2004年12月26日日曜日

淮陰・徐州・沛・洛陽―史記・三国志の旅(1)


 考えてみると、ガイドブックにも載っていない町を旅するのは初めてだった。
日が落ちかかったころ、上海から長時間バスに揺られ、ようやくバスは淮陰に到着したらしい。
 ―子供のころ、地図帳で名前を見てはあこがれていた地にようやくたどり着いた!―
 などという感慨は全く沸かなかった。
 ただ、異国で何の情報もない町に一人でやってきたことに不安を覚えた。
 バスターミナルらしきところには、やれタクシーだ、人力車だ、なんだという客引きがバスから降りてくる我々を待ち構えていた。そのなかの一人が、「淮安へはこのバスに乗るんだ」とマイクロバスを指差すと、確かに「淮安」という文字と、市内バスであることを示す?Aだかの○数字の安っぽいシールが車体に貼られている。淮陰は昔の地名で、今は淮安市と名前が変わっていることを僕は知っていた。
 ―まさか、こんな田舎町で旅行者を騙そうなんてこともなかろう。
 そう思って、僕はバスに乗り込んだ。
 後で分かったことだが、バスが到着したのは楚州区という淮陰では南の地域で、僕が訪れようとしている韓信関係の史跡は全てこの地区にあった。無駄足だったのだが、それはいい。
 淮安の鉄道駅までバスは僕の不安を裏切るかのように運んでくれた。大きなバックパックを背負っている僕は、オフシーズンの宿屋の客引きにとって格好の餌食だった。すぐに一人のおばさんが声をかけてきた。僕は、青島での経験もあったので、外国人でも泊まれることを確認した上でついていき、シングルの部屋を20元にまけてもらった上で宿をそこに決めた。
 落ち着いた。
 改めて、「寝るところがある」ことの重大さを感じたのであった。以前、上海で電車に乗り遅れたとき、一泊350元くらいの、僕にしてみれば高級ホテルにチェックインしたときもそうだった。しかし、意外にまあ何とかなるものなのだ。究極的には、お金さえ惜しまなければ、また泊まる宿のグレードにこだわらなければ、何とかなるものなのである。
 落ち着いたついでに、すぐに地図を仕入れて、夕食を食べに行ったレストランのおばちゃんに韓信関係の遺跡をどうやって回ったらいいのか訪ねた。おばちゃんは実に親切で、それは全部楚州区にあること、何番のバスに乗ってどこどこでおりて、そこには人力車が待っているから10元はらえば三箇所回ってくれるはずだ、と実に必要な情報を明快に示してくれた。
  韓信という人のことに少し触れておく必要があろう。
 韓信は、前漢の初代皇帝劉邦に仕え、全国統一に尽力した有能な武将である。淮陰のあたりに生まれ、若いころから志を持っていたが、貧しかった。釣りをしていて腹をすかせている韓信を見かねて老婆が飯を韓信に恵んだ。韓信は感謝して、「後日必ずお礼をする」と言ったところ、老婆は「大の大人が腹をすかせているから、哀れんで飯をあげただけだ。見返りなんか期待するものか」と答えた。また、ある日韓信が町を歩いていると、ならず者に「お前は体はでかくて剣も下げているが実は臆病者だろう。俺を切るか、さもなくば股の下をくぐってみろ」といわれて平然と股をくぐり、町の人に臆病だと笑われたこともあった。後日韓信が大出世したあと、老婆には千金を与え、ならず者は「あの時お前を殺すことは簡単だったが、あの時そうしなかったおかげで今日の私がある」として中尉に取り立てている。
 韓信が老婆にご飯を恵んでもらったという所には漂母碑という祠がある(韓信が釣りをしていたのは「史記」の注によると淮水という町の北にある川であったとされるが、祠があるのは淮水でなく、池である)。韓信がならずものに言われて股をくぐったという橋(「史記」には橋と出ていないが、なぜか橋らしい。しかし、現在のこるのは通りのゲートのようなものである)のあともあった。取ってつけたように建っているもので、もちろん由緒も何も感じられなかった。予想していたことなので、それはそれでいい。
 記憶に残っているのは、淮陰、しかもその楚州区という田舎の風景だ。人力車は、舗装もされていない田舎道を走った。放し飼いの鶏があるいていた。子供たちがゴムボールか何かを追って遊んでいた。市場があった。犬が皮を剥がれてつるされていた。魚が桶に入れられて売られていた。そして、僕は金髪碧眼の欧米人ではないから、何の違和感もなくそんな町に溶け込んでいたようだ。すれ違う人が興味深そうに僕を見るようなことは一切なかった。中国の原風景らしきものがそこにはあった。そして僕はそこに同化したかのようであった。
 僕は、志を胸に辱めを甘受した韓信、千金をもらったり、取り立ててもらっておそらく目を丸くしたであろう老婆やならず者、そして韓信を嗤った町の人々らの感覚にすこし肌身で触れることができたような気がしたのであった。

股くぐりの場所は全く由緒を感じない

 淮陰の次は徐州に向かった。言うまでもなく、三国志の劉備は「徐州の牧(長官)」としてこの地をおさめていた。そして、実は項羽が故郷に錦を飾った彭城というのは徐州のことである。しかも、劉邦の故郷である沛県というのはこの町のすぐ北にあり、三国志でも小沛という名で登場する。いわば、僕のような人間にとっては垂涎の地である。
 ここでも、観光地は似たりよったりのものであった。それも分かっているので、がっかりすることはない。呂布が、劉備と袁術配下の武将の戦いの調停をするために、「150歩先にある戟の要の部分に、私が矢を打って刺さったならば和睦せよ」と言って見事射抜いたという話が三国志演義にある。この稿を書く際に調べるまで全くの創作だと思っていたが、魏書呂布伝にもこの話が出ていた。150歩先は大げさなのだろうが。
 ともかく、その場所に碑が立っていて、呂布射戟台と名付けられている。近くにはビリヤード台が置いてあって、普通に住民がビリヤードをやっていた。漂母碑や韓信の股くぐりの橋よりももっとひどい、とりあえず作っておけといういかにも中国的発想の産物だった。
 沛も田舎だった。普通の中国人の普通の風景を見ることが出来た。公園の池は寒さで凍りついていたが、なんと寒中水泳をする人たちがいた。同じ池で氷を割って魚を取るためか、網を投げている人がいた。呂布の射撃碑までの道が分からず、地元の人に尋ねると、その人も知らないらしく他の人に相談したうえで教えてくれた。寒さのあまりなのか、犬が路上で死んだようにあちらこちらで寝転がっていた。このあたりは犬をよく食べるらしいから、あるいは食用の犬なのだろうか。
 淮陰から徐州までの距離や、徐州から沛までの距離、そしてだだっ広い平地をバスで通ることが、はるか2000年の昔進軍する軍隊などを髣髴とさせた。彭城の跡は、徐州でも小高い丘の上にあったようだ。沛は全くの平地であった。こういう地域で呂布と劉備は攻防を繰り広げていたのだ。沛県というこんな小さな町(とはいえバスターミナル付近にはビルがそれなりに立ち並んでおりいわゆる田舎を想像してた僕は少し面食らったのではあるが)から蕭何、樊膾(ヘンは口)、夏侯嬰、曹参、周勃といった前漢の名将・名宰相たちが生まれたのだ。中国の広さを自分の足で知っているだけに、そのことの偉大さを改めて感じた。

彭城の項羽はなかなかりりしい
次は洛陽だ。洛陽は、後漢の都であった。後漢が宦官の専横によって乱れ、その宦官を誅殺したことからさらに混乱し、やがて董卓が実権を握り、後に討伐軍に追われ董卓は洛陽を焼き払い、長安に強制的に遷都する。三国志の前半は洛陽を中心に進行した。
 洛陽は大都会といっていいかと思う。淮陰や徐州以上にこころときめくものは感じなかった。三国志関係の史跡で見るべきは、関羽の首を祭ったという関林廟くらいだ。ここでもやはり、徐州から洛陽までの鉄道が往時の感覚をしのぶのに一番よかった。
 新年を洛陽で迎えたが、一人だった。一人旅の貧乏人を慰めるような場所は少なくとも僕にとってはないように思えた。少し孤独を感じて疲れていたのかもしれない。
 洛陽では有名な龍門の石窟や白馬寺を見て、次の目的地、襄陽に電車で向かった。



2004年12月23日木曜日

韓国人の不思議な自然さ―ソウル・青島・上海


 以前、シルクロード旅行記でスンヨプとの出会いについて書いたことがあると記憶している。その際、韓国人と会話すると、なぜか後になって違和感がない、まるで日本人といたようだ、と書いた記憶がある。今回も、そんな韓国人との出会いのお話。

 安東からバスを使って、一路僕はソウルへと向かった。プサンで引いた風邪は十分に治りきっていなかったのかもしれない。ずっと頭がボーっとしており、ソウルでの常宿と勝手に決めていたキムズゲストハウスに朦朧としながらたどり着いた僕に、オーナーのキム・サニーさんは自分の夕食であるキムチチゲを振舞ってくれた。

 キムズゲストハウスは、2度目だった。前の年、司法試験に失敗した僕は失意で勉強に全く手がつかず、ふと思い立って韓国への放浪の旅に出かけたのだ。その時に、たまたま選んだ安宿が、キムズゲストハウスだった。その後世界各地のいろいろなゲストハウスに宿泊しているつもりだが、このゲストハウスほど家庭的でフレンドリーなものはいまだに出会ったことはない。当時、ゲストハウスの構造は、1階にドミトリーが一部屋と2階に個室が何部屋かあったと思う。そして、1階のリビングとダイニングでは皆がくつろげるようになっているが、実はこれはサニーさんの家族と共用なのだ。安東の民宿(ミンバク)も実に家庭的であったが、こっちもそれに劣らず家庭的である。そして、サニーさんは長い間日系企業に勤めていたことがあり、日本語が堪能で、日本の文化にも精通し日本人に好意的で、そのせいか日本人客も多い。
 前の年に来たときには、ここで別の日本人の宿泊客とマッコリを飲みながら語り明かした。サニーさんももちろんその輪に入っていた。一つだけやりとりを覚えている。サニーさんが、「アメリカが韓国に軍事介入してくる可能性が大きい」という言葉を発し、驚いたことがある。僕は、「韓国」とは「North Korea」のことですか、とすぐに聞き返したところ、サニーさんは、そうだ、といった。サニーさんの日本語は堪能であるから、「韓国」と「北朝鮮」を言い間違えたということではない。つまりサニーさんの感覚では、「北朝鮮に米軍が軍事介入する」というのは「韓国に米軍が軍事介入する」と同じような出来事なのだ。あらためて、南北分断の重さを知った気がした。
 サニーさんは非常にホスピタリティあふれた人で、いつも笑顔でわれわれゲストに応対してくれる。客のことにあれこれいつも気を配ってくれて、帰ってくると「今日はどこに行ってきましたか」、ダイニングに座っていると「お茶でもどうですか」、などと声をかけてくれる。リビングで集まって一緒にお酒を飲んだのも、サニーさんの人柄ならではだと思う。
 そんなサニーさんが、一瞬顔をゆがめたのを今も忘れていない。「今日はどこに行くの」と聞いたサニーさんに対し、国立博物館にいって、その後、「独立門」に行くんだ―と答えたときである。「独立門」という言葉に、サニーさんはすぐに眉をひそめ、少し間があって、
「それなら、歩いていけばいいと思います」
 とだけ答え、身を翻し別の作業に移った。
 「独立門」はフランスの凱旋門を模して作られた門であり、ガイドブックなどでは、すぐそばにある西大門刑務所―日本統治時代の韓国の独立運動者が投獄された監獄のあとの代名詞である。つまり、韓国の植民地支配への抵抗と独立の象徴とされているのだ。

 サニーさんは、僕のことを覚えていてくれた。それで、「夕食はまだだ」と言った僕に対し、「常連なんだから、遠慮しないで」とチゲを振舞ってくれたわけだ。風邪で食欲のない僕に、このチゲは本当にありがたかった。サニーさんは一事が万事、だいたいこういう人なのである。そんなサニーさんの暖かさが大好きだ。
 翌日は、風邪で一日中寝込んでいた。韓国の仁川から青島にフェリーが出ているが、それは週2便で翌々日の出発であったので、ソウルを観光することなく、僕は出発することにした。サニーさんは、旅行会社に電話して、ここでもフェリーチケットの余りが無いかどうか確認してくれた。


仁川で乗ったフェリーから見た空と夕日は何故かとても美しかった



  仁川の港へは、ソウルから地下鉄(途中からは地上だが)がつながっている。チケットも特に苦労なく買うことができた。ただ、乗客は当たり前だが中国人か韓国人で、日本のパスポートを見せるとある係員は訝しげにじろじろ見、ある係員は好奇心旺盛な顔で僕にいろいろ声をかけた。
 船の上は、退屈だった。風呂にはいったり、映画を見たり、船内をうろうろしたりしたが、すぐに飽きて僕は寝てしまった。
 起きれば、青島だった。雪が積もっている。寒い。ソウルもかなり寒かったが、それ以上だ。
 船を下りた僕は、とりあえず地図を買って、本日の宿を探すべく青島の駅に向かおうと、バスを待った。
 と、そこへ一人の韓国人が僕に声をかけた。
「君は日本人だろう?君の背負ってるギター、船でみたよ。僕は隣に寝ていたんだ。もっとも君も僕もすぐに寝ちゃったから話すことは無かったけど」
 僕も突然のことにびっくりしたが、すぐに言葉を返し、お互い簡単に自己紹介をして、旅行中であることを話した。お互い貧乏旅行者であることが確認されると、僕らはすぐに2人シェアして一緒に泊まれる宿を探すことにした。今にして思えば、すこし危機感が無さすぎに思えるが、その時は「この人は大丈夫」と思ったのだろう。
 彼の名前は忘れてしまった。仮にOさんとする。年齢は27くらいだったと思うが、プサンの大学院生で、顔の整形をするために整形治療費の安いハノイまで陸路で行くそうだ。途中、張家界という観光地に寄るらしい。
 僕らは駅前の客引きに従い、一人20元のホットシャワー付の部屋を見つけ、翌日以降の移動のための切符を購入しに、駅へと向かった。僕は上海に留学中の友人にあうために、上海に向かう予定だった。彼は張家界行きの切符を買う。
 僕とOさんは、貧乏旅行者というところでは一致する。ところが、彼はとことん貧乏旅行者であり、僕は違った。上海行き電車(硬臥)の値段は大体180元くらいだったと思うが、駅前に止まっているバスなら100元くらいだった。それでも僕は快適さから考えて、電車だなと思っていたのでそれを購入した。しかし、彼はそれを信じられない、もったいない、といって僕にバスで行くことを勧め、それでも僕が断ると、少しすねたような顔で「わかった。君は快適に寝台電車で上海まで行く。僕は、座席で24時間かけて武漢まで行って、それからまた乗換えさ」と言って硬座のチケットを買った。
 彼は、物怖じしない、そういう面で僕と対照的な人だった。最初にバスに乗ったときも、つたない発音で「フォーチャーザン、フォーチャーザン(鉄道駅の意味)」と連呼し、行き先を通じさせていた。青島で有名な偽物市場の名前も覚えているらしく、これも連呼して道を聞いていた。僕はといえば、何度か書いたがシャイな性格が災いしてなかなかそれができない。それで、前の旅行をとおして少しはできるようになった中国語を使うのだが、それも「アー」と中国人独特の聞き返し方をされるのが決まりが悪く、中途半端なままだった。
 でこぼこコンビな我々であったが、旅は道連れ、なんだかんだで結構楽しかった。一緒に青島市内をうろうろし、寒いのでマクドナルドでお代わり自由のコーヒーをのみ、夕食は「日本のしゃぶしゃぶに近いものが食べたい」ということで「火鍋」を食べた。
 彼は、「自分の初体験はいつで、こうだった」とか、「中国でも彼女が何人かいるんだ。一人はやせててであとはデブ……ホテルにいってはじめて分かったよ」とか、まあ下世話な話題を提供してくれ、これには若干閉口したが、一人で飯を食べるよりははるかにいい。
 翌日、僕の電車のほうが早く、駅でお別れしたが、やはり一抹の寂しさを感じたものだ。スンヨプともあれほどしゃべっていない。会話はずっと英語だったが、日本語でしゃべっていたような感覚だった。

彼は少し変わっていたが、やりとりは自然だった

 上海へは、翌日の朝ついた。留学生の友達と会えるか心配だったが、駅のホームまで迎えに来てくれていたおかげで、電車から降りるとすぐに分かった。
 上海では、青年船長酒店というユースに泊まる予定だった。留学生の友達に通訳してもらい、ホテルで聞くと、満室らしく、会議室に臨時のベットを置いたところなら空いているということで、それで了解した。
 そこでもまた、韓国人の女の子2人と同室になった。
 2人は学生で、上海には友達に会いに来たらしい。その友達という女の子も含めて僕らは英語と中国語まじりでいろいろと話をした。これももう何を話したか余り覚えていない。が、いろいろ話をしたはずだ。親の仕事のこと、彼女らの大学のことなどなど。

 僕が上海を立つ朝、2人は蘇州に半日観光に出かけ、上海駅に戻ってきてから電車に乗って移動するとのことだった。まるで、夏に来た僕とそっくりだ。
 そこで、上海駅への移動方法と、荷物をどこに預けるかについて彼女たちと一緒についていって教えてあげた。僕は、淮陰という、項羽と劉邦に出てくる韓信という将軍の生まれ故郷にバスで移動する予定だった。バスターミナルは上海駅の近くだったのである。

 彼女たちからは、日本に帰った後、メールと写真をもらった。曰く「ありがとう。あなたがいなければ上海駅までたどり着けなかったと思う」。
 韓国から中国へ移動し、その前半は友達以外に日本人にはあわなかった。ずっと韓国人としゃべっただけだが、不思議に外国人としゃべった感じがしない。それだけ、東洋人としての感覚に近いものがあるのかもしれない。


右の二人が同室の韓国人で、左の子はその友達の中国人




―以下余談
 淮陰へのバスの時間は、留学生の友達に教えてもらっていた。しかし、駅からバスターミナルは以外に遠く、道に迷ったこともありなかなかたどり着かない。やむを得ずタクシーをつかまえてバスターミナルについたころには、既に淮陰行きのバスは出てしまっていた。次のバスは午後、6時間くらい待たなければならない。
 そう思って、思案に暮れていた僕のところに客引きらしい男が声をかけてきた。「どこに行く」「淮陰だ」男はしたり、という顔でうなずいて、そこに行くバスがあるといった。ようは白バスらしいが、6時間待つのは無駄なので、その誘いに乗ることにした。バス代も、値切って正規の値段より低くした。
 こうして、紆余曲折はありながら、無事?に僕は憧れであった中国歴史の旅に出ることになった。


2004年12月20日月曜日

ハフェマウル―老婆の孤独


 韓国は二度目だった。
僕は、中学生の頃ヨーロッパに行ったことがあるが、一人旅で初めて海外に出たのは実は一年前に韓国に10日ほど行ったのが初めてだった。
 そのときは、非常にショックなことがあって、それこそ逃避の旅行であったが、それだけに出会った人のさまざまな親切が身にしみたし、感じるところに深いものがあった。
 ついでに言うなら、食べ物もとてもおいしかった。
 一度行ったことのある、韓国にどうしても足が向いたのは、自分でもはっきりしないがどうやら漢字文化圏の点だけでなく、そういう理由もあったみたいだ。

 しかし、今回の旅行の幸先は悪かった。
前回の船旅に少し味をしめていた僕は、プサンまでの船旅に期待するものがないわけでなかったが、12月だけに出発する旅行者は皆無に等しく、一人で4人部屋を占領してプサンに到着しただけだった。
 プサンに着いたら着いたで、すぐに風邪をひいて二日目なんかはかろうじて昼間は活動できたものの、ゲストハウスに帰ったらまったく動けないくらいだった。
 もう少し元気があれば、いろいろな行動が取れたはずなのに―そういう後悔を若干感じながら、僕はプサンを後にし、韓国東北部にある安東(アンドン)という街にむかった。僕が興味を持ったのは、アンドンにある河回(ハフェ)マウルというところだ。ここは、かつての朝鮮貴族である両班(ヤンバン)の暮らしていた村がそのまま残っている。しかも、その村に現在も変わらず村民が生活を続けていて、村全体がテーマパークのようでありながら実際の生活の拠点となっているのである。そして、その村民の家に「民泊(ミンバク)」といってそのまま宿泊できるようになっているのだ。これは、是非一度泊まってみなければ―そう思って僕はハフェマウルを目指した。

霜がおりたハフェマウル

 ハフェマウルはアンドンの市街地からバスで30分ほど行ったところにある。韓国では僕はよくバスを乗り違える。それは、下調べがたりないせいの場合もあるが、結局、バスの運転手さんに聞いてみることをついつい躊躇してしまうからだ。以前慶州の仏国寺でバスを降り間違えた話をカラクリ湖の項で書いたが、今回も例に漏れずおんなじ失敗をしてしまった。
 要するに、ガイドブックを見ると、バスはハフェマウルの中まで入ると書いてあるのに実際は入り口でユーターンして引き返してしまったのだ。僕は、「降りる―」というタイミングを失って、坂道を大分下った次のバス停まで黙って乗り続けて、降り、バスの来た道を歩いて引き返す羽目になった。
 そういう自分の心理をなかなか分析しづらいのだが、やっぱり恥ずかしいのだろう。前に反省したにもかかわらず、旅の恥はかき捨て、という諺を実行に移せないでいるのだった。

 何か、今回の旅は最初から躓いてばっかりだ。唯一の慰めになったのは、バス停からハフェマウルに引き返していく途中、仮面博物館を発見したことだ。アンドンは仮面で有名な土地であり、世界の仮面を集めた興味深い博物館がある。こういうことがなければ入場しなかっただろう。

 何とかハフェマウルの入り口に戻ると、今度はミンバク探しだ。ただ、ハフェマウルの入り口には観光案内所があり、日本語の堪能な人がミンバクについて解説をしてくれた。アンドンという地名を知っている日本人はなかなかいないものだと思うが、日本語での案内ができる人がいるとは、この地まで結構な日本人が訪れていることの証左であろう。なんと、その人自身もミンバクをやっているそうで、今日は日本人の団体で満室だからとめられない、とのことだった。
 その人は、いくつかよいミンバクを紹介してくれた。値段の相場を聞くと、「大体一泊20000ウォンから30000ウォン」とのことだが、ガイドブックには「15000ウォンからある」と聞くと、「それは交渉次第だ」と言ってニヤリと笑った。

 僕は、マウルの中に入り、紹介されたミンバクへ向った。ある曲がり角を曲がったあと、一人の老婆に出くわした。老婆は僕を見るたび「ミンバク?」と話しかけた。大きな荷物を背負って、いかにも旅行者風だったので一目でミンバクを探しているとわかったのだろう。
 僕は、「オルマエヨ(いくらか)?」と聞くと、「30000ウォン」と行ってとりあえずついて来いと、身振り手振りで促した。その強引さに僕は圧倒され、値段交渉を続けながらついていくことにした。

 老婆の家は、マウルのはずれにある、小さな一軒家だった。ヤンバンの住居は寝殿造りのように本来は回廊があって、、、となっている。一見して、ヤンバンの家ではない。
 ハフェマウルに来た以上、できれば昔ながらのヤンバンの家に泊まりたい―そう思っていた僕は、「25000ウォン」と値段を下げてきた老婆を無視して別の宿を探そうとした。観光案内所で案内してもらったミンバクはまさに僕の要求を満たすようなものだったのだ。
 「20000ウォン」
さらに値段が下がった。ついつい、それならいいかな、と思ってしまった。老婆はもう70歳を過ぎているのではないか、という感じだが、一人暮らしの風である。子供や旦那はどうしてしまったのだろう―どうやって生計を立てているのだろう―日本の統治時代を経験しているはずだが、日本人の僕に関してどんな感情でいま向き合っているのだろう―そういうセンチな感情が多分内心で影響したのだろう。僕は、「わかった」と言って、そこに泊まることに決めた。

 老婆は、優しかった。僕は、家の一室をあてがわれたが、テレビがないので、居間で見ろ、と身振り手振りで言ってくれた。それで、居間にいると、老婆は別に僕に話しかけることもなく、テレビに見入っていた。オンドルの床は暖かいが、老婆は僕に気を使って強いてある掛け布団をかけるといい、とこれも身振りで示してくれた。
 「あそこに食堂があるから食べに行って来い」
これも、ご飯を食べるしぐさをしたあと、指を食堂の方向にさして、ジェスチャーで教えてくれた。言葉が通じなくても、何とかなってしまうものなのである。

 マウルの雰囲気は、気に入った。もちろん、観光化が進んで、それに頼って住民が生計を立てていることは否定できないだろう。しかし、建物の雰囲気や、夜がやってきた後の静寂はしばらくの間現代世界というものの中にいることを僕に忘れさせた。
 老婆とは、結局ほとんど言葉を交わさなかった。
でも、老婆の優しさと、一人身の寂しさのようなものは言葉がなくても十分感じるとることができた。
 唯一、老婆が日本語を使って話しかけてくれたのが、
「おとうさん、おかあさん、イッソヨ(いる)?」
であった。

 老婆が僕に少しでも興味を抱いてくれていることを感じたうれしさも含め、説明しがたい寂しさ、悲しさ、などが混ぜこぜになった複雑な感情が僕にわきあがった。
 おそらく、僕は顔をくしゃくしゃにしていたと思う。
「イッソヨ、イッソヨ(いる、いる)」
そう、何度も大きくうなずいた。



2004年12月13日月曜日

出発―旅にでる理由




 不思議なものだ。
何故か、バンコクまで、飛行機を使わずに行ってみたい。
そう思った。

 そうすることに意味があるのか、と言われると返答に困る。
いくらかそれらしい理屈をつけようとすると、距離というものを肌身で感じてみたかったから、ということになるのかもしれない。

 別に旅をするのに理由は要らないと思う。
ただ、いずれにせよ、旅に出るのなら、何かしら主題があった方が達成感があるし、楽しめる。別に、気の置けない仲間と騒いで、日ごろの鬱憤を晴らすというものでもいい。
 あるいは、自分の将来や自分自身に迷って、日本を飛び出してみる、ということもあるかもしれない。

 旅の本質とは、日常からの逃避と手軽な達成感を得ることにある。
 もちろん、それだけには限られない。しかし、多分、それはひとつの真実だろう。
そして、それは決して悪いことではない。
 次のステップへの活力につながる限り。

 よく、山登りに対して「なぜ山に登るのか」という問いが立てられる。
そして、その答えは「そこに山があるから」なのであるが、山登りも同様な性質を持つように思う(ただ、山登りの場合は手軽な達成感の方に重点があろうが)。


 ともあれ、僕が、バンコクまで飛行機を使わずに行ってみたい、と思ったひとつの理由に、その二つがあったことは否定できないようである。



大阪南港を出発するときの夕日



 年明けの4月から、社会人になる。
大体12月から、3月いっぱいは時間がある。
この時期を逃したら、もう一生大旅行はできない。
そして、自分の目で見ておきたいものがある。自分の足でふみしめたい場所がある。
 飛行機を使わないで行くという問題にかかわらず、特に中国に再び足を向けたのはこれが理由だ。中国の地名には、幼い頃から慣れ親しんでいる。僕は、史記・三国志などの本が好きで子供の頃夢中になって読んだ。小学校だったか、中学校だったか、社会科の授業の時間、退屈に任せて地図帳を広げ、本の中で見慣れた地名が今も存在することを知って、はるかな土地に思いをはせたものである。


 僕の予定したルートは、大阪から韓国のプサンに船で入り、ソウル近郊のインチョンからさらに船で中国のどこかに入る。その後、中国国内の目的地を回って、雲南省からベトナムに抜けて、ベトナムを横断してカンボジアを抜けタイのバンコクに入るというものだった。

 漢字文化圏に興味があった。
 韓国は、現在のハングル文字を使う前はすべて漢字を使っていたし、ベトナムもフランス植民地時代に現在のアルファベットを原型に持つ文字を使うようになった。韓国語で「ありがとう」は「カムサハムニダ」だが「カムサ」は「感謝」と書いたはずである。ベトナム語では「カムオン」だが、これは「感恩」から由来していると聞く。
 つまり、日本、韓国、ベトナムは言語学的な系統は違いがあるものの、基本的に中国から大幅に言葉を輸入していることで共通しているのだ。
 その漢字文化圏を越えて、インダス文明に源流をもつ、カンボジア・タイにむかう。ルートに関していうと、大まかにはそういう理由で決定した。

 日本にどうしても用事があるので、一度香港から日本に帰らねばならない。だから、香港からは日本まで飛行機で往復することにした。これなら、距離感を図り間違えることはない。
 あとは、行くだけ。
僕は、荷物をつめ、例によって旅の必需品のギターを背負って、大阪発プサン行きの船に乗り込んだ―。

2004年9月20日月曜日

再見ウルムチ!


 ウルムチとは新疆ウイグル自治区の省都である。天山山脈からの雪解け水がこの地を潤し、大都市となった。この都市も他のシルクロードの都市の例に漏れず、ゴビの中に浮かぶ島のような都市だ。
 しかし、ここもまた、日本の小さな地方都市など比較にならないくらいの大都市だ。中心部にはビルが立ち並び、高速道路が街を縦に貫く。

 僕はホータンから寝台バスにはるばる揺られてこの街にやってきた。出発したのは前々日の夕方。実に30時間くらいかけて深夜にようやくこの街にたどり着いた。

 ウルムチの名物は新疆ウイグル自治区博物館だ。僕は翌日早速博物館に向かった。あいにく博物館は現在拡張工事中のようで、ごくごく一部分だけの公開になっていた。ただ、有名な楼蘭美女(楼蘭という遺跡で発掘された女性のミイラ。骨格から分析すると大変美人なようで、現在でも歌の題材にされるくらい有名である)は見ることができたし、一応満足することが出来た。

 満足はしたものの、何か物足りない。カシュガルのウイグル人レストランでのことや、カラクリ湖の出来事、ホータンのヨーグルト屋での出来事のように心が浮き立つようなそんな感じがない。冷たい都会のようなものを感じるのだ。有名な二道橋バザールを歩いていてもその冷たい感覚は拭えない。カシュガルのバザールもそうだったが、観光地化されたバザールでは言葉にはしづらいが、何かがかけているのだ。

 明日、早朝に僕は飛行機でウルムチを発つ。ウルムチから広東省シンセンまでひとっ飛び。広東省にすむ姉に会いに行くのである。シルクロードとも今日でお別れ。少し感傷的な気分になりながら、僕は町をうろうろと歩き続けた。


ウイグル人街と遠くに立ち並ぶ高層ビルが対照的だった
                  

 夕飯は、ホテルの近くの屋台でとることにした。いわゆる火鍋というやつで、頼んだ野菜やお肉を鍋で茹でてもらってから食べる。脂っこいものに飽きたときはこれが一番だ。そうして頼んだ野菜や肉をつついていると、となりに座った男性一人と女性二人の学生グループがなぜか興味を僕に持ったようで、声をかけてきた。
「僕は日本人だ。あなたの言っていることはわからない」
僕がようやく少し覚えた中国語で喋ると、向こうも納得したらしい。
「ここに何をしにきた。留学か?」
だから中国語はわからんというとるやんけ―と思わず突っ込みたくなるが、彼らはそんなことはお構いなし、とばかりに中国語でさらに話しかけてきた。もっとも、このパターンの会話は今まで幾度となく繰り返してきたので、さすがに僕も聞き取れたのだが。

「旅行だ」
「どこに行ってきた。新疆は楽しかったか」
こんな会話をしていると、いつものパターンといえばそうだが、また男が僕のギターを指し、「これは何だ」と聞いてきた。さあ来たぞ。ウルムチに向かうバスの中でも退屈をもてあましていた僕は、例によってギターを披露していた。連日のことなので、さすがにもうなれていたのだ。

 歌い終えて、彼らや周りの人に大きな拍手をもらうと、僕らはすっかり打ち解けていた。すると、男のほうが「いま僕らの大学でダンスパーティをやっている。君も来ないか」と誘ってきた。
 冷たい感覚に支配されていた僕に、にわかに心浮き立つようなきもちが戻ってきた。
「もちろん―」

 こうして僕は彼らの後についていった。大学は僕の泊まっているホテルのすぐとなりにある。門を入って校舎を抜けていくと、バスケットコートのようなところに学生が結構集まっている。ラジカセから音楽を流して学生たちが踊っていた。ものすごく健全な雰囲気だった。
 曲の合間に、日本から旅行に来たやつだ、と皆に僕を紹介してもらって早速僕もダンスに参加してみた。
 日本でも踊ったことなんてないのに―
そうは思ったが、強引に引っ張られるし仕方がない。だいいち、今日はシルクロード最終日なのだ。

 楽しいひと時はあっという間にすぎた。どうやら僕らが加わったときにはすでにパーティが終わりかけだったみたいだ。それで、何か名残惜しそうにみんなが残っているのでまた一曲披露してくれ、ということになった。
 何曲か歌いながら、
こうして歌うのも今回が最後だろうな―という思いが僕の頭をかすめた。

 歌い終わると皆で写真を撮って、解散した。ただ、最初の3人組だけは僕をホテルの部屋まで送ってくれた。やっぱり名残惜しかったが、僕らは分かれた。


ウルムチの大学生たち


 次の朝のフライトは8時くらいだった。朝の5時くらいにホテルを出なければならない。早く眠らなければ―とは思ったが、なぜかシルクロードでのいろいろな思い出が去来してなかなか寝付けない。蘭州や安西の風景、敦煌の砂漠と莫高窟、トルファンのサバクホテル、カシュガルのウイグル人街、カラクリ湖、ホータンのヨーグルト屋―どれも鮮やかな記憶のまま僕の頭を回り続けた。

 結局朝まで眠ることは出来なかった。タクシーで空港に向かう。何の問題もなく、飛行機はゴビから離陸した。
 シルクロードはもう十分満喫した、なんて嘘だ。

再見、ウルムチ。再見、シルクロード―

 僕は遠くなるウルムチを、ゴビの上に浮かぶ島を見つめ続けた。

                  (シルクロード編 了)

2004年9月16日木曜日

ホータンのヨーグルト屋さん


 ウイグル人はヨーグルトが好きらしい。カシュガルの例のレストランのように普通のレストランでも売っているが、ウイグル人街に行けば大抵屋台でヨーグルトを売っている。大体、発行したヨーグルトを、削った氷と、黒蜜のような甘味を混ぜて食べる。
 僕は、ウイグルに来て以来すっかりこのヨーグルトが気に入ってしまって、毎日のように食べていた。今回は、そんな街のヨーグルト屋台でのウイグル人との交流のお話―

 観光に飽きていた。
シルクロードに来てから既に一ヶ月以上の時がたった。シルクロードでは遺跡を観光することも多いが、遺跡の観光には想像力を要するのだ。
 玉門関の様に、子供のころから本で読んで慣れ親しんでいたところならまだしも、予備知識がまったくないと、時に遺跡は泥の塊にしか見えなくなる。それでいて、俄仕込みの知識をもとに、無理やり想像力を駆使して自分を感動させるという観光の仕方をするつもりはなかった。

 ホータンは班超の時代には「于闐(ウテン)」と呼ばれていた国であった。班超が、西域経略から手を引くという方針に転換した宮廷から帰還命令を受けたとき、地元住民に人気のあった彼は国民・国王から引き止められ、西域にとどまる決意をしたという。そのような逸話は残っているものの、それ以上のことは知らない。
 その班超の面影をしのぶような遺跡類も特にないようであった。

 困ったことに、新疆ウイグル自治区ではATMカードが使えないようだ。トラベラーズチェックの再発行をうけず、現金と姉から送ってもらった銀行カードで引き出した金でやりくりをしてきた僕は、カシュガルでお金を引き出そうとして困ってしまった。
 銀行の係りのウイグル人女性が、流暢な英語で「This card is valid only in China.」と言ったのを鮮明に覚えている。ウイグル自治区は「China」ではないのだ。
 困ってしまった僕は、カシュガルの色満賓館で出会った日本人の旅人に、余っていたドルのトラベラーズチェックを貸して貰った。彼は、「いいんですよ、困ったときはお互い様」といって、気前よく貸してくれた。
 そんなわけで、僕は旅を続けられることになったが、その彼とは途中まで目的地が一緒だったので、ホータンまで同じ夜行バスで行き、おんなじ宿で泊った。
 その彼が、たまたまバスで降り間違えてついたユーロンクシーの村がシルクロードらしくてとてもよい感じだったと教えてくれた。
 そういえば、まだ「いかにもシルクロード」という雰囲気の景色に実は出会っていないのではないか。いや、もちろん、いろいろシルクロードらしい景色は見てきている。ただ、ロバ車の行きかう土むき出しの小道とポプラ並木、果てしなく続く水路―以外なことに、完璧にこのような条件を満たしている場所でゆっくりしたことはなかったのだ。
 ともあれ、僕は、早速出かけることにした。

延々と続くポプラ並木は僕のイメージ通りだった
 


                      

 ホータンでは玉が出る。玉とは、乳白色をした滑らかな光沢をもつ石で、古来から装飾品などに使われていた。ホータンのユーロンクシー河の河畔では、玉を捜そうとするウイグル人であふれる。今では、川の源流のほうまで言って、大規模にブルドーザーで掘り出すのが主流らしいが、なおこうして玉を拾う人は絶えないようである。

 ユーロンクシーの村は、そんなユーロンクシー河をバスで越えていった、終点にある。
 僕の求めていたものは、まさにそこにあった。
バスが止まるあたりは、舗装もされていたと思うが、わき道にそれると、舗装もされてなく、ポプラ並木が果てしなく続く。そして、その傍には、水路がまっすぐに流れている。 シルクロードの景色は、心が洗われるような気持ちになったことは多い。ここでも、何か心の中の黒い塊がじゅわっと蒸発してしまったような気持ちになった。

 僕は、その小道の間をうろうろした。すれ違う人の好奇の視線を感じる。ここは、ただの村だ。訪れる観光客は特にいないのだろう。
「ヤッシムセス」
ウイグル語で、こんにちは、と声をかけてみる。
「メン、ヤップンイエ、ヤリッキ」
私は日本人だ。カシュガルの例のウイグル人レストランで身につけたウイグル語が役に立つ。
 やはり、「ヤップン」の言葉は、ウイグル人の顔をほころばせる。ウイグル人は、やはり支配民族である漢族にあまり好感を抱いていない。シルクロードのまちでも、ウイグル人居住区と漢人居住区ははっきり区別されていて、概してウイグル人居住区は道路も舗装されておらず、みすぼらしい。貧富の差は、やはり多いのだろう。
 日本人も、彼らにとって一見して漢人と見分けがつかない。つまり、すれ違う人の好奇の視線とは、敵意の視線、と言い換えてもいいくらいなのである。

 それに引き換え、ウイグル人は日本人にはとても好意的だ。そう、方々で感じる。トルコ人は、かつてロシアに侵攻されていたころ、日露戦争に日本が勝ってくれた、ということで、親日的だという話は聞いたことがあった。あるいは、ウイグルにとっても、日本は同じような意味合いを持っているのだろうか。

 すれ違った、女性に挨拶をすると、何かウイグル語でわーっとしゃべられたが、当然わからない。こうなると、頼るべきは、筆談、である。
 ウイグル人とも一応筆談は可能である。漢字を書ける人がどこかにはいるのだ。

「ここに何をしにきたの?」
女性は僕に聞いた。
―無目的。無故意。
「べつに、あてなんかなく、ふらっと来てみたんだ―」
こう言いたくて書いたのだが、伝わらなかったみたいだ。
そうこうしていると、通りかかった人たちがみんな集まってきて、もうなにがなんやらわからなくなってきた。
 僕は、赤ん坊を抱き上げたり、子供と戯れたり、偶然めぐり合ったこの村での時間を満喫した。


ユーロンクシーの村の子たち


 ユーロンクシーから、ホータン市街地へ向かうバスは、ホータンの大バザールの近くに着く。バザールといえば「カカッス」ヨーグルトである。
 ヨーグルト好きの僕は、ホータン滞在中は何かにつけてバザールでヨーグルトを食べていた。
 ガイドブックには、たとえばカシュガルでもそうだが、「日曜日は大バザール。必見。」的な文句が踊る。しかし、僕は下手に観光客でごった返す大バザールの日よりも、普段のバザールの方がある意味ではよりウイグル的ではないか、と思っている。実際に、なんとなくぶらぶらしているだけで、面白いことにぶち当たるのだ。
 
 ユーロンクシーの村に行く前の日、僕は、筆談用のノートを探して、やはりバザールを歩いていた。とある文房具屋で、中国語なのかウイグル語なのかジェスチュアなのかわからないもので意思を伝え、何とか値切って筆談ノートを買うと、「おかしなやつが現れたぞ」とばかりに、近所の青年・少年たちが集まってきた。
 僕らは、一緒にバスケをしたり、例によってギターを弾いて遊んだ。

ウイグル帽をかぶってすっかりウイグル人気分

 
 青年たちの中に、水泳選手の北島康介そっくりの男がいた。なかなかの男前だ。
彼は、どこで勉強したのか、流暢な英語を操る。
 うまく表現できないのだが、なんというか、日本人でも普通にいる、イケてる若いにーちゃん的な感じである。きっと日本にいたら、クラスの中心になって、すごくモテそうな洗練された空気の持ち主である。
 ウイグル自治区のことを、後進地域だ、と侮る気持ちは確かに僕の中にあったのかもしれない。言い訳がましいかもしれないが、ウイグル人で著名な人を一人挙げよ、という質問を受けて答えられる日本人は皆無に等しいのではないか。僕も、ご多聞にもれず、そんな日本人の一人だ。要するに、過去から現在に至るまで、少なくとも自分が知っているような有名人が輩出されていない、という理由だけで、なんとなく後進的と感じていたわけだ。そんな、自分の浅薄さを恥じるが、それにしても、人間の価値判断は如何に不正確な基盤の上に成り立っていることか。
 今回の旅行で、自分のいわゆる「ウイグルの後進性」は、歴史的な経緯とか、地理的な問題であろうと大分見方を変えることになった。いずれにせよ、ウイグル人にもこんな洗練された、日本でも普通に暮らしていけそうな今時の若者がいるんだな、ということは素直な僕の驚きだった。
 例えば、こんなやり取りがあった。
 僕は、カシュガルのバザールで小さな手鏡を買った。僕の宿泊するような安宿は鏡がないことも多い。さすがに、僕も自分がどんななりで街を歩いているのか気になったのだ。 その手鏡を目敏く見つけて、
「それは何だ、何のために持っているのか?」
と僕に尋ねてきた。
僕は、鏡を顔の前に差し出して、髪の毛を整えたりするしぐさをとったが、
Ah―!」
としたり顔で彼は頷いて、
「さては、お前ナルシストだな―」
と、口には出さないが、顔としぐさで語った。
 僕は、痛いところを衝かれたようで、少しドキッとした。
 
 そんな彼と話していると、食べ物の話になって、「僕はヨーグルトが好きだ」と伝えた。すると、帰り際、彼は僕を市場のヨーグルト屋台に連れて行ってくれたのだ。

 前日にそういうことがあったので、僕は、今日もヨーグルトを食べに屋台によろうと思い、またバザールの中に入っていった。

 ウイグルのヨーグルトは、豪快なものである。
生のヨーグルトがお盆の中にたっぷりあって、別に氷の塊がおいてある。注文があると、お盆のヨーグルトをおわんの中に少しとって、細かく砕いた氷と混ぜ、蜜などの甘味を入れて完成だ。
 化学調味料の類は一切入っていないだろうし、新鮮で、おいしい。

 今日は、丁度おやつの時間なのだろうか。屋台はウイグル人でいっぱいだった。
そんなところに、僕が一人入っていくもんだから、否が応でも目立つことになる。屋台はウイグル版肝っ玉母ちゃんといった風情のおばさんと、その娘らしき少女の二人で運営しているようだ。肝っ玉母ちゃんは僕のことを覚えていたようで、満席に近かった屋台のいすに隙間を作るようにほかの客に促して、僕を座らせてくれた。
 周囲の好奇の視線を浴びながら、ヨーグルトを食べた。客は僕の噂話をしているようである。肝っ玉母ちゃんも、僕のことを日本から来た変な旅行者だ―なんて説明していたのかもしれない。
 一人、まだ34歳と思しき少女がいて―少女とわかったのは何を隠そう、彼女は下半身に何もつけていなかったからなのだが―しきりに僕にまつわりついて、足で蹴るまねをしてきたりする。おかしなやつが来た―とでも思っているのだろうか。
 ヨーグルトを食べ終わると、肝っ玉母ちゃんは僕が背中に背負っているギターをさして、弾くまねをした。弾いてみろ、ということらしい。
 もうなれたものである。大体、曲目なんてものは何でもいいのである。テンポのいいのを何曲か歌うと、みんな自然に乗ってくるのだ。

ヨーグルト屋台はいつも大賑わい


 あっという間に、ヨーグルトを食べに来る人ばかりでなく、往来する人も集まってきて、人だかりになった。ウイグル人は本当に親しみやすい。一曲終わると、盛大な拍手をくれる。
 小さな演奏会が終わると、今度は肝っ玉母ちゃんが「カメラはないのか」というしぐさをしたので、撮影会になった。いろいろな人と写真を撮った。
 肝っ玉母ちゃんは、僕に対していろいろな人を写真で撮るように指示した。道端で、しゃがんでいる乞食を撮るように言って、周りの人と一緒になって笑っていた。乞食のおじいさんは、その状況を認識していたのかどうか。一心不乱にナンをお茶に浸して食べているようにも見えた。
 肝っ玉母ちゃんは、店を手伝っている娘と思しき少女にも、僕と一緒に写真をとるように促した。少女は、多分恥ずかしかったのだろう。最初は、嫌よ―というような態度をとった。しかし、最後僕が帰ろうとする段になって、にわかに僕を引っ張って写真を一緒に撮るようにせかした。実は、僕に興味があったのだろう。
 例の、下半身裸の少女も、何かにつけて僕にちょっかいをかけていたが、カメラを向けるとにっこり微笑んで撮影に応じた。彼女のちょっかいも興味の裏返しだったのだろう。
 このヨーグルト屋さんでは、筆談すらしなかった。ユーロンクシーの村では一応筆談をしたし、例の北島康介似の彼とは英語で意思疎通できた。
 ところが、一番、ウイグル人の感覚に近づけたような気がしたのは、このヨーグルト屋の時だった。

 コミュニケーションは難しい。何時間話しても、むしろ、話せば話すほど相手が何を考え、どんな感情を抱いているのかわからないこともある。下手に言葉が通じるから、ついつい自分の喋りたいことばかり喋ってしまうこともある。
 そういう意味でのコミュニケーションと比較しても無意味なのかもしれないが、ホータンのヨーグルト屋さんでのコミュニケーションは、コミュニケーションのひとつの原型であることは間違いない。

 ―ジョン万次郎が初めてアメリカ人と通じ合ったときの感覚は、こんな感じではないか。
 そういう思いが、バザールを後にする僕の頭に、ふと、浮かんだ。

肝っ玉かあちゃんは見かけどおり豪快な人だった


2004年9月12日日曜日

カラクリ湖



カラクリ湖。


別に,豚カツを揚げるときに使うあれでも,何かすごい仕掛けが施されている湖というわけでもない。
  カシュガルから,パキスタン国境へ向かって5,6時間車を走らせると眼前に広がる外周10kmにも満たないような小さな湖だ。標高は3000mを越える。
小さな湖ではあるが,この湖の話は所々で耳にした。旅行に出る前,知人にカシュガルの方まで行くのだと話したとき,カシュガルに来る途中反対方向から来る旅行者と話したときなど,みんな,おもしろいくらいに異口同音に
「本当にきれいな湖だから!」
と言う。
そういうわけなので,僕もカシュガル滞在中にカラクリ湖まで一泊二日の小旅行をすることにした。


カラクリ湖もそれなりに名が通った観光地である。しかし,今までの例に漏れず,直行で行ってくれるバスなどは存在しない。タクシーをチャーターしたら400元くらいかかるようだ。
そこで,旅行者がやすくカラクリ湖まで向かおうとするなら,タシクルガンという中・パ国境付近の街へ向かうバスか,直接パキスタンに向かう国際バスを途中下車する事になる。前日,バスターミナルに立ち寄った際,カラクリ湖への行き方を係りのおばちゃんに教えてもらい,チケットを買った僕は,次の朝,タシクルガン行きのバスに飛び乗った。


ところで,なのであるが。
僕は,こうみえて結構シャイなのである。日本でも,外国でも,道がわからない場合に滅多に人には聞かない(もっとも,これは自分で地図を見る方が迷わないからかもしれない)。外国で市内バスに乗るときも,事前に路線図を深く検討して乗ることにして,現地の人には聞かないことが多い。特に,一見して明らかに外国人とバレないような,韓国・中国などではなおさらだ。外国人とバレることに何か気恥ずかしさを覚えるのである。以前,韓国の古都慶州の古刹仏国寺に市内バスで向かったとき,きちんとそのことをアピールしないので間違えて仏国寺の駅前で降りてしまって,タクシーで入り口まで向かわなければならない羽目に陥ったこともある。蘭州から,炳霊寺石窟に向かったときも,そのことをきちんと伝えなかったので終点まで行ってしまって後で引き返す,ということがあった。
旅の恥はかきすて,とはよく言ったもので,こういう意味のない羞恥心は捨ててもかまわない,ということだろう。


さて,さすがに蘭州でのような失敗はこりごりだったし,今度は降り過ごしてしまうと戻りようがない。バスに乗った僕は,「カラクリ湖」と漢字で書いた紙を運転手に見せ,そこで降りる旨を伝えた。運転手は,わかったとばかりに大きく頷いた。この程度の簡単なことなのだから,いつもやればいいのに。
バスは,カシュガル周辺のオアシスを抜け,草木一本生えない岩山を縫って進んだ。岩山を抜けて,少し広いところに出る。所々に,水のたまった池のようなものも見え,草が生えているところもある。
透明な小川を渡って,緑と大きな湖が現れたと思ったら,バスが止まって,運転手が僕に声をかけた。どうやら,ついたらしい。


数日前は大吹雪だったそうだが、僕が訪れた日は快晴だった
  


バスを降りた僕を待ちかまえていたように,バイクに乗った少年が声をかけてきた。とはいえ,もはや英語でも,中国語ですらない。しかし,僕がまごついていると,彼は,「モーターバイク,ブルルン」と言ってバイクを運転するまねをして,湖の対岸にある集落を指さした。そして,指を5本立てて「フィフティー」という。どうやら,彼もほんの少し英語を知っているみたいだ。僕みたいな旅行者がたくさんいるからだろう。
要するに,彼の行っている意味は,これからバイクに乗ってあそこの集落までいこう。そして,その中の誰かの家に泊まれ。全部で50元だ。ということらしい。
感覚として50元は高い,と思った僕は「それじゃあだめだ」という身振りをした。走行しているうちに,もう一人のおじさんが現れて,
「わたしの家に来たらどうだ。歩いて10分くらいで行ける。一泊,ご飯付で25元だ。」
これも,簡単な英語だったが,大体こういう風に言ったように思う。
「20元だったらよい」
20元は,大体日本円で350円もしないくらいだから,さすがの僕も気が引けた。しかし,物事には適正な相場というものがある。足元を見て,いわば不当なダンピングをするならともかく,値段交渉というものは当然すべきものなのである。旅の始めのころは,これになれなかった僕も何度かの経験を通してこう考えるようになっていた。
そうすると,おじさんはあっさり
「わかった,わかった。それでいい。」
と,折れてくれた。


僕は,おじさんの後ろについて家の方に歩いた。おじさんの家はバイク少年の指さした集落とは湖を隔てて対岸にあり,ちょうどバスで通ってきた道をさかのぼった方向にある。バスを降りたところには,ゲートらしきものと,ゲートの向こうには3階建てくらいの比較的大きな宿泊施設があった。しかし,おじさんはゲートの方を指して,「あそこには入らない方がいいんだ。50元も取られて,何の意味もない。」という。まあ,ゲートに入らなくても湖は広い。見るのに何の支障もなかったので,そのまま家に向かうことにした。


あらためて,周囲を見る。不気味なくらいに透明な湖が広がり,背後には万年雪をかぶった山々が控える。しかし,木は生えていない。湖の周りには草が生えていて,所々では草原のようになっている。牛も,そのようなところに放牧されのんびり草を食べていた。


雪山と湖と草原と青い空、言葉を失うほどの美しさだった




忘れ得ない風景。
今回の旅でもいくつかそう表現するに値する景色に出会ったが,まさにカラクリ湖はそれだった。カシュガルで泊まっていたホテルのドミトリーで,パキスタン方面から来てカラクリ湖を通った,という韓国人の女の子から話を聞くと,彼女が通ったときにはここらへんは猛吹雪だったそうである。肌を刺す空気はもちろん冷たいが,今は澄み渡る青空が広がる穏やかな天気に恵まれた。


そんな風景の中,何百年も前からそこにあったとおもえるかのように自然に,おじさんの家がある集落はあった。家は,石を積み上げて作ったごくごく簡単な平屋づくりのものだ。もちろん,観光地とはいえ開発も進んでおらず,電気・ガス・水道などは存在しない。しかも,僕が泊まろうとしているところは,宿泊用の施設でも何でもなく,ただの民家なのである。トイレはというと,集落から少し離れた小山の陰なのである。陰にトイレの建物があるわけではない。大空を眺めながら,開放的な気分で用を足すようにできている。
おじさんは,家の中に僕を通すと,暖かいチャイとナンを振る舞ってくれた。正直言ってチャイは甘みが全くなくしょっぱいだけの,ナンは乾燥していてパサパサのものであり美味しいといえる代物ではなかった。しかし,おなかがすいていた僕は見よう見まねでナンをチャイに浸して,食べた。


おじさん達は,ウイグル人でもなく,キルギス人らしい。キルギスタンという国は中国と国境を隔てて西にある。このあたりは,確かにキルギスタンにも近い。放牧をして暮らしているようだ。おじさんは,民族楽器なのか,粗末な作りの弦楽器で演奏を披露してくれた。
僕は,大きな荷物はカシュガルのホテルに預けてきたものの,ギターははるばる担いできていた。お礼がてら,ギターを披露することにした。この旅の間に何度かこのようなシチュエーションがあったのでさすがに慣れてきて,抵抗なく弾くことができた。
おじさんと,奥さん,娘さんが家のなかにいたが,近所の子供等も興味深そうに家の中をのぞいていく。そのうち,外で弾いてくれという話になって外でも弾いた。子供達は大喜びだ。
こうして言葉も通じないキルギス人とのコミニュケーションは図れたが,いつまでも弾き続けているわけにもいかず,だんだんと子供達も仕事に戻ったりと元の場所に戻っていった。
こうなると,もう僕にかまってくれる人はいなくなった。まあ,別に民家訪問のツアーで来ているわけではないから当たり前といえばそうなのだが。おじさんにとっても,自分たちが住んでいるところに旅行者が来るようになって,小遣い稼ぎで宿泊させるようになった,というところだろう。いずれにせよ,20元しか払っていない割には十分な歓待である。


キルギス人の外見は,ヨーロッパ系には見えない。アジア系に見える。モンゴル人は見たことがないが,どことなくモンゴル人のような感じを受けた。
皆,日焼けしている。日焼けのせいなのか,過酷な労働のせいなのか,皆の肌は浅黒く実年齢よりも老けて見える。年齢を当ててごらん,とおじさんに聞かれたとき「60歳くらい?」と言ったらたいそう気分を害したようだった。これでも控えめに言ったつもりだったのだが,実際は40歳過ぎなのであった。
彼らはいったいどのように生計を立てているのだろう,何故このような生活を続けるのだろう。いろいろ考えさせられることはあったが,それはまたの機会に触れることにしたい。


おじさんはギターに似た楽器を披露してくれた




僕は,日没までまだ時間があると思い,湖を一周してみることにした。最初は,ちょっといって帰ってくるつもりだったのに,なんだか途中から一周できるような気がしてきたのだ。
どのくらい歩いただろう。最初は簡単に一周できると思っていたが,意外に外周は大きい。例のバイク少年が指さした集落にもなかなかつかない。道がないところもあり,小川を何とか飛び越えたりして,風景には満足したものの大分疲れてきた。
なんとか,集落にたどり着いた僕は,バイクに乗って湖一週を完成させることにした。バイク少年の集落は,僕が泊まる集落と比べると遙かに大きい。百戸くらいあるのではないかと思った。町人に,身振り手振りで「バイクに乗りたい」と示すと,すぐに勧誘合戦が始まった。やはり,旅行者はこの辺の人にとって金を落としていく貴重な存在なのだろう。
バイクを持っている家も何軒かあり,最初に出会ったのとは別のバイク少年に10元で対岸の集落まで連れて行ってもらうことにした。


このバイク少年は,歌が好きなようだった。
僕を後部座席に乗せながら,陽気に歌い出した。
「アップンダ,ヤップンダ,ジリニーダーヌマシプンダ」
キルギス民謡だった。
別に僕はキルギス語を知っているわけではない。しかし,何度か聞いたままをカタカナにするとこんな具合だった。もちろん,意味もわからない。
後ろに座っている僕が,彼に続いて歌ってみると,彼もニヤリと後ろを振り向いて,ワンフレーズごとに区切って教えてくれた。
陽気な二人の音楽隊は,そのまま歌を歌い続けながら,僕の泊まっている集落へとたどり着いた。バイク少年は10元を受け取ると風のようにもときた道を帰っていった。草原に吹くさわやかな風のような少年だった。


バイク少年の村のおばちゃん。子どもはおそるおそるだが、おばちゃんはギターを抱えてご満悦だ。




ふたたび,おじさんの家にはいると,どうやら僕は別の家で寝ることになるらしい。おばさんに別の家に案内された。
家の中では,夕食の準備が始まっていた。小麦粉のような,粉を固めたものを練る。最初はナンを作っているのかと思ったが,ラーメンの生地をこねているのであった。この生地を,穴がたくさんあいた麺製造器のようなものに入れてラーメンにするのだ。ハンドルを回すと,生地が穴を通って押し出される仕掛けになっている。
その一方で,暖炉もかねた火鉢では芋,野菜,肉を炒めていた。これが,ラーメンの具になるのだ。火鉢の燃料は,その辺に生えている駱駝草である。駱駝草は,ゴビに生えているほとんど唯一といってよい植物だ。カラクリ湖の周辺も,草原になっているような部分を除けば,要はゴビなのである。駱駝草は,家の前に山のように積み上げられている。
こうしてできたラーメンは,とても美味しかった。ラーメンといっても,麺をゆでてその上に具をかけるもので,スープはない。しかし,具は塩味が効いていて口に合う。僕は,勧められるがままにお代わりをした。


夜は,早かった。
日が沈むと,明かりは火鉢の火と,ランプだけである。僕は,薄暗い明かりの中で,早速今日覚えたてのキルギス民謡をギターとともに披露した。
若夫婦の旦那さんもすぐに知っている曲だとわかったらしく,一緒になって歌い,歌詞のわからないところを教えてくれた。
日が沈むの自体がそもそも遅いのもある。しかし,テレビも電気もなければさしたる娯楽が存在しないのであろう。すぐに,寝る時間が来た。
僕は,ふっと外に出てみた。月明かりがすごい。ちょうど満月に近かった。月夜に提灯,ということわざの意味が初めて分かった。月影が,湖面を照らす。月明かりは十分あるが,雲間からのぞく空には無数の星が散らばっていた。


夜が明けるところを見たい,と思って翌朝少し早めに起きて,外に出た。月も沈んだのであろうか,夜の時よりも暗い。雲もすっかり去って,見渡す限りの星空だ。今回の旅では,あまり町中以外で宿泊したことがなかった。船の上,トルファン駅前を除くと,星空を眺める機会にあまり恵まれなかった。そのわずかな機会の中でも,カラクリ湖は天に近いせいか,星にも手を伸ばせば届きそうな気がした。
朝焼けはなかった。山の向こうではもう完全に太陽が顔を出しているのだろう,大分薄明るい。西側の山の頂上は,もう日向になっていた。その日向がだんだん下がってくる,と思ったら湖の向こうの山の端からまぶしい光が差した。
まばゆい光,雪山,透明な湖面。しばしうっとりしている間に,すっかり太陽は昇りきった。


カラクリ湖での体験は,景色,キルギスの人々の生活を含めてこの旅で印象に残ったものの一つだ。この体験は本当に貴重だったと思う。


キルギスの人たちもよそ者の僕に自然に接してくれた

2004年9月7日火曜日

カシュガル探訪


 西へ。
タクラマカン砂漠の果て,中国の最西部にカシュガルという街はある。
 人が,集まってくる。
 さまざまな場所から。
ある人はここで進路を南に採りパミール高原を越え一路インドを目指す。またある人は,さらに西へ向かいローマを目指す。遙か紀元前から,カシュガルはシルクロードの交通の要衝であった。
 いまでも,それは変わらない。
 旅人たちは,あるいはチベットから,タクラマカン砂漠の南から北から,パキスタンから,中央アジアのキルギスからこの街に集まり,それぞれに散っていく。旅人,というのはもちろん商人や,出稼ぎ労働者などを含む。のみならず,今日では,西洋人,日本人,韓国人などの旅行者もここで足を休めるのだ。
 豊富な雪解け水が人を呼ぶ。そして,人が,物を呼び,物が人を呼ぶ。このゴビの上に浮かぶ島のようなオアシスに大都市が形成されたのもしかりと言うべきだろう。


 カシュガルは班超が西域都護府を置いた疏勒国があった場所に近い。
 西へ。
 彼も西を目指してこのオアシスにたどり着いたのである。僕も,この旅の西の果てはこの街にしようと決めていた。


 唐突だが,いまこの文章を書いている僕はすでに社会人になっている。社会人になってみると一日を移動に割くということがいかに贅沢かわかる。飛行機をつかえば日本からヨーロッパまで行けかねないほどの時間を使って,ゆっくりと地上をバスで行くのだ。さすがに,当時でも夜行バスや電車を移動に使うことが多かった。しかし,それに適さない場合やチケットが手に入らない場合もある。前日,クチャの鉄道駅の切符売り場で,営業時間中にもかかわらず,しかもどこ行きの切符がほしいとこっちが切り出す前に,窓口のおばちゃんに「没有」といわれるというきわめて伝統的な中国的拒絶をうけた僕は,夜行列車での旅を諦め翌朝バスでカシュガルに向かうことにした。
 アクスという街でバスを乗り換え,さらに7,8時間バスに揺られただろうか。カシュガルについた頃には,すっかりあたりは真っ暗になっていた。
 新彊は北京から大分西にあるため,最西端のカシュガルでは北京時間でいえば明るくなるのが夏でも8時くらいで暗くなるのは夜10時を過ぎる。そのため,新彊には独自の新彊時間というものもあるが,鉄道・バスなどでは北京時間が基本的には通用しているため僕も北京時間で行動していた。
 ともかくも,朝8時くらいに出発してこの時間に到着なのだから,贅沢にも時間を使ってやっと到着したのである。
 西へ,といっても地上を通っていくのは贅沢かつ退屈なのであった。




 貧乏旅行者の間で有名な色満賓館にチェックインすると,遅くなった夕食をとるためにバックパックを置いて街に出た。
 行ったことのない人には,この砂漠に浮かぶ,西の果てにある大都市の雰囲気はなかなか想像しづらいと思う。が,これは近頃の急速な経済発展とは無関係ではないのだろうが,本当に結構な大都市なのである。中心部には高層とはいえないまでもビルが建ち,中には観覧車を屋上に乗っけているようなビルまである。デパートもあり,道路は広く,当然舗装されている。但し,これはあくまでも漢人居住区の話である。新彊の各都市では漢人の居住区とウイグル人の居住区が別れている事が多い。仲間意識の所為なのか,貧富の差の所為なのか,上からの政策の所為なのか僕にはわからない。しかし,とにかくウイグル人居住区と漢人居住区を比べてみればその資力の差は一目瞭然だった。土でできた平屋建ての家,舗装されていない道,街角の何かの店にあるテレビに群がる子供たち。貧しいが,妙に懐かしい気持ちにさせる世界がそこにはあった。
 僕は,ホテルの前の大通りを南に下って歩いた。地元の人-しかもウイグル人-で賑わう大きなイスラム料理のレストランを見つけ中に入った。大通りにこのようにウイグル人だらけの店があるのは珍しいことだと思う。店員も皆ウイグル人である。男は頭にちいさな四角い帽子を被り,女はスカーフを頭にまいている。一見して,ウイグル人でない僕が一人で店には行ってきょろきょろしていると,ウイグル人の店員があいているテーブルを指して,座れ,と促した。僕は,いわれるがままそこに座り,店員が運ぼうとしているラグメン(羊肉と野菜が入った西域の焼きうどん)を指して,あれがほしい,と注文した。


 何がきっかけだったか,ウイグル語で「ヤップン(日本)」と言ったからか,今はもう忘れてしまったが,日本人が来たと知って,ウイグル人の店員がどっと集まってきた。
 新彊ウイグル自治区の小学校でも当然中国語の授業はあると思うが,やはり漢字を理解できる人は少ないらしい。いつもの筆談が思うようには通じない。しかし,一人の女性店員は漢字がわかるらしく,まもなくその人を介して会話が始まった。
 大体こういう時の会話はおきまりのものだ。何をしにここに来たのか,何日くらい旅行しているのか,学生か,中国に留学しているのか。しかし,集まったウイグル人達は女性店員が通訳するのにいちいち聞き入って,フンフン頷いていた。こういう簡単な話題がつきると,僕はこの機会にウイグル語を教えてもらおうと,「こんにちは」「さようなら」などはなんて言うのか-と聞いてみた。一人,まだ高校生くらいの少年がいて,その子は特に無邪気にはしゃいでしまいには聞きもしないことまで教えてくれた。靴とか,ズボンとかを指しながらいろいろな単語を教えてくれる。それをこっちはいちいち適当なカタカナでメモ帳に書き留めた。
 メニューももらって,よく見せてもらった。メニューには漢字と例のミミズが這ったようなアラビア文字で料理名と値段がかかれている。僕が,メニューの中の「酸牛[女乃](ヨーグルトという意味の中国語)」を指さして注文すると,少年は「これはエーターメータードー」だと言う。やけに長ったらしいな,と思ったがそのときはそのままその単語を覚えた。その後この店に来る度に「エーターメータードー」を頼んだ。大好物なのだ。ウイグルのヨーグルトは新鮮でおいしい。
 大分後になって,ウイグル語でヨーグルトは「カカッス」と言うことを知った。少年は僕をからかっていたわけだ。もちろん,悪意は感じない。
 ラグメンも3元くらいで,どうしようもなく美味しかったし,僕はすっかりこの店の人も料理も気に入った。その後,一人で食事するときはいつもこの店に行った。


件のレストランの従業員。ウイグル人も僕のギターに興味津津だった






 次の日は,レンタサイクルでカシュガル市内の観光をすることにした。この町の目玉は香妃墓とエイティガール寺院というイスラムのモスクだ。これらを見ると,もはや自分が中国にいることを忘れさせられる。
 これらは,もちろん素晴らしいことこの上ない。ただ,僕の性分としてお決まりの市内観光ではどうしても物足りないのだ。レンタサイクルがあればまさに羽が生えたも同然。ウイグル人の居住区へひとり入り込んだ。
 それで,さっき書いたような郷愁を誘うウイグル人居住区の風景に出会ったのだ。例によって,「ヤップン,ヤップン」という言葉を街角で遊ぶ子供達にかけるとわーっと子供が集まってくる。ウイグル人と漢人は仲が悪いようだが,日本人と知るとウイグル人からはすぐに笑顔がこぼれる。昨日覚えたての「ヤッシムセス(こんにちは)」の挨拶が聞いてるのかもしれない。
 子供達は,僕がカメラを取り出すとポーズを取り,しまいには僕からカメラを取り上げ勝手に写真を撮りだす。でも,しっかり者らしい男の子が,返さなきゃだめだよ,とカメラをもってはしゃぐ子をたしなめ顔でカメラを取り上げる。ポーズを取り出す子が多い一方で恥ずかしがって自分が抱えている赤ちゃん(たぶん弟だろう)の陰に隠れてしまう女の子。当たり前のことだが,ウイグル人だっていろんな子がいるのだ。


ウイグル人街に一歩足を踏み入れると、子どもたちの自然な笑顔に出会える




 カシュガル観光のもう一つの目玉として,日曜バザールというのがある。これはこれでもちろん珍しく,おもしろいのだが,僕としてはやはり何か物足りない物を感じた。それは,路地に迷い込んで子供と遊ぶとか,食堂の人々とコミニュケーションをとる楽しみを知りすぎてしまったからかもしれなかった。


 班超の時代にはまだウイグル人はこの地に進出していなかった。しかし,西の果てで異なる文化に接して驚いたのはきっと彼も僕も変わらなかっただろう。


赤ちゃんも僕のギターを抱えて大喜びだった



2004年9月3日金曜日

サバクホテル-トルファン


 電車は、夜明け前5時ごろにトルファン駅に滑り込んだ。僕は、敦煌駅で出会った一人旅のスペイン人マルクと一緒に駅に降り立った。
 闇の中で、人がうごめいていた。中国の駅前ではもはやなじみの光景だ。うごめいていた、といっても別に移動をしていたわけではない。電車を待ちながら駅前に大きな荷物と一緒に座り込んで、タバコを吹かしたり、子供に小便をさせたり、とにかくいろいろ細かい動きをしているのだ。それが、闇の中では妙に不気味なうごめきとして僕の目には映った。
 見上げれば、降るような星空だった。今まで、宿泊しているホテルは街中だったから日本とおんなじで星なんかほとんど見えない状況だった。夜明けの駅前で、おもいもかけない光景に出くわす。
 有象無象の人々の群れと、澄んだ星空。夜行電車で睡眠不足の僕には不思議に神秘的な光景に思えた。


 マルクと僕は、すぐにトルファンのホテルの客引きに捕まった。トルファンの鉄道駅から町までは車で約一時間の距離がある。さすがにこの時間には公共のバスも動いていないので、車で市内のホテルに連れて行ってくれる彼らは旅行者にとって便利な存在である。ホテルから紹介料をもらってるのであろう、値段もバスと同じかそれより安い(8.5元)。
 最初に客引きに捕まった僕らは、7人乗りほどのワゴンがいっぱいになるまで車内で待っていた。スンヨプとはそこで再会した。


 スンヨプと最初に出会ったのは、敦煌での僕の宿、飛天賓館のドミトリーである。何のきっかけだったか、話をして、日本人だらけの部屋でいづらそうにしている彼を誘って食事に出たのがきっかけで仲良くなった。スンヨプは韓国人である。ロッテの選手と同じ名前なのですぐに覚えた。
 兵役を終え、大学院生の彼は夏休みを利用して旅行に来ているそうである。ビールとタバコが好きで、控えめだが他人への心配りは忘れない東洋人的性格を持った人だ。
 不思議なもので、旅行先で韓国人と出会うと、僕にとっては拙い英語で会話をするのだが、後で思い返してみると外国人と話した気がしない。緊張が少なく、非常に自然な会話をした記憶のみが残るのだ。それだけ、日本人と韓国人は感覚的に近いものをもっているのかもしれない。
 
 スンヨプに関しては、こんなエピソードもあった。この日の晩のことなのだが、トルファン一日観光をした僕は夜行列車の疲れと、程よくビールが入ったことでドミトリーのベッドに戻るなり眠りに落ちてしまった。貴重品袋はさすがに身につけたままだったが、2,300元ほど入った財布をほうり出したままで。スンヨプは、必死で僕の体をゆすって起こしてくれたらしいが、夢の世界にしずんでしまった僕は全く反応しない。弱りきった彼は僕のために財布を人からは見つかりづらいように隠しておいてくれたのである。
「ほんっとに、いくら起こしても全く反応がないからどうしようとかと思ったんだよ」
起きた後に、スンヨプはそういって「しょうがないなあ」という風に顔をしかめた。でも、けっして怒っている風ではなかった。
 そんなスンヨプのやさしさがうれしかった。


 話がそれたが、スンヨプは客引きに連れられ、今度は7人ほどの韓国人とワゴンに乗り込んできたのであった。早くも訪れた再会に僕らの話は弾んだ。
 僕らはワゴンに乗せられるままに宿について、ドミトリーに落ち着いた。スンヨプと僕は隣のベットになった。
 一休みして、朝ごはんを韓国人たちと一緒に食べていると、また、ワゴンの運転手をしてたウイグル人がやってきて
「トルファン一日観光にいかないか?」
と、誘いをかけてきた。
 余談だが、トルファンであったウイグル人はすごかった。このウイグル人はウイグル語はもちろんのこと、北京語、英語もぺらぺら喋っていたし、日本語もすこし喋るようだった。このほかにも、ネイティブと見まがうくらいの日本語を喋るウイグル人。いろいろだった。観光都市のトルファンで儲けるには、外国語を学んで観光客を相手にするのが手っ取り早いだろう。ここでも、金という普遍原理が見えかくれする。それにしても、他の観光地と比べても特にトルファンはすごかった。


気温は高いが、湿度は低く、ぶどう棚の中は本当に快適だった




 トルファンには名所が多いが、それぞれ郊外にあり公共交通機関で回るのは骨である。ここでも今までの例にたがわず車をチャーターすることになる。僕らは、韓国人7人、日本人1人、中国人1人という編成で一日観光に出かけることになった。


 観光地はどれもすばらしいものであった。青い青い空の下の火焔山、偶像崇拝を禁じるイスラム勢力に破壊されてしまったのは残念だが、なおかつかつての壁画を残すベゼクリク千仏洞、玄奘にまつわる話で有名な高昌古城、地下水路のカレーズ。なによりすばらしかったのは交河古城。岩場を削ってできた町の遺跡なのだが、それをうまく描写する筆力がない自分が恨めしい。


 昼ごはんは、ぶどう棚の下にあるレストランで食べた。トルファンは火州と呼ばれるくらい気温の暑いところである。夏ならば平気で40度近くまで行く。しかし、ぶどう棚の下は別世界だった。もともと乾燥しているから、直射日光を避ければ涼しいし、水路を流れる水の音やぶどう棚の風情が清涼剤となってくれる。僕らは、ゆっくり涼みながら新疆名物のラグメン(羊肉とトマト・ピーマンなどの野菜をいためた焼きうどん)を食べて、ぶどう棚のぶどうをつまみながらゆっくり休憩した。


 夜はというと、冷えたビールを探し出し(中国ではまだビールを冷やして飲む習慣がなく、冷たいビールを探すのも一苦労だ)皆でテーブルを囲む。やっぱり中華は大人数で食べるのがおいしい。
 それで、その日はスンヨプが起こしても反応がないくらいぐっすり寝たというわけだ。


背中姿のスンヨプと、トルファンのイスラム寺院


 


 次の日は、朝起きてもそんなにすることがなかった。ただ、昨日の一日ツアーの際に「砂漠の真ん中で一晩過ごし、昔ながらのウイグル人の民家を訪ねるツアー」を例のガイドに持ちかけられていた。朝ごはんを例によって一緒に食べていると、それに行こう、という話になった。値段は、夕食代、ビール代、宿泊費、車代等すべて込みで100元くらいだったと思う。韓国人の中で、中国語が出来る人が一生懸命値切ってくれた。
 
 ツアーは4時くらいに出発ということで、僕らは暇をもてあました。バザールをめぐって、いろんなものを食べたり、帽子を買ったりとしたがせいぜい2,3時間もあればおわってしまう。
 僕らは、宿の近くのレストランで冷えたビールを昼から開けてゆっくり過ごした。


 ついつい、酔いの力もあってか、ギターを弾いてくれといわれて一曲披露した。すると、たまたまそれを聞いていた、食堂のウイグル人のおばちゃんや隣でご飯を食べていたウイグル人の若い女性も拍手をしてくれた。ウイグル人の女性は、ホテルで毎晩行われているウイグル舞踊のダンサーをしているそうである。
 下手な演奏と歌だが、様々な人から拍手を受け悪い気はしなかった。
 おわったあと、スンヨプは、
「君のギターはほんとにいいなあ。今日は、砂漠にギターを持ってきて、みんなに聞かしてくれ」
と、うらやましそうなまなざしを向けて言ってきた。
 「OK。そうしよう」
 ひそかに、砂漠の真ん中で思いっきり歌ってみたいと思っていた僕は照れながらも、スンヨプの申し入れを受けた。


これは、広西省からきた中国人のカメラマンらしい女性がとってくれた写真




 例によって、韓国人7人、中国人1人、日本人1人を乗せた車は郊外に向けて出発した。ウイグル人の民家で夕食や歯磨きなどをすませると、いざ夕焼けの砂漠に出発。
 僕は、この際回りの目なんか気にするか、とギターを取り出して歌った。こういうことも周りに日本人がいたら恥ずかしくてしづらかったかも知れない。
 みんなはそんな僕が歌うのを聞きながら、沈む夕日を眺め、遊んだ。何曲かみんなのリクエストに答えつつ歌った。
 ビートルズのリクエストが何曲かあった。「let it be」「two of us」「yellow submarine」砂漠に似つかわしいのかどうなのか。西域の砂漠の上で、不思議な国籍のメンバー構成で、しかもビートルズ。もともと妙な取り合わせといえばそうなのだけども。
 砂漠の夜の帳は、幕を下ろしたようにすぐに下りた。


 すっかり日が暮れると、ビールを飲みながら車座になって話し込んだ。みんなの自己紹介を聞くと、中国留学中の人や、リストラされてしまって長期旅行に来たおっちゃんなど、いろいろな人がいることがわかった。唯一の中国人の女性は、広西壮族自治区から旅行に来ている人で、普段は会社に勤めているが、オーケストラにも所属しておりバイオリンを弾くという。非常にいいカメラを持っているし、お金持ちなんだろう。


 愉快なひと時だった。思い返してみると、英語での会話だったのが不思議に思えるほど、自然に語り、飲み、僕らは夜を明かした。


 夜は、そのまま砂漠に布団を敷いて眠るのである。砂漠の夜は結構冷えるが、布団をかぶっていればなんとかなる。僕らは、語り明かしつつ、いつの間にか眠りに落ちた。


 妙な開放感がある。
屋根もないのに、大地に、大空に、包まれているような。


 こうして旅行に来ている僕だが、特にこの一年はいろいろな苦しみを抱え、乗り越えてやってきたと思っていた。
 ―When I find myself in times of trouble,mother mary comes to me,,,
さっき歌ったビートルズの一節が頭をかすめた。
こうして、砂漠の真ん中で、自分が地球と一体になったように感じながら思う。


「それは些細なことだ」
と。


 サバクホテルは、一泊百元。ビールとご飯と素敵な仲間つき。
日常に疲れたあなたにも、いかが?


サバクホテルに向かう韓国人の仲間