも思ったが彼らの泊まる宿に宿泊することにした。一人でいるのが少し寂しかったこともある。

 その日の夕食は,その中国人の人たちと一緒に食べた。どうやら,みなもともと住んでいる場所は違うらしく,麗江で団体を組んで虎跳峡にやってきたらしい。ハルピン出身の女性や北京出身の女性もおり,上海から来たカップルもいれば,広東省から来ている人たちもいた。
 実は,電気の通っていない場所らしい。あるいは,たまたま停電していただけなのかもしれないが。
 いずれにせよ,夕飯を食べている途中で日は沈み,ろうそくの明かりの下で,ビールを開け,飲んだ。やはり,ご飯は大人数で食べるのがおいしい。

 無用心な話だが,ビールに酔って記憶をなくしてしまったらしい。それまで,大学生のとき部活の先輩に散々日本酒を飲まされ記憶を失ったことが一度だけあったが,度の薄い中国ビールでまさか記憶をなくすとは思ってみなかった。一日中歩き通しで疲労がたまっていたせいももちろんあるのだろう。
 とにかく,気がついたら部屋のベッドで横になっていた。何も盗まれているものがないことに安心したが,たぶん明かり代わりに使ったのだろう,デジカメの電池が完全になくなっていた。もともと電気が通っていない場所なので充電の余地はない。麗江に戻るまでもう写真は撮れないが,それはあきらめるほかない。
 次の朝,中国人の団体の中のおっちゃんにあうと,
「お前,昨日のこと覚えているか,酔って大変だったんだぞ―」
と言って,笑った。



虎跳峡の風景。どこか懐かしく、美しい。



 既に書いたが,虎跳峡は二日で走破するつもりだった。
結構なハードスケジュールである。

 前日に,少し妥協して泊まってしまったので,僕は次の朝早く宿を出発する必要があった。虎跳峡のもうひとつの端,大具から麗江へのバスは昼に出て,それ以降はないのだ。だから,昼過ぎまでには大具に着かなければならない。
 僕は,挨拶もそこそこに,宿を辞して,再び一人歩き始めた。

 宿からの道は,舗装されていて,歩きやすい。初日に歩いた山道とは違うのだ。完全に車道を歩くのである。右手には,長江が流れているが,あまりにも谷が深いので川の流れは見通しのいいところにいかないと見えない。初日の山道を歩いたときほどではないが,景色は僕を飽きさせることはない。
 一時間と少し歩いたところだろうか,それまで切り立った崖にへばりつくような道路を歩いていたのが,すこし開けたかんじのところまで出てきた。ぽつぽつと人家があった。
 僕が人家の前を通り過ぎたとき,その人家の中から一人の老婆が現れた。ナシ族の民族衣装をまとっている。
「どこに行くのか,大具か?」
とつぜん中国語と身振りをまじえて尋ねられた。一見して旅行者風の僕であるから,多くのトレッキング客と同じように大具の街まで行くと思ったのだろう。
「そうです」
と,僕がつたない中国語で答えると,
「私もそっちの方向にいく。ついてきたらいい」
こう,また身振りをまじえて言った。

「どこから来たのか」
「日本です」
こう答えると,老婆は大きくうなずいた。僕の中国語がつたない理由が分かったのだろう。
「私はナシ族だ。私も北京語はあんまり分からない」
なにか,そういう意味で僕に親近感を持ってくれたのかもしれない。
 考えてみると,中華の衛星群としては僕もそのおばあさんも一緒なのだった。ナシ族が中国政府の支配下に置かれたのは,長い歴史からみたら最近のことにすぎない。われわれはともに,漢民族の文化に照らされ,影響をうけ生きてきた。
「日常ではナシ族の言葉しかつかわないんだ,だから」
というようなことをおばあさんはぼそっと言った。言外には,僕の勘違いなのかもしれないが,北京語を押し付けられることへの不満が滲み出しているように感じた。

 さすがに地元のひとで,近道を教えてくれた。道路沿いの崖を越えていくのだ。それにしても,おばあちゃんはもう70歳にはなっている感じだが,健脚このうえない。としよりだからすぐ疲れる―と僕に漏らしながらも,軽々と崖を上っていった。この間,あまり会話がなかったのは,僕の語学力が不足していることもあるが,息が切れてそれどころではなかったこともある。
 崖を越えて,小さな川を超え,民家の間をぬけと10分ほど歩いただろうか。突然視界が大きく開けた。
―まるで,桃源郷のようだ。
 大げさかもしれない。しかし,そう思ったのだ。
天気も寒くない。むしろ春の陽気だ。一面に広がっていたのは,菜の花畑。黄色い花を一面につけ,緑と黄色のコントラストがなんともいえない風景を作り出していた。農作業をする老婆,買い物に行くのだろうか,牛を連れて歩く老婆が行きかい,ナシ語でおばあさんと挨拶を交わしていた。菜の花畑では蝶々が舞う。
 それは,まるでここだけ時間が止まっているのではないか,と思わせるほど穏やかな,なにか懐かしい風景だった。

「心洗われるような風景」
まさにこの言葉にふさわしかった。
長い旅行をして,いろいろな場所に行っているが,こう呼べる風景にはそうめったに遭遇しない。単に珍しい,素晴らしい風景とは違うのだ。
 シルクロードの青い空と砂漠のように,うまくいえないが,自分の心の中の汚い物が一気に蒸発していくような,穏やかな心地になる風景。こういう風景はむしろ,昔ながらの人がそのまま暮らす風景なのだった。

 桃源郷を歩いている時間は,そう長くなかったかもしれない。一見昔ながらの生活をしているように見えるが,それはあくまでも僕の目からである。電柱があり,電気は通っているし,道路もアスファルトで舗装されている。
 おばあさんは,そんな道路が通る,この小さな集落の中心地らしきところまでくると,肥料を買うために店に入った。

 大具にいくには長江を渡らなければならない。橋はない。
虎なら跳んでわたれるのかもしれないが,われわれ人間がわたるためには渡し舟が必須だ。その渡し舟の乗り場までは,この集落からもう少し歩かねばならないようだった。
 おばあさんは,肥料をかかえ,歩き出した。

「私の家族は5人で,子供は3人いる。でもみんな街に出てしまっている」
こういうような話をおばあさんは歩きながらしてくれた。
「おまえは,何であまりしゃべらない」
ずっと,おばあさんの言うことを聞いてうなずいている僕をみて,おばあさんはこういった。
「いや,中国語がよくわからないから」
もちろん,うそをついたわけではなかったが,むしろ老婆と話すべき適当な話題が思い浮かばなかったのだ。あたりさわりのない話をするほどの語学力がないという意味では間違いないのだが。
「旦那さんはどうしているの―」
そういう話題は,振りづらかったのだ。
 それで,僕はとりあえず,おばあさんの振ってくる話題に分かる限り答えることに専念した。重そうに抱える肥料もかわりに持ってあげた。

 おばあさんの家に着いたようだ。どうも,少し寄っていけ,ということらしいので,基本的に好奇心旺盛な僕は甘えることにした。
 家の中に入って,僕は,桃源郷のような世界,と安易に思う自分を恥じた。
 家の中は,貧しさをあらわしていた。
 決して散らかっているわけではない。しかし,電気はなく,だだっ広い土間に大きなテーブルがひとつあり,後は台所があるだけの平家だった。汚いからというわけではないと思うが,部屋のなかではハエがうようよしていた。暗く,じめじめした感じの部屋だった。
 当然,桃源郷のような,というのはそこに住む人の現実の生活を捨象した見方に過ぎない。それを,まざまざと見せ付けられた感があった。
 それでもおばあさんは,僕にお茶を勧めてくれたし,お茶請けまで出してくれた。
「睡眠薬が入っているかもしれない」
無用心かもしれないが,そう疑うことはやめてしまった。安全対策にはかなり慎重な方だが,虎跳峡でそのような手口による強盗があったという話はまったく聞かなかったし,なにより,一緒に小一時間ほど歩いて,しゃべってきた感じで,さすがにそれはありえないと思ったからだ。だいたい,だます気なら,もう少しきれいなうちに案内するものだし,おばあさん自身僕のバスの時間を気にして,間に合うなら―という趣旨で誘ってくれたのである。

 人間,騙されるときは,どれだけ疑っていても騙されるものである。まさか,ここまで親切にしてくれて騙すわけがあるまい,そういう記述を海外旅行の安全対策の本で読んだことがあった。
 しかし,もちろん,僕が睡眠薬で眠ることはなかった。

 おいしいお茶と,お茶請けをいただいて薄明かりの差し込む家で少しゆっくりさせてもらっただけだ。
 家の中では,あまりおばあさんと話をしなかった。話題がなかったのもあるし,語学力の問題もあろう。しかし,居心地の悪さはまったく感じなかった。
「そろそろ,バスの時間があるから―」
そういって僕が立ち上がると,おばあさんは家の外まで出てきて,見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。
 やむをえないとはいえ,おばあさんの好意を疑った自分を僕はひどく恥じた。



真ん中左の緑の服がやどのおばちゃん。その右は近所に住んでいてよく油を売りにくるおっちゃん。その後ろが旦那さん。なんとなく尻にしかれてそうだった。



 麗江は居心地のいい街だ。
 同室の人に,貴陽から来た大学生がいたが,その人は一日中中庭で本を読んでいた。僕ももっとゆっくりしたかったが,虎跳峡から戻った次の日の夜行バスで昆明に戻ることにした。今にして思うと,地元民と一緒にバスに乗ってもっと小さな村に行ってみてもよかったのかもしれない。

 宿の代金は,最終日に清算することになっていた。いままで中国の宿では必ず取られていた押金(デポジット)のシステムはなかった。それほど客を信頼しているのである。
 宿の代金と,夕ご飯の代金で90元近く(それでも3泊だったが)になる。僕は,計算してお金を宿のママに渡したが,全額はいらない,80元でいいという。僕は,あくまで引き下がったが,ママはまったく受け取る気がないらしい。
「あなたは,親に借金して旅行にきているんだから」
こう説得された。
「またきたときにかえしてくれればいいよ」
本当に金銭欲というものがない人らしい。

 宿からバスターミナルまでは,ミニバスともいえない,町を順次循環するワゴンのような小さな乗り合いタクシーに乗らなければならない。
 それで,やどのママの旦那さんが僕を一緒に乗り合いタクシーが捕まるところまで連れて行ってくれた。
 そして,車通りまで出たところで,クラクションを鳴らされたのでみてみると,虎跳峡まで行ったときの例の運転手だった。ママから話を聞いて急いで追いかけてきたのだろう。そして,乗り合いタクシーであることを示すボードを掲げて,車は乗り合いタクシーへと早変わりした。
 運転手さんは,親指を僕に向って立て,ニヤリ,と笑った。

 まったく,つくづくナシ族ってのは親切なんだから―
 僕は少し名残惜しさを感じつつ、麗江をあとにした。

                                                             (中国編,了)