2005年1月10日月曜日

廬山・陽朔―愉快な中国人


 中国歴史の旅を終え、僕は武漢の町に来ていた。最終的には、香港から日本に一時帰国しようと考えていたが、まだ寄り道する時間がある。
 漠然と、ヒントを得ようかと思って、バスターミナルに行ってみる。
 「赤壁」、三国志の赤壁の戦いで有名な地名が目にとまる。しかし、気乗りしない。もう、赤壁への距離感は地図で十分想像できたし、今までの中国歴史の旅から、赤壁は岩山に「赤壁」と文字が書いてあるだけの場所であることは容易に想像できたのだ。
 「廬山」。これだ。武漢で黄鶴楼を見た僕は、今度は詩情を掻き立てられていた。が、白状すれば、漫画「聖闘士星矢」の影響が大きい。廬山の瀑布が頻繁に描かれていたからである。実際、廬山をテーマにした詩は、李白の「廬山の瀑布を望む」くらいしか知らない。この詩も、子供のころ上記の漫画の影響でおぼえたものだ。
 ともかくも、武漢から九江を経由して、僕は真冬の廬山に入ることにした。
 武漢から九江までは、まったくローカルなバスであった。最初は空席が目立ったが、路上で次々に人を拾いあるいはおろして、ゆっくりと進みながら、バスはあっというまにいっぱいになった。
 九江の地図は持っていない。バスの運転手が何か言っている気がするが、聞き取れないうちに終点らしきところで降ろされた。例によってつたない中国語で「汽車站(チーチャージャン)」とバスターミナルまでの行き方をたずねると、はいよとばかりに3輪オートバイのおばちゃんが現れ、「2元」といわれるがままに後ろの荷台に乗せられた。あっという間にバスターミナルに着いた。おばちゃんとはそこでさよならかと思ったら、彼女はトラックを降りて僕の行き先を聞くと切符の売り場まで案内してくれ、バス乗場にまで連れて行ってくれた。しかも、バスの時間を確認してくれて、まだ15分くらいある、ご飯は食べたか、と弁当屋さんにまで案内してくれた。ここまで親切にされると、重慶でのおせっかいガイドのこともあるし、チップをねだられるのかと不気味だったが、暗に相違しておばちゃんは僕が弁当を無事に買ったのを見届けると身を翻して去って行った。
 そういえば、決して金目当てで親切な人ばかりでなかったな。中国は。電車の中で知り合った人たち、蘭州の白さん一家、皇都招待所の人たち、安西の張麗―数えだしたらきりがない。

 廬山は、雪で真っ白だった。比較的緯度は低いはずだけど、高度があるだけに寒いのだろう。「香炉峰の雪は簾をかかげてみる」という白楽天の一節を思い出し、そういえば昔から廬山は当然雪が降るところだったんだなと納得した。
 入山料を100元だか払わされて、町の中に入る。観光客らしい乗客は僕だけで、後はみんな現地の人のようだった。僕以外に入山料を支払っている人はいなかった。バスを降りると待ってましたとばかりにホテルの客引きが寄ってくる。もちろん泊まるあてがあるわけではなかったので、そのうちの一人についていった。
 料金表をみると、一番安い部屋でも60元と、とても予算に合わない。じゃあ、と回れ右しようとすると、必死で引き止められた。「60元じゃとても泊まれないよー」というと、「安くするから」とどんどん値段を下げていく。「35元」といわれてもなお断ったが、「一度部屋を見てくれ」といわれたので試しに見に行ってみる。結構きれいな部屋だ。シャワーもトイレも室内についている。「20元ならいいよ―」と言ってみると、客引きのおばちゃんは「30元」「25元」となおも粘る。こちらが譲らないのを見て、携帯電話を取り出して、オーナーらしき人に電話をしてどうやら20元でいいかどうか確認しているらしい。OKが出たようで、あきらめ顔で「20元でいいよー」。これで商談成立。冬場はよほど観光客が来ないらしい。ちょっと足元を見すぎた気がするが、オーナーに電話までして値段を下げさせたのはそれほど多い経験でないから、まあ良しとしよう。
 しかし、雪の廬山は交通の便が本当に悪いらしい。例の廬山の大瀑布は結構遠くにあり、車をチャーターしていかなければならないらしい。宿の従業員が、「別の観光客と車をシェアしないか」と持ちかけてきた。それで、一緒になったのが上海からの大学生二人組だった。
 一人は体格どおりどっしり落ち着いたタイプ、もう一人はこれも外見どおり飄々としたタイプ。調子のいいやつで、僕がデジカメを持っていると知ると、自分もとってくれとどんどん撮らせた。あとで廬山の町の写真屋に寄って、すぐにデータを印刷したのだが、それに僕も付き合わされた。容赦なく「これだけの枚数印刷するんだから安くしろよ、そうだ、お前も印刷するだろ、じゃあもっと一枚あたりの値段を安くしてくれ」とこっちの意向もお構いなく強引に話を進めていく。その一方で、「客なんだから椅子とストーブの前の場所を譲れ」と店員をどかして、僕に席を勧め、自分も座る。なんだかすっかり彼のペースだったが、なぜだかそう憎めないやつではあった。新たなタイプの中国人だな―と思って一人おかしかった。
 それで、結局遠くの滝を見に行ってもしょうがないだろ、という学生2人の主張により、「廬山の瀑布」には行かず、近くの滝などを見ることになった。まあ、廬山には多数の滝があるので、漫画でこだわりでもなければわざわざそれを見に行くことはなかろう。実際、李白の詩も僕の思う「廬山の瀑布」を詠んだものなのか、はっきりしないらしい。
 結局寒い廬山に何日もいたってしょうがないので、一泊してまたふもとの九江にもどった。学生2人組も同じバスだったが、電車で上海に帰る、とバス停でさよならした。

天橋。まるで天然の橋のように石が突き出ている。


 次の行き先を九江まで向かうバスの中で考えていた。桂林に行きたいと思っていたので、コンパクト版の時刻表を見ると、南昌から直通の夜行電車が出ているらしい。九江と南昌はバスで数時間なので、一気に南昌に向かうことにした。
 南昌へ到着したのはすっかり日も落ちたあとで、若干不安だったがすぐに安宿は見つかった。「外国人もとまれるか」と宿に入って聞くと、従業員の女の子たちは目を丸くしていたが、「いいよ」ということであっさりとまた20元の宿が見つかった。
 南昌は、国民党の武装蜂起があったことで有名な町だが、これと言って観光のネタはなかった。それでもガイドブックに載っている町なので一応一通り見てまわって、夜行列車に乗り込む。
 何がきっかけだったか、一人の老人に話しかけられた。この老人はシリアスな話が好きなようで、僕が日本人だと知ると、「昔日本と中国は戦争をしたことを知っているか」と聞かれたり、学生か、何を勉強しているんだ、どこへ行ってきたんだ、などなどいろいろ聞かれた。最後は、「今後は日中友好が大事だ。若い君たちががんばってくれ」と話を締めくくってくれた。
 南昌から南寧まで帰省するという大学生の集団とも話した。自分たちの専門の話、日本文化の話、日本人の収入や結婚年齢の話など、話題は尽きることはなかった。そのうち、例によってギターで日本の曲を披露した。中国人は「東京ラブストーリー」が大好きなので、みな小田和正の「ラブストーリーは突然に」を知っている。それも歌ったし、kiroroの「長い間」「未来へ」という曲は劉若英というアーティストがカバーして大ヒットしているから、よく知っている。このあたりの曲を歌うと大うけだった。
 近くで何事か、と見ていたひとも多いようで、「まるで陳小春みたいね」という若い女性からの声援?も頂いた。陳小春とは、そのとき筆談で教えてもらったが、香港の大スターなのだそうである。ほんとうに似ているらしく、その後中国人や台湾人に何度か「似ている」といわれたことがあった。
 大学生のみんなや、シリアス老人、陳小春ファン?の若い女性などと、話は尽きることはなかったが、やがて消灯時間となって、後日の再会を期して、みな床に付いた。今度は硬臥だったが、前の硬座24時の時より盛り上がった列車の中だった。

ちょっと昭和のかおりがする大学生たち

 電車はまだ薄暗いうちに、桂林に到着した。すぐに僕はバスに乗って、桂林近郊の町、
陽朔に移動した。姉から、陽朔のほうが町が小さいし、旅行者向けにすごしよい、ということを聞いていたからだった。
 陽朔もまた出会いの宝庫だった。陽朔は、桂林同様石灰岩が丸く隆起した奇峰がつらなる水墨画のような風景が有名な町だ。西洋人のバックパッカーも多数くるような風光明媚なところなので、電車の中のシリアス老人も教えてくれた通り、みんな英語ができる。つまり、だいぶ観光客なれした町なのだが、田舎町だからなのか、みんなとても気のいい人たちばかりだった。例えば、蘇州で感じたような、旅行者を金としか思っていないような感じは一切受けなかった。
 すぐに宿泊先の従業員と仲良くなった。例によってギターを披露したり、名物の砂鍋をおごってもらったりと、特に従業員のリーダー格の偉君と、湖南省から来た郭君とはだいぶ話した。偉君は、下の名前「利林」にちなんで「トシ」と呼んでくれと言って、日本語を勉強中なので教えてほしいと僕に頼んだ。
 今、筆談ノートを見直してみると、ほとんど会話のメモがない。このころでは、サバイバル旅行でだいぶ中国語も鍛えられていたし、中国語でダメな部分は英語で会話したと思う。
 ご飯は、ティナズカフェというところでよく食べた。最初、なぜこの店に入ったのかはあまり記憶がない。店の前においてあるメニューをみて惹かれたのだと思う。テリーとサリーの2人とはここで仲良くなった。2人はまだ高校生くらいで、確か年齢を聞いたら18だったと思う。もちろん、テリーとサリーと言っても生粋の中国人で、英語風のニックネームだ。店に入ると、「今日はどこに行ってきたの?」とか「隣に座っていい?」などと何かと話しかけてくれる。一人旅の僕にとっては恰好の話し相手だった。
 2人とも、英語をもっと勉強したいらしいが、あるいは西洋人は敷居が高いのだろうか。それで、一人旅の日本人である僕に何かと英語で話しかけてくる。僕は僕で、中国語を教えてもらう。ご飯をサービスしてくれたり、ここに行くといいのよ―といろいろ世話してくれたりするので、すっかり2人が気に入ってしまった。末っ子なので、妹がいたらこんな感じだろうな、と思って。
 陽朔の町は、本当に過ごしよかった。自転車を借りてあたりを走ると、奇峰が立ち並ぶ風景が続く。目を驚かせる景色の連続なのである。うまい表現が思い浮かばないが、子供のころやったドラクエでたとえれば、ボスキャラ級が次々出現するような、そんな油断のできない風景が―他の場所だったらこの山ひとつだけで一大観光地になる、というような山が―次から次へと現れるのだ。
 冬であるが、気候も北に比べればだいぶ温和だ。青島、洛陽など、北のほうでは凍える寒さの連続だった僕にとっては気候の意味でもかなりよかった。
 すっかり陽朔が気に入ってしまった。ユースのみんなも、ティナズの2人も気に入って、この後広東省の姉の家によって、香港から一度家に帰るのだが、香港から旅の続きを始めるとき、春節でごった返す陽朔にまた来て、3日くらい滞在した。3週間くらいぶりの再会をユースのみんなやテリーとサリーと果たし、僕はこの地を後にして、桂林から貴州省の貴陽に旅立った。

 九江のおばちゃん、廬山の大学生、夜行列車のみんな、陽朔のみんな、ほんとに気のいい人たちばかりで愉快だった。ここには書かなかったが、陽朔で出会った旅行中の中国人など、数え切れない人たちと話をした。
 不愉快、とまではいかないが、違和感を覚えたこともある。陽朔には観光客向けのバーがあって、そこでバンドがライブ演奏などをしている。郭君と2人でそういうバーに入って話していたところ、シンセンから来た、ホテルを経営しているという金持ち一家のおばさんに「日本人!」ということですっかり気に入られ、しまいには一緒にステージに上がってバンドに演奏させて「時の流れに身をまかせ」を歌う羽目になった。おばさんは上機嫌で、小さな瓶で一瓶20元くらいするバドワイザーだか、ハイネケンだかの輸入ビール(ちなみに国産の青島ビールの大瓶は大体2、3元である)をどんどん薦め、われわれに奢った。お金を出そうとする僕に対し、郭君は制止して「いいんだ。お金を持っているんだから、払わせておけば」。いかにも成金の振る舞いに好意をもっているような口ぶりではなかったし、僕も内心辟易していたので、まだ上機嫌でわれわれを引き止めにかかるおばさんを尻目に、僕らは店を出た。急激な経済成長と貧富の格差の実態が、あまりにもわかりやすくおばさんの行動に現れていた。
 湖南省は貧しい土地柄と聞く。郭君が「僕もシンセンに行くつもりだ。シンセンにはオポチュニティ(チャンス)がある」とこのおとなしい人が珍しく感情をこめて言っていた。
 英語をもっと学ぼうと一生懸命なテリーとサリー。英語にくわえて、日本語もものにしようという偉君。陽朔の町を飛び出してさらなるチャンスを求めようとする郭君。その行き着く先が成金おばさんでなければいいが―。僕が出会った愉快な中国人たちは、あるいは金銭的には裕福でないかもしれないが、決して心は貧しいことはなかった。



陽朔は本当に風光明媚なところだ


0 件のコメント:

コメントを投稿