2004年12月20日月曜日

ハフェマウル―老婆の孤独


 韓国は二度目だった。
僕は、中学生の頃ヨーロッパに行ったことがあるが、一人旅で初めて海外に出たのは実は一年前に韓国に10日ほど行ったのが初めてだった。
 そのときは、非常にショックなことがあって、それこそ逃避の旅行であったが、それだけに出会った人のさまざまな親切が身にしみたし、感じるところに深いものがあった。
 ついでに言うなら、食べ物もとてもおいしかった。
 一度行ったことのある、韓国にどうしても足が向いたのは、自分でもはっきりしないがどうやら漢字文化圏の点だけでなく、そういう理由もあったみたいだ。

 しかし、今回の旅行の幸先は悪かった。
前回の船旅に少し味をしめていた僕は、プサンまでの船旅に期待するものがないわけでなかったが、12月だけに出発する旅行者は皆無に等しく、一人で4人部屋を占領してプサンに到着しただけだった。
 プサンに着いたら着いたで、すぐに風邪をひいて二日目なんかはかろうじて昼間は活動できたものの、ゲストハウスに帰ったらまったく動けないくらいだった。
 もう少し元気があれば、いろいろな行動が取れたはずなのに―そういう後悔を若干感じながら、僕はプサンを後にし、韓国東北部にある安東(アンドン)という街にむかった。僕が興味を持ったのは、アンドンにある河回(ハフェ)マウルというところだ。ここは、かつての朝鮮貴族である両班(ヤンバン)の暮らしていた村がそのまま残っている。しかも、その村に現在も変わらず村民が生活を続けていて、村全体がテーマパークのようでありながら実際の生活の拠点となっているのである。そして、その村民の家に「民泊(ミンバク)」といってそのまま宿泊できるようになっているのだ。これは、是非一度泊まってみなければ―そう思って僕はハフェマウルを目指した。

霜がおりたハフェマウル

 ハフェマウルはアンドンの市街地からバスで30分ほど行ったところにある。韓国では僕はよくバスを乗り違える。それは、下調べがたりないせいの場合もあるが、結局、バスの運転手さんに聞いてみることをついつい躊躇してしまうからだ。以前慶州の仏国寺でバスを降り間違えた話をカラクリ湖の項で書いたが、今回も例に漏れずおんなじ失敗をしてしまった。
 要するに、ガイドブックを見ると、バスはハフェマウルの中まで入ると書いてあるのに実際は入り口でユーターンして引き返してしまったのだ。僕は、「降りる―」というタイミングを失って、坂道を大分下った次のバス停まで黙って乗り続けて、降り、バスの来た道を歩いて引き返す羽目になった。
 そういう自分の心理をなかなか分析しづらいのだが、やっぱり恥ずかしいのだろう。前に反省したにもかかわらず、旅の恥はかき捨て、という諺を実行に移せないでいるのだった。

 何か、今回の旅は最初から躓いてばっかりだ。唯一の慰めになったのは、バス停からハフェマウルに引き返していく途中、仮面博物館を発見したことだ。アンドンは仮面で有名な土地であり、世界の仮面を集めた興味深い博物館がある。こういうことがなければ入場しなかっただろう。

 何とかハフェマウルの入り口に戻ると、今度はミンバク探しだ。ただ、ハフェマウルの入り口には観光案内所があり、日本語の堪能な人がミンバクについて解説をしてくれた。アンドンという地名を知っている日本人はなかなかいないものだと思うが、日本語での案内ができる人がいるとは、この地まで結構な日本人が訪れていることの証左であろう。なんと、その人自身もミンバクをやっているそうで、今日は日本人の団体で満室だからとめられない、とのことだった。
 その人は、いくつかよいミンバクを紹介してくれた。値段の相場を聞くと、「大体一泊20000ウォンから30000ウォン」とのことだが、ガイドブックには「15000ウォンからある」と聞くと、「それは交渉次第だ」と言ってニヤリと笑った。

 僕は、マウルの中に入り、紹介されたミンバクへ向った。ある曲がり角を曲がったあと、一人の老婆に出くわした。老婆は僕を見るたび「ミンバク?」と話しかけた。大きな荷物を背負って、いかにも旅行者風だったので一目でミンバクを探しているとわかったのだろう。
 僕は、「オルマエヨ(いくらか)?」と聞くと、「30000ウォン」と行ってとりあえずついて来いと、身振り手振りで促した。その強引さに僕は圧倒され、値段交渉を続けながらついていくことにした。

 老婆の家は、マウルのはずれにある、小さな一軒家だった。ヤンバンの住居は寝殿造りのように本来は回廊があって、、、となっている。一見して、ヤンバンの家ではない。
 ハフェマウルに来た以上、できれば昔ながらのヤンバンの家に泊まりたい―そう思っていた僕は、「25000ウォン」と値段を下げてきた老婆を無視して別の宿を探そうとした。観光案内所で案内してもらったミンバクはまさに僕の要求を満たすようなものだったのだ。
 「20000ウォン」
さらに値段が下がった。ついつい、それならいいかな、と思ってしまった。老婆はもう70歳を過ぎているのではないか、という感じだが、一人暮らしの風である。子供や旦那はどうしてしまったのだろう―どうやって生計を立てているのだろう―日本の統治時代を経験しているはずだが、日本人の僕に関してどんな感情でいま向き合っているのだろう―そういうセンチな感情が多分内心で影響したのだろう。僕は、「わかった」と言って、そこに泊まることに決めた。

 老婆は、優しかった。僕は、家の一室をあてがわれたが、テレビがないので、居間で見ろ、と身振り手振りで言ってくれた。それで、居間にいると、老婆は別に僕に話しかけることもなく、テレビに見入っていた。オンドルの床は暖かいが、老婆は僕に気を使って強いてある掛け布団をかけるといい、とこれも身振りで示してくれた。
 「あそこに食堂があるから食べに行って来い」
これも、ご飯を食べるしぐさをしたあと、指を食堂の方向にさして、ジェスチャーで教えてくれた。言葉が通じなくても、何とかなってしまうものなのである。

 マウルの雰囲気は、気に入った。もちろん、観光化が進んで、それに頼って住民が生計を立てていることは否定できないだろう。しかし、建物の雰囲気や、夜がやってきた後の静寂はしばらくの間現代世界というものの中にいることを僕に忘れさせた。
 老婆とは、結局ほとんど言葉を交わさなかった。
でも、老婆の優しさと、一人身の寂しさのようなものは言葉がなくても十分感じるとることができた。
 唯一、老婆が日本語を使って話しかけてくれたのが、
「おとうさん、おかあさん、イッソヨ(いる)?」
であった。

 老婆が僕に少しでも興味を抱いてくれていることを感じたうれしさも含め、説明しがたい寂しさ、悲しさ、などが混ぜこぜになった複雑な感情が僕にわきあがった。
 おそらく、僕は顔をくしゃくしゃにしていたと思う。
「イッソヨ、イッソヨ(いる、いる)」
そう、何度も大きくうなずいた。