2004年12月26日日曜日

淮陰・徐州・沛・洛陽―史記・三国志の旅(1)


 考えてみると、ガイドブックにも載っていない町を旅するのは初めてだった。
日が落ちかかったころ、上海から長時間バスに揺られ、ようやくバスは淮陰に到着したらしい。
 ―子供のころ、地図帳で名前を見てはあこがれていた地にようやくたどり着いた!―
 などという感慨は全く沸かなかった。
 ただ、異国で何の情報もない町に一人でやってきたことに不安を覚えた。
 バスターミナルらしきところには、やれタクシーだ、人力車だ、なんだという客引きがバスから降りてくる我々を待ち構えていた。そのなかの一人が、「淮安へはこのバスに乗るんだ」とマイクロバスを指差すと、確かに「淮安」という文字と、市内バスであることを示す?Aだかの○数字の安っぽいシールが車体に貼られている。淮陰は昔の地名で、今は淮安市と名前が変わっていることを僕は知っていた。
 ―まさか、こんな田舎町で旅行者を騙そうなんてこともなかろう。
 そう思って、僕はバスに乗り込んだ。
 後で分かったことだが、バスが到着したのは楚州区という淮陰では南の地域で、僕が訪れようとしている韓信関係の史跡は全てこの地区にあった。無駄足だったのだが、それはいい。
 淮安の鉄道駅までバスは僕の不安を裏切るかのように運んでくれた。大きなバックパックを背負っている僕は、オフシーズンの宿屋の客引きにとって格好の餌食だった。すぐに一人のおばさんが声をかけてきた。僕は、青島での経験もあったので、外国人でも泊まれることを確認した上でついていき、シングルの部屋を20元にまけてもらった上で宿をそこに決めた。
 落ち着いた。
 改めて、「寝るところがある」ことの重大さを感じたのであった。以前、上海で電車に乗り遅れたとき、一泊350元くらいの、僕にしてみれば高級ホテルにチェックインしたときもそうだった。しかし、意外にまあ何とかなるものなのだ。究極的には、お金さえ惜しまなければ、また泊まる宿のグレードにこだわらなければ、何とかなるものなのである。
 落ち着いたついでに、すぐに地図を仕入れて、夕食を食べに行ったレストランのおばちゃんに韓信関係の遺跡をどうやって回ったらいいのか訪ねた。おばちゃんは実に親切で、それは全部楚州区にあること、何番のバスに乗ってどこどこでおりて、そこには人力車が待っているから10元はらえば三箇所回ってくれるはずだ、と実に必要な情報を明快に示してくれた。
  韓信という人のことに少し触れておく必要があろう。
 韓信は、前漢の初代皇帝劉邦に仕え、全国統一に尽力した有能な武将である。淮陰のあたりに生まれ、若いころから志を持っていたが、貧しかった。釣りをしていて腹をすかせている韓信を見かねて老婆が飯を韓信に恵んだ。韓信は感謝して、「後日必ずお礼をする」と言ったところ、老婆は「大の大人が腹をすかせているから、哀れんで飯をあげただけだ。見返りなんか期待するものか」と答えた。また、ある日韓信が町を歩いていると、ならず者に「お前は体はでかくて剣も下げているが実は臆病者だろう。俺を切るか、さもなくば股の下をくぐってみろ」といわれて平然と股をくぐり、町の人に臆病だと笑われたこともあった。後日韓信が大出世したあと、老婆には千金を与え、ならず者は「あの時お前を殺すことは簡単だったが、あの時そうしなかったおかげで今日の私がある」として中尉に取り立てている。
 韓信が老婆にご飯を恵んでもらったという所には漂母碑という祠がある(韓信が釣りをしていたのは「史記」の注によると淮水という町の北にある川であったとされるが、祠があるのは淮水でなく、池である)。韓信がならずものに言われて股をくぐったという橋(「史記」には橋と出ていないが、なぜか橋らしい。しかし、現在のこるのは通りのゲートのようなものである)のあともあった。取ってつけたように建っているもので、もちろん由緒も何も感じられなかった。予想していたことなので、それはそれでいい。
 記憶に残っているのは、淮陰、しかもその楚州区という田舎の風景だ。人力車は、舗装もされていない田舎道を走った。放し飼いの鶏があるいていた。子供たちがゴムボールか何かを追って遊んでいた。市場があった。犬が皮を剥がれてつるされていた。魚が桶に入れられて売られていた。そして、僕は金髪碧眼の欧米人ではないから、何の違和感もなくそんな町に溶け込んでいたようだ。すれ違う人が興味深そうに僕を見るようなことは一切なかった。中国の原風景らしきものがそこにはあった。そして僕はそこに同化したかのようであった。
 僕は、志を胸に辱めを甘受した韓信、千金をもらったり、取り立ててもらっておそらく目を丸くしたであろう老婆やならず者、そして韓信を嗤った町の人々らの感覚にすこし肌身で触れることができたような気がしたのであった。

股くぐりの場所は全く由緒を感じない

 淮陰の次は徐州に向かった。言うまでもなく、三国志の劉備は「徐州の牧(長官)」としてこの地をおさめていた。そして、実は項羽が故郷に錦を飾った彭城というのは徐州のことである。しかも、劉邦の故郷である沛県というのはこの町のすぐ北にあり、三国志でも小沛という名で登場する。いわば、僕のような人間にとっては垂涎の地である。
 ここでも、観光地は似たりよったりのものであった。それも分かっているので、がっかりすることはない。呂布が、劉備と袁術配下の武将の戦いの調停をするために、「150歩先にある戟の要の部分に、私が矢を打って刺さったならば和睦せよ」と言って見事射抜いたという話が三国志演義にある。この稿を書く際に調べるまで全くの創作だと思っていたが、魏書呂布伝にもこの話が出ていた。150歩先は大げさなのだろうが。
 ともかく、その場所に碑が立っていて、呂布射戟台と名付けられている。近くにはビリヤード台が置いてあって、普通に住民がビリヤードをやっていた。漂母碑や韓信の股くぐりの橋よりももっとひどい、とりあえず作っておけといういかにも中国的発想の産物だった。
 沛も田舎だった。普通の中国人の普通の風景を見ることが出来た。公園の池は寒さで凍りついていたが、なんと寒中水泳をする人たちがいた。同じ池で氷を割って魚を取るためか、網を投げている人がいた。呂布の射撃碑までの道が分からず、地元の人に尋ねると、その人も知らないらしく他の人に相談したうえで教えてくれた。寒さのあまりなのか、犬が路上で死んだようにあちらこちらで寝転がっていた。このあたりは犬をよく食べるらしいから、あるいは食用の犬なのだろうか。
 淮陰から徐州までの距離や、徐州から沛までの距離、そしてだだっ広い平地をバスで通ることが、はるか2000年の昔進軍する軍隊などを髣髴とさせた。彭城の跡は、徐州でも小高い丘の上にあったようだ。沛は全くの平地であった。こういう地域で呂布と劉備は攻防を繰り広げていたのだ。沛県というこんな小さな町(とはいえバスターミナル付近にはビルがそれなりに立ち並んでおりいわゆる田舎を想像してた僕は少し面食らったのではあるが)から蕭何、樊膾(ヘンは口)、夏侯嬰、曹参、周勃といった前漢の名将・名宰相たちが生まれたのだ。中国の広さを自分の足で知っているだけに、そのことの偉大さを改めて感じた。

彭城の項羽はなかなかりりしい
次は洛陽だ。洛陽は、後漢の都であった。後漢が宦官の専横によって乱れ、その宦官を誅殺したことからさらに混乱し、やがて董卓が実権を握り、後に討伐軍に追われ董卓は洛陽を焼き払い、長安に強制的に遷都する。三国志の前半は洛陽を中心に進行した。
 洛陽は大都会といっていいかと思う。淮陰や徐州以上にこころときめくものは感じなかった。三国志関係の史跡で見るべきは、関羽の首を祭ったという関林廟くらいだ。ここでもやはり、徐州から洛陽までの鉄道が往時の感覚をしのぶのに一番よかった。
 新年を洛陽で迎えたが、一人だった。一人旅の貧乏人を慰めるような場所は少なくとも僕にとってはないように思えた。少し孤独を感じて疲れていたのかもしれない。
 洛陽では有名な龍門の石窟や白馬寺を見て、次の目的地、襄陽に電車で向かった。