2005年1月1日土曜日

襄陽・重慶・三峡下り―史記・三国志の旅(2)


 本当の意味で一人ぼっちの旅行だった。一人旅をしていても、別の場所では似たような旅人に会うことが多い。ところが、今回は全く観光ルートを外れているがために、上海を出て以来、同じような旅人に出会うことも、日本語を使ってしゃべったこともなかった。ただ、淮陰のレストランの親切なおばちゃん、徐州の宿のこれまた親切なおばちゃん、洛陽のホテルの女の子―僕がギターを持っているのを見て何か歌ってくれとせがんだ。テレサ・テンの「時の流れに身を任せ」を中国語で歌ってあげると、気に入ったようで僕が宿泊している間よく鼻歌で歌っていた―、洛陽のホテル近くのレストランの従業員の人懐っこい女の子たち。みな良い思い出だが、決して僕の孤独を十分に埋めてくれるものではなかった。
 予想にたがわず、三国志の史跡めぐりにも飽きてきた。楽しみといえば、距離感をつかむことだけである。洛陽から襄陽への距離感も概ねつかむことができた。
 三国志で「荊州」という場合に、大体この襄陽あたりを想像して差し支えない。現在の荊州は、当時の江陵という長江流域の都市である。三峡下りのあと、現在の荊州の町に行ったが、三国志関係の史跡は取り立ててないように思えた。襄陽は漢水の南側の町であり、樊城とは漢水を隔てて向かい側に位置する。現在は都市の名前自体も襄陽・樊城の頭文字をとって「襄樊」とされている。関羽が呉に殺害される前に守っていたのは樊城であるし、劉備が諸葛亮を三顧の礼で迎えた新野城は襄陽から少し北に行ったところにある。有名な長坂橋の戦いなどもこの付近での出来事である。
 電車が襄樊の駅に到着したときは、既に夜の帳は完全に下りていた。例によって客引きのおばちゃんについていって、安い宿を確保した。ここでも宿の人たちはかなり親切だった。駅から遠く、交通がどうしても不便なため、翌日駅前の宿に変わったが、駅まで送迎してくれ、次に重慶まで行くという僕に「それなら電車だな」とチケット売り場まで運転手のおっちゃんは案内してくれた。観光客ずれしていない町なのであった。
 諸葛亮が三顧の礼によって迎えられる前に隠棲していた地は古隆中という場所で、このあたりでは一大観光地である。隠棲地であるから、ポツンと庵が一つ建っていたような場所なはずだが、行ってみると20個くらいは建物があったように思える。「草廬遺址」という碑があったが例によって怪しい。
 ただ、新野あたりから雪の降る中諸葛亮を迎えに行ったという劉備一行を想像して、何となくおかしかった。雪は降っていなかったが、積もっていたし、池は凍りついていた。張飛がぶつぶつ言いながら雪の中馬を走らせる光景を想像したのだ。
 古隆中で一人の少年に出会った。まだ中学生くらいの子だ。売店の店員みたいなことをやっているようだが、正式な店員でないのか、自由が利くようだ。少しつたない中国語などで話をしていると、「一緒にローラースケートをしに行こう」というので、ついていくことにした。近くの小学校の体育館らしいところに入ると、驚いたことに100人くらいの子供がローラースケートでぐるぐると体育館を回っていた。諸葛亮が隠棲していたくらいだから、今でも人里はなれた感じの場所である。どこにこんなに人が、しかも子供が位しているのだろうと不思議だった。
 ローラースケートは貸し出しをしていないらしく、ダメだと少年が言うので、僕らは一緒にご飯を食べることにした。川魚らしきものを一匹煮たものなど、色々食べて、僕らは分かれた。それだけのことだ。そして僕は古隆中を後にした。

孔明の草蘆跡だが、怪しい

 翌日は襄陽の町を歩いてみることにした。後に三峡下りの後に訪れた荊州(かつての江陵)もそうだが、襄陽には城壁が残されている。明代に修復されたもののようだが、中国の「城」の概念を体感するには丁度よい。日本で「城」といえば、普通天守閣など城主が住む館や要塞を思い浮かべるが、中国で「城」とは都市を指す。城壁で囲まれた一角がまるまる都市なのである。もちろん、今では襄陽の城壁外にも町は広がっているが。
 町歩きは、まあ、面白いが退屈だった。面白いものはいくらかあるのである。汚らしい市場や、路上でマージャンをする人々、民族衣装を着てパフォーマンスをする人々、ビルの上から者を投げていたずらをする少年達、思い返してみると、地方都市の日常というのがこの町に集約されているような感じだった。ただ、僕が町に溶け込みすぎているのかもしれない。特に声をかけられることもなく、黙々と町を歩いた。
 襄陽の町にも大きな公園があった。町中のどこでもそうだが、とにかく中国は人が多い。公園は市民の憩いの場なのだろう、家族ずれなどで大賑わいだった。
 僕は歩きつかれてベンチに腰をかけて、確かデジカメをいじっていたのだと思う。3、4歳くらいの女の子2人がまつわりついてきた。「なあに、それ。見せて」とでも言ったのだろうか。聞き取れなかったので僕はつたない中国語で「デジタルカメラ」と言って二人に見せた。発音におかしなものを感じたのか、珍しいものを持っている都会人と思ったのか、「あなたは北京人」と尋ねられた。「いや」と答えると、「じゃあ東北人」と更に尋ねるので、これも「いや」と答えた。なぜだか「日本人」と答える気がしなかった。
 女の子は首をひねって「でも、南方の人ではないみたいね」というような表情をした。が、それも一瞬のことで、すぐに「写真とって」とねだって、僕は彼女らのいい退屈しのぎとなった。もちろん、僕の退屈しのぎにもなっているが。
 そうこうしているうちに、何か複雑なことを中国語で言ったので、僕は理解できなかった。筆談ノートを出して書いてもらうと、綺麗な漢字で「これから私たち遠くに行くから、それを写真にとってね」という意味のことを書いた。中国にはひらがながないから、小さな子供でもこれだけの漢字を書けるのだな、と感心した。
 そういって、こっちを見ながら去っていった。親元に帰ったのだろう。また一人に戻って散歩を続けた。

 そして襄陽から重慶に向けて夜行電車に乗った。誰も僕が日本人と気付かなかったし、上海から蘭州のときのような体験もないまま、電車は翌朝、霧深い重慶の町に到着した。


こんなに小さな子どもでもしっかり漢字を書く


 重慶の町は、僕が知らないだけかもしれないが、取り立てた観光地がない。重慶では、長江と嘉陵江という二つの大河が交わる。山間の坂ばかりの都市だが、3000万近い人口があるというから、飲料水や農業用水の豊富なことと、水運の影響力の偉大さを感じざるを得ない。
 ガイドブックによると、重慶の反日感情は強いという。僕の勉強不足だが、重慶の近代史を全く知らなかった。日中戦争時、蒋介石の国民党政府がここを臨時首都とした際、日本軍は苛烈な爆撃を行ったらしい。中国側の資料では、死者が11000人を越えるというから、戦慄すべき行為と言ってよい。4年後、同僚を上海に案内する機会があって上海の歴史や特に上海事変などについて勉強した時にも思ったのだが、もう少し日中戦争の流れについて詳細に高校で学ぶべきでないか、と思う。自分の不勉強を棚に挙げての話だが。
 僕が重慶に来た理由は、三峡下りの基点だからである。実際、駅で電車を降りると一見して旅行者風の僕は客引きから次々と声をかけられて勧誘された。ただで町まで車に乗せていってくれるという人が現れ、たしか大分きつく「無料だな」と問い返したのだろう、乗ることにした。そうすると、案の定旅行会社に連れて行かれて三峡下りを勧められた。相場が分からない僕は断った。観光船でなく、普通の交通手段としてフェリーがあるはずなので、一般の中国人が買うチケット売り場で買うのが一番確実なはずである。
 チケット売り場に行くと、若い女性とおばさんが2人で担当していた。僕は、白帝城と張飛廟は欠かせないと思っていたので、筆談ノートを使って必死で行けるかどうかを確認した。その中で、おばさんが
「あなた、韓国人か」
と聞いてきた。僕は隠すことなく、
「日本人だ―」
と答えた。
 するとすぐにおばさんは眉間にしわを寄せて、不快の表情をあらわにしたが、横から若い女性のほうが
「日本人も韓国人も差不多(チャーブドゥオ)」
と、たしなめるように割って入ったのが今でも深く印象に残っている。「差不多(チャーブドゥオ)」とは読んで字のごとく、「差多からず。大差ない」の意味だ。そうやって雰囲気が険悪になるのを避けてくれたのであった。こうして翌日の夜発のチケットを手に入れた。
 ホテル探しも決して容易でなかった。例によって安いホテルを探すのだが、なかなか見つからない。そんな僕を見咎めたのか、勝手に僕にまつわりついて
「ホテルを探しているのか―」
と、案内してくる男が現れた。僕は無視して、いかにも安そうな宿に行って空室を確かめてみたが、外国人不可とか値段が高すぎるとかでなかなか決まらない。
「重慶は物価が高いからそんな安いホテルはないんだよ」
怪しげな満面の笑顔でそんなことを言ったと思う。もちろん、そんな話は全く信用しなかったが。
 とはいえなかなか見つからないので、彼の勧めるまま、ためしに何十階とあるビルに入ったホテルに入って値段を聞いてみた。シングル170元とか言われ、すぐに回れ右して出て行こうとすると、従業員が必死で「安くするから―」と引き止めてきた。
「僕は学生で金がないんだ。どれだけ高くても60元くらいでないと泊まらないよ」
こういうと、相手方も徐々に値段を引き下げてきた。最終的に「110元」となったときに、僕も根が切れて泊まることに決めた。シングルで、部屋内にトイレ・シャワーつきであり、エアコンも24時間付け放題、お湯も24時間でるという。部屋をみるとなかなか綺麗なものだった。この長い旅行中、後にも先にもこんなにいいホテルに泊まったことはない。値段的には、実は河回マウルの民泊(約2500円)が韓国からタイまでの旅行をとおして最高値だったと思うから、それでも安いが。
 その後、荷物を部屋において、両替するために彼がまだうろうろしていた。「どこへ行くのだ」というから「中国銀行、両替」というとまた勝手に案内してくれ、勝手に両替を請け負ってくれた。
 そうして、別れ際に
「小費(チップ)」
と手を差し出してきた。まあ、途中からそう予想はしていたが、「お前が勝手についてきただけだ」とやりあう気力はなかったし、途中で追い払わなかった僕も悪い。そこで10元(約150円)札を渡すと。
「不好意思(わるいねぇー)」
と言って満面の笑みで去っていった。
 以上のチケット売り場でのやり取りと、インチキガイドとのやり取りが僕にとっての重慶の点景だ。
 一人旅の寂しさは、募るばかりだった。



重慶は霧深いまちだ。対岸まではロープウェイで移動する。


 船に乗り込むと、日本人とみたか、早速旅行社の人間らしき人が寄ってきた。どうやら、オプショナルツアーを売り込むつもりらしい。旅行社の人間は「小姐が来るからまってて」と言い残していったが、そこで登場したのが、劉敏(リィウ・ミン)小姐である。小姐といってももう30は軽く過ぎている、おばさんといって差し支えない感じの人だった。
 「白帝城は、真夜中に通り過ぎてしまうから、寄ることが出来ない」と言う。チケット売り場の女性とは言うことが違うので突っ込んでいくと、どうやら途中下船して行く気なら不可能ではないということらしい。長江ダムができると、白帝城は島になってしまうらしいし、白帝城はなんと言っても孫権に敗れた劉備が諸葛亮に後事を託す地である。「劉禅(劉備の子)に力がなければあなたが皇帝になってくれ」と劉備が諸葛亮に言った話は三国志演義だけでなく、正史にも出ている。劉備の人柄を表すようなストーリーだが、それだけになんとなしに白帝城にはあこがれていた。結局、あきらめた。
 船の中では、久しぶりに観光客に出会った。2等船室では、青島から来たという老夫婦と、福建省から来たという自称商売人と一緒になった。自称商売人は乗りのいい人で、僕にギターを弾いて歌うように何度かリクエストした。当時中国で流行っていた、刀郎という新疆を主題にする曲が多い歌手の歌を歌うと、大分僕のことを気に入ったようで、いろいろ親切にしてくれた。老夫婦は、仕事をやめてから中国各地を旅行しているのだ、と言った。僕が日本人でほとんど中国語も分からないまま旅しているのを聞いて、「You're very good!」とほめてくれた。
 オーストラリア人が3人乗っていた。別に、欧米人と華僑らしく北京語と英語を操る女性のカップルも乗っていた。僕らは、トランプゲームなどに興じて楽しんだ。
 困ったのは、商売熱心な劉敏小姐が、オプショナルツアーがある観光地に差し掛かるたびに、僕にその内容を中国語でわーっと説明して、「お手数だけど、オーストラリア人たちに英語で今のことを伝えてくれ」と来ることだ。中国語もろくに分からず、英語だって受験英語程度しか知らない僕が、にわかにトリリンガルをやるのはちょっと大変すぎた。
 船の上ではマージャンをやっている人がいた。マージャン嫌いでない僕がそれを見ていると、
「やらないか―」
と誘いをかけられた。
 簡単に結末を語れば、1万円弱騙し取られた。僕以外の3人はグルで、いかさまマージャンなのであった。僕は最初賭けではないと思っていたが、いざ席に着くと一点100元だかのとにかく日本の物価から考えても高額なレートでやるという。普通なら1元くらいのものだったと思う。その時点でやめるといって引き下がればよかったが、「中国人とマージャンで交流」という事態に判断能力がマヒしていたのか、席を立てなかった。
 敵は三順もしない間に上がりを積み重ねていったので、あっという間に僕の手元から金はなくなった。もう金がないんだ―といってやめたいという僕を、彼らはあまり引き止めることはなかった。それはそうだ。この地域では1ヶ月ぶんの給料ぐらいの金額をものの10分程度で稼いだのだから。
 劉敏小姐が心配していたらしく、
「船にはいかさま師がいるから注意しなさい、と言おうと思っていたところなのよ」
と部屋に戻った僕に結末も聞かず言った。
「いくら損したんだ」
と聞いたのは、自称商売人の彼だった。
「中国にはいい人が多いが、悪い人もいるのだ」
厳しい顔つきで、老夫婦の主人のほうが僕を諭した。
 船は2泊3日で宜昌に到着するが(3泊目の朝に到着したのかもしれないが、忘れた)、船の中ではこんな感じだった。



新張飛廟は由緒もなにもなかったが、夜景が美しかった





 張飛廟は、長江ダムの完成にともない、水没してしまうそうだ。水没にともなって移転するそうだが、張飛の首が流れ着いた由緒ある場所にたつ張飛廟を見るのはこの機会を逃せば不可能だろう。そう思って、例によって張飛廟の説明をお願いに来た劉敏小姐に、古い張飛廟に行くんだよね、と聞くと、
「新的」
新しい張飛廟に行くという。
「うそだろ、もうすぐダムが出来て水没してしまうのに、何故新しいのに行くのだ―」
びっくりした僕は、筆談でなく、おそらく当時もてる最大限の中国語力でこう伝えた。すると、劉敏小姐は、
「一様的(いっしょじゃないか)」
と、何でそんなことを気にするんだ―といった顔で首をかしげた。
 このやり取りが、僕の今回の史跡めぐりの旅を象徴的にあらわしているような気がした。

  そんなこんなで、寂しさは結局まぎれることはなかったと思う。張飛廟は、いかにも由緒なく、ただ三国志の物語にそって銅像などを展示しているようなものであった。張飛廟から眺めた対岸の夜景が、神秘的に美しかった。
 中国人の乗船客は、張飛廟からでると、10人くらいで食堂に入って皆でご飯を食べていた。劉敏小姐が気を利かせて、僕も一緒に食べるように言ってくれた。
 食堂ではお米が足りないらしく、マントウ(肉まんの生地だけで中身がないものを想像すればよい)で誤魔化していたが、野菜の炒め物、チンジャオロースーやらホイコーローやら、スープなど、何の変哲もない普通の中華料理ではあるが合計10皿以上の料理が食卓に並んだ。

 おいしかった。このときの食事は、涙が出そうなくらいおいしかった。
 中国歴史の旅の間、何週間かくらい、ずっと一人でご飯を食べていた。食堂の従業員と仲良くなって話したり、いろいろしゃべる機会はあったが、ひとりの食事が寂しさを増幅させる原因になっていたのかもしれなかった。
 司法試験の受験勉強をしているころ、1週間くらい誰とも会話しないということもしょっちゅうあった。もちろん、食事も毎日一人だった。その時よりも寂しさを感じていたのは、異国ならではの不安ということなのだろうか。

 船を下りれば、またしばらく一人だな―
 僕は満腹になって、船までの短い道のりを歩き出した。