2013年8月13日火曜日

パルヌ―ヨーロッパでは現地人と交流しにくいか

 僕がアジアや中国の辺境を好んで旅するのには理由がある。物価の安さというのもあるが、一番は現地人がフレンドリーだからだ。現地人のフレンドリーさでいえば、もうウズベキスタンの右に出る国はないだろう。数分あるけば一度は「ハロー」「こんにちは」と声を掛けられるし、「写真撮って」の攻撃も凄まじい。
 そうして記憶をたどってみると、例えば韓国人はフレンドリーだが、シャイである。漢民族は、もちろん到底一括りにできないのだけども、フレンドリーだし、韓国人ほどシャイじゃない。ウイグル人は民族性なのか、ウズベク人とほとんど同じだ。ベトナム人は、一ヶ月くらいかけて縦断したにもかかわらず、最後までよくわからなかった。なんだかこうしていろんな民族がどれくらいフレンドリーか考えだすと楽しいが、少数民族まで踏み込んで行くとそれだけで一記事できてしまいそうなので、これ以上は触れない。

 だから、ヨーロッパに来た時には、あまり現地人との触れ合いだとか、交流ということは考えていなかった。そしてもちろん、まちなかを歩いていても、呼び止められることなどは一切なかったのである。

 先にすこし横道にそれて、パルヌの話をしよう。もともとはパルヌの話のはずだから少し逆説的ではあるのだが。
 パルヌは、本当にちいさな港町だった。タリンの旧市街を歩いていると日本人もたまに見かけたが、ここではさすがに全く見かけない。また、本来はビーチリゾートとして有名な避暑地だそうだが、ここ数日全く気温が上がらないため、リゾート客でも賑わうことはなかった。

 しかし、私にとってパルヌは過ごしやすいまちであった。レストランを探すときにもともとガイドブックはあてにせず、現地人で賑わっているところに飛び込むのが僕のスタイルだが、あまりにも人がいない。それで、まだ味わっていないエストニア料理でも食べるかと、某ガイドブックに「毎日通っても飽きない」と大層な褒め言葉が記載されていたカドゥリという料理屋に入ることにした。
 まだ11時くらい、お昼前の時間だったので、朝食的なものと、スープしかないということだった。それでスープを頼んだのだが、これが絶品だったのだ。これは意地でもお昼時の料理も食べねばならぬと、昼時までまって、ゆでタンだかの料理を頼むと、またもや絶品である。この日、リガのまちに出発するのだが、意外にもバスが満席だということで、昼の2時くらいに散策を終わった僕は、早めの夕食もカドゥリで取ることになった。ついでに言っておくと、値段もせいぜい4、5ユーロくらいで安かったし、お店のおばちゃんは英語は今ひとつだったが間違いなく親切だった。

 もうひとつ、パルヌの点景を指摘するとすれば、意外にも五稜郭型の城塞都市だったということだ。中学生のころ従兄弟の留学していたドイツのミュンスターという都市に滞在したことがある。そこで、従兄弟の通っている大学を散策したところ、昔のお城だと説明を受けたこと、お堀の形が特色的でギザギザしていたことを微かに覚えていた。高校生になって五稜郭に行く機会があったが、五稜郭に「世界星形城郭サミット」のような案内が貼ってあり、なんとあのミュンスターが載っていたことは衝撃的だった。それで、当時調べてみると、星形城郭というのは17世紀あたりに様々な計算から、もっとも優れた城塞の形として流行したものということがわかった。僕は要塞マニアではないが、この話は衝撃的であったため、今でも覚えていたのだ。
 それで、パルヌのこじんまりした旧市街を歩いていると、大きな地図があり、ヒトデのような星形城郭の足のうち一本だけが残っているような部分が目についた。はやくも記憶が曖昧なのだが、まちの西はずれには旧城郭の堀が残っているという説明があったのではないかと思う。いずれにせよ、五稜郭での衝撃と同じ衝撃が僕に走り、記憶の深層に埋もれていたミュンスターと五稜郭の件が蘇ったのである。
 早速まちはずれに足を運んで見に行ったが、別段感動するというほどでもなかった。まあ、ヒトデの足一本しか残っていなかったのが原因かもしれないが、まあそれはいい。

 本題か横道かの区別がめちゃくちゃになってきたが、本題にもどって、ヨーロッパ人との交流の話である。

 話はパルヌ到着の夜に遡る。タリンを夕方6時くらいのバスで発った僕がパルヌにつくと、夜の9時を回っており、さすがに暮れるのが遅いバルトの夏でも薄暗くなっていた。前日、タリンにてインターネットで予約しておいたホテルに行くと、入口に鍵がかかっていて入れない。営業時間表示を見ると、どうやら営業時間が終わってしまっているようだった。困り果ててひと通りあたりをウロウロしてみるが、入口らしきものも見当たらない。電話番号が壁に書いてあったので、ほぼネット以外で使うことがなかった携帯電話で電話してみた。そうすると電話が通じて、要するに「もう営業時間が終わって帰ってしまったけど、あなたの部屋は101だ。入ったところにカギも置いてあるから、代金は明日払ってくれ」ということだった、「どうやって入口から入ればいいのか」と尋ねているところに中から人が出てきたので、慌てて便乗して中に入って、ようやく宿を確保することができた。

 ホテルの前はテラスのビアガーデンのようになっており、何も食べていない僕は食を求めてそのテラスに座った。ところが、なんと、もうフードの提供時間は終わったということで、空腹のままビールを一杯のんで、食を求める難民となった僕はまちをさまようことになった。
 バスターミナルの方に行くと、どうやら1軒のハンバーガー屋さんが営業しているらしい。僕はカウンターに駆け寄り、ハンバーガーを一つ注文した。

 エストニア人の二人と出会ったのはここだった。ハンバーガーが出来上がるのを待つ僕に、真夜中で誰もいないテラス席に二人座っていた二人と「どこから来た」「日本人だ」と会話したのが始まりだったとおもう。「まあとりあえず座れ」と言われるがままに僕は彼らの隣に座った。
 彼らはそれぞれ自分の名前を名乗ったが、もう忘れてしまった。記憶力の悪さには自信がある。僕は外国人に対して「Yujiro」なんて長ったらしい名前を言って覚えてもらえないことはよく知っているので「Yu」と名乗るようにしている。英語の二人称と少々紛らわしいが大体これで先方は覚えてくれる。

 彼らは僕より少し年上で、既に結婚もしており、ロシア系のエストニア人らしい。とりあえず、ピバ(=ビール)以外の僕の僅かなロシア語の知識を駆使して「ハラショー」と適当なところで相槌を打っておいた。これが結構ツボだったのか、二人は大受けだった。
 旅行か、何日くらいか、いつ日本に帰るのか等々この種の出来事の際に基本とも言える会話をすると、一人が「まあこれを飲め」といってペットボトルに入ったコーラを差し出した。もともとコーラはそんなに好きでないし、ましてぬるいコーラならなおさらのこと、しかも睡眠薬を入れられているかもしれないという問題もある。が、睡眠薬の件は、パルヌという田舎町で深夜駅前のハンバーガー屋に外国人観光客が入ってくるのを待ち構えていたとはさすがに思えなかったし、現にさっき彼らも飲んでいたのだ。他は我慢して、結局飲んでしまうことにした。
 ―ん?
 一口飲んで味が明らかにおかしかった。まさか睡眠薬か、まずいと一瞬思ったが二人は悪意なさそうに笑っている。そうだ、どこかで飲んだ味。おかしいと思ったのはアルコールが入っているからで、これはラムコークだ。そう気づくのに数秒ほどの時間しかかからなかった。「驚いたか。キャプテン・モルガンを入れてあるんだよ」と有名なラム酒の銘柄を挙げて種明かしをされた。その後は酒盛りとなり、一層打ち解けた。
 そうこうしていると、一人が「今奥さんは子どもを連れてアゼルバイジャンまで行ってるんだ。今僕たちはフリーなんだよ」と言い出す。もう一人がすかさず「これからの予定はどうなの。僕達はクラブに行って女の子をピックアップするよ」という。アヤシイ。そうして大いに飲ませておいて巻き上げるつもりに違いない。ここまで無警戒で付き合って来たからってなめてもらってはこまる。こう見えても百戦錬磨の海外旅行者さ―。
 と、思いながら「よし、行こう」と二つ返事というのは脚色が過ぎるかもしれないが、あっさりOKした。断っておくが女の子をピックアップしたいと思ったわけではないし、現にそうしてもいない。やっぱりエストニアの地元民とお酒を飲むというか、少しでも地元の生活に触れて見たかったのである。
 それでついて行くと、どうやら一軒目はまだ人が少ないらしくダメ、二軒目はローマ字で「KARAOKE」と書いてあるカラオケ・バーらしき外観のところだったが、それなりに賑わっているようで早速入っていった。1階だし、外に窓もついているので安全そうであもあった。カウンターで確か3ユーロだか、5ユーロくらいを入場料として払った気がする。あとはバーカウンターでキャッシュ・オン・デリバリーで購入するシステムらしい。
 それで、中に入って分かったが、クラブというよりは日本でいうと場末のスナックのような感じで、カウンターと幾つかのソファーがあり、正面にステージがあってカラオケを歌えるようになっている。とは言え客は思い思いの歌を歌って、踊っていたから雰囲気的には少しうるさくないクラブのようなものだろう。
 二人組は男女問わずいろんな人に声をかけていた。その中に休暇で一人でエストニアに来ているフィンランド人がいたので、さらに別の人に声をかけるのに忙しい彼らをそっちのけで少し話した。なんでもフィンランドにくらべてエストニアは大分物価が安く、夏休みにはこっちに来て遊んでいるということだった。日本のアニメも好きだという話で、映画「かもめ食堂」みたいだと一人おかしかった。
 そうして飲んで気分も良くなってくると、カラオケに挑戦する意欲が湧いてきた。もともとカラオケは大好きだし、人前で歌ったこともあるので、ここはひとつ客をあっと言わせてやろう。英語の曲は総数も少ないし、もともと知っている歌も少ないので、曲はあっさり決まった。
 ―When the night has come...
 入れたのは「Stand by me」。多少酔っ払っていたので勢いで入れたが、歌い出すと一瞬会場が、シン、と静まり返って踊っている人たちも踊りをストップしてしまったのでこっちが内心面食らった。静まり返ったのは10秒もなかっただろうか、また来客たちは思い思いに踊りだした。曲が盛り上がってきて最後の間奏に入ると、一人の女性が「一緒に歌っていい」と声をかけてくれた。もちろんOK。エストニアでの即興デュエットだ。曲が終わると、会場から、文字通り割れんばかりの拍手を浴びた。そもそも田舎の、ローカルなカラオケで日本人は珍しいだろうし、居合わせた客にとってはいわば異世界の人物が普通に慣れしたしんだ曲を歌ったのが新鮮だったのかと思う。すっかり気分がよくなってしまった僕は、さらにクラプトンの「Tears in heaven」を歌った。かなり会場の雰囲気が盛り上がってたところを少ししんみりさせてしまったが、やはり皆知っている曲だけに一緒になって歌ってくれたりして、一体感が心地よかった。

 席に戻ると、結局もともと僕を誘ったロシア系エストニア人の二人はどこかに行ってしまったかなにかで、見当たらなかった。ただ、僕とフィンランド人が座っているソファーにはいろんな客が乾杯に来てくれ、彼らがどうなったかも考える余裕もなかった。

 ヨーロッパ人よりもアジア人のほうがフレンドリーだ、というのは誤解だったかもしれない。結局は飛び込んでいくかどうかなのだ。

2013年8月12日月曜日

眼前にぱっと広がる旧市街―エストニア・タリン

 北京、フランクフルトと乗り継いで、現地時間でも深夜ゼロ時くらい、日本時間にすれば朝の6時くらいに、つまりは名古屋から丸々24時間ほどをかけて僕はタリン国際空港に降り立った。旧市街内にある宿にはあらかじめ到着時間を連絡してあったので、空港からタクシーで旧市街に乗り付けると、深夜ではあったが問題なくチェックインもできた。
 しかし、疲れているはずなのに、何故か眠れなかった。もともと頑固な不眠症に悩まされていて、普段は寝酒を飲んでいる。寝酒のビールでも買おうかと思ったが、バルト三国は大体深夜の酒類販売を禁じているので、それもできない。ようやく4時くらいにベットに潜り込んでウトウトしたが、6時には目が覚めてしまった。

 ウズベキスタンでもそうだったが、旧市街は昼間人でごった返している。だから、散策するなら人のすくない早朝が一番だ。早速僕は人気のまばらな旧市街に繰り出した。宿の裏の坂を登って行くと、ドイツの中世風のまちには似合わないロシア風の教会があった。どうやら、ソ連時代に建てられたものらしい。これにはやや引っかかったが、高台にある展望台から旧市街を一望できたのには、感動した。つい、昼にも、翌日の朝にもこの展望台には足を運んでしまった。
 それにしても、早朝の旧市街はひっそりしていた。観光客の姿はほとんど見かけず、掃除をしている職員らしき人、ランニングをする人などにたまに出くわすだけだ。ぼくは旧市街の風景を独り占めして、歩きまわった。
 それでも、6時くらいから1時間強歩きまわると、大体重要な部分はまわれたような感じだった。僕は8時からという宿の朝食を食べるために、宿に戻った。



早朝の旧市街はひっそりとしている。写真は旧市庁舎。



 朝食後は、携帯電話のカードを購入するのも兼ねて、旧市街からすこし外れたところにあるショッピングセンターに向かった。旧市街でないタリンのまちをどう表現したらよいのかは難しい。少なくとも高層ビルが林立するような都会ではないし、アジアのまちのように人とものでごった返すようなまちでもない。寂れているわけではなくて、活力は十分伝わってくるが、アジアのような強烈な混沌と活気があるわけでもない。
 電話カードは直ぐに購入することができた。店員さんは、流暢な英語を操り、「数日間、観光滞在のためにデータ通信ができるカードが欲しい」という僕のニーズに見合ったものを薦めてくれた。5ユーロ位だったと思うが、十分だった。
 ショッピングセンターは日本のイオンのようなものを想像してもらえば、そう大きく違わないと思う。電話カードはもちろん、服でも、インテリア用品でも、ものはあふれていた。スーパーのようになっている食品売場では、新鮮な肉や魚介類を売っていた。お酒の売り場にはなんと日本酒まで取り揃えられていた。僕は、多少物価が高い旧市街のレストランで外食することを避けるため、その日の夕食のために牛肉を二切れと玉ねぎなどの野菜、ビールとワインを購入した。これでも8ユーロくらいだったから、値段としては十分リーズナブルだ。


スーパーではなんと日本酒まで売られていた。


 買い物をすまして宿にもどり、翌日の予定をすこし考えた。タリンは居心地のいいまちだ。もう一泊する手もあるが、あまり日程の余裕もない。次はラトビアのリガを目指すのだが、タリンからは多少距離もあるし、リガとの中間点にある港町、パルヌを目指すことにする。翌日の夕方に出ればいいから、翌日の午前中は少し郊外に足を運ぶ余裕がある。ガイドブックの地図上に「サイクリング道路」という記載を見つけた僕は、「これだ」とばかりに近郊までサイクリングに出かけることにした。

 自転車は僕にとって羽根のようなものだ。普段から片道10km以上の道を通勤しているし、自転車で遠出することには何ら抵抗がない。なにかおもしろい路地やら、店やらを見つけたら、足の向くままに自転車を進めればよい。タリンでもっとも印象に残ったのは、やっぱりこの気ままな自転車の旅だったかもしれない。

 翌日、レンタサイクルで僕は例のサイクリング道路を通って、近郊の港町、ピリタに向かった。海沿いのサイクリング道路は、サイクリングする地元民や観光客で賑わっていた。残念ながら、バルト海はコバルトブルーの美しい海ではなかったが、湾上を行き交う船にタリンの港町としての重要性を感じることができた。なるほど、ハンザ同盟の都市として栄えたのも納得ができる。北欧と、ロシア方面との物流の中心になったわけである。

 ピリタにはビーチがあるが、おりからの低温で、残念ながら水着のエストニア美女はいなかった。僕は足の向くまま、釣り人が竿を垂れている防波堤の先っぽに足を向けた。

 そうして気づいたのは、海の向こうに巨大な教会の時計塔をそびえ立たせる、タリンの旧市街の姿だった。旧市街自体やや高台になっており、昔の王城があった地域は展望台があるくらいで、旧市街の中でも小高い地域になっている。このため、海から映画のような旧市街の姿が一望できたのだ。感動した。
 その後、急な土砂降りにあって、雨宿りする場所を見つけるまでにびしょ濡れになってしまった。しかし、そんなことを全く後悔させないほど、海からみた旧市街の風景は雄大だった。

 海岸沿いのサイクリング道路を通って帰路につくと、行きにはわからなかったがここからも海に浮かぶような旧市街の風景をもっとはっきり見ることができることに気づいた。行きと帰りで全く見えるものは違うのだ。前に突き進むだけではなく、時に振り返ってみることも大事だな、という陳腐な言葉をふと思い出した。


この海に浮かぶような旧市街の風景は素晴らしかった。


 そうして見事な風景を眺めながら旧市街に近づいてくると、旧市街から少し離れたところにいくつかの高層ビルがあることに気づいた。「あそこに行けば、高いところから旧市街を一望できるかもしれない」。僕が行きとは違う道を選んで、のっぽなビルのふもとまで向かったことは言うまでもない。

 最初に、ツインタワーになっている一番高いと思われるビルに辿り着いた。まずオフィスのようになっているビルに登ろうとすると、5、6階以上はうえに行くことができない。下に降りて周囲を見ると、高層階オフィス用の入口では警備員が身分証のチェックをしていて、勝手には中に入れないらしい。
 そこで、もう一つの、タリンでもっとも高級らしい、スイソテルというホテルになっているビルに登ろうと試みた。が、セキュリテイ上部屋のカギを差し込まないと該当階には行けないらしく、諦めてエレベーターを降りようとしたところ、ちょうど最上階に行く客が乗り込んで来たので、シメシメと同上することにした。
 最上階の大きな窓からは、まず大きな湖と、僕が到着したタリン空港が目に入った。湖をバックに飛び立つ航空機の姿も見ることができ、よい眺めだった。しかし旧市街はちょうど逆方向である。僕は廊下を逆方向に進んで、期待を胸にしながら反対側の窓に向かった。しかし、残念ながら目に入ったのはツインタワーの片割れの無機質な窓だけであった。ちょうど旧市街側の眺望をもう一つの棟が邪魔しているのだ。「これじゃあ超高級ホテルも片手落ちだ」と余計なことを考えたが、それにしても何でわざわざ旧市街の眺望を塞ぐようなビルの建て方をしたのか、謎のままだ。
 しかし、転んでもタダで起きない僕は、ツインタワーの片割れの向こうにスイソテルほどの高さはないが、そこそこの高さがあるラディソンホテルを発見した。ラディソンの向こうには視界を遮るような建物はない。


もちろん、この風景も悪くなかった。


 慌てて1階におりて、自転車を飛ばしてラディソンホテルに向かった。別に景色は逃げるわけではないが。
 ラディソンホテルのエレベーターは難なく最上階へと僕を連れて行ってくれた。最上階はバーになっていて、宿泊客以外でも自由に利用できるのだ。エレベーターを出てバーに入ると、大きいガラス張りになっていて、なんとテラス席まである。逸る気持ちを抑えきれずに、席に案内されるのをまたずに僕はテラスに出てみた。
 最高の風景だった。旧市街をすっぽり眼下に納めることができたのだから。海越しにみたタリンの旧市街は雄大だが、少し遠すぎる。逆に、旧市街内の教会の時計塔から眺めると眺めは良いが近すぎるし、全貌を見渡すことができない。しかし、このテラスからは僕からすれば、近すぎず遠すぎず、完璧な旧市街を眺めることができたのだ。


テラスからの旧市街の眺め。言葉を失った。


 長時間のサイクリングや雨に降られた疲労を忘れ、僕は1時間以上は、眺めに見入りつつビールを飲み干した。

 タリンは本当に美しいまちだった。あてもなくさまよったわけではないのだが、何故だか、高校の修学旅行での金沢で、にわかに眼前に犀川の絶景が開けた時のことを思い出した。

2013年8月10日土曜日

ヨーロッパの歴史はわかりくいからバルト三国へ―

 はじめてバルト三国に行きたいと思ったのはいつのことだったか。なぜバルト三国だったか。もう忘れてしまった。ともかくも次にヨーロッパに行くならバルト三国だと数年来考えていた。

 ヨーロッパの歴史はわかりにくい。というか、少なくとも私にとってはどこか実感を持ちにくい。そこに生きた人々の息遣いというか、生々しい様子がピンとこない。子どものころから史記やら三国志が好きだったせいか、中国の歴史などはなにやら人ごとには思えないのだが。

 中世あたりは特にそうだ。
 世界史の教科書的にいうと、ヨーロッパの黎明はギリシャの都市国家から始まり、つづいてローマが起こり、ケルト人を大陸から追いやった。4世紀にゲルマン民族が侵入を開始し、以後、一時期ノルマン人やイスラム勢力の支配があったことを除けば、西欧は基本的にラテン(=ローマ系)とアングロサクソンを含むゲルマン系の2つの民族が主要な地位を占めているはずである。
 ところで、カール大帝のもとで大王国となったフランク王国がベルダン・メンセンの各条約で3つに分かれ、これが現在のドイツ・フランス・イタリアの原型となったと昔習った。ここが一番ピンとこない。ドイツはゲルマン系、フランス・イタリアはラテン系ではなかったか。フランク王国は、言語や民族的には複層的な地域を統治していて、分裂後は言語・民族にほぼ従った国家の枠組みができたのだろうか。だとすればフランク王国の分裂が3国の原型となったと評するのは的を得ていないのではなかろうか。

 イギリス、フランス、スペインというのは比較的早期に王朝が成立しているからまだなんとなく国家の枠組みはわかる。しかし、ドイツとイタリアは統一が19世紀末だから、言語的・民族的にどのようにアイデンティティを持っていたのか、あるいはそもそもそのようなアイデンティティなど存在しなかったのか、一層わかりにくい。たとえば、神聖ローマ帝国の下のドイツは、連邦国家で各領主の自治性がかなり高かったであろうことは想像がつく。ただその分、一応民族や言語によるアイデンティティみたいなものはあったのかがわかりにくいのである。
 リューベックを中心とするハンザ同盟という存在もそうだ。私は勝手に戦国時代の堺のような都市の集合体のように思っているが、ほんとうのことはわからない。さらに、歴史の教科書にはドイツ騎士団領というのも出てきたが、こちらはもっと具体的なイメージの持ちようがなく、お手上げだった。

 さて、バルト三国の話である。ハンザ同盟がはるかバルト三国まで広がっていることは高校の世界史の知識で知っていた。また、中学校の地理でおもしろ半分にすべての国の首都を覚えようというのを友人とやっていたので、独立したてのバルト三国の名称と首都は知っていた。私がもともとバルト三国について知っていたのは、ソ連崩壊に先立ちいち早くこれらの国が独立したことと、第2次世界大戦中のリトアニアで杉原千畝が大量のビザを発行することで多くのユダヤ人を救ったことに加えると、その程度だった。

 もともとどちらかというと観光地然としている場所は苦手な性格だ。今年(2013年)のゴールデンウィークに訪れたウズベキスタンは立派な観光地だったが、それでも多くの友人には「それってどこ」などと驚かれた。中国広西省でトン族の田舎を訪ね歩いたのは間違いなく僕の性格が現れている。
 そういうわけで、ヨーロッパに行くなら西欧は避けようとなんとなく考えており、かすかなバルト三国に対する知識をもとに、旅行先として適するかどうか調べたのだと思う。そうすると、エストニアのタリンやラトビアのリーガはハンザ同盟時代の中世の街並みをきれいにとどめていることを知った。
 そしてさらに思ったのが、これらの国を訪れればハンザ同盟を通じてわかりにくい中世ドイツが理解できるのではないかということである。それで例によって早速バルト三国の歴史を調べ始めると、いろいろ興味深いことがわかってきた。


タリンの城壁。中世ドイツの都市らしい。


 バルト三国はエストニア、ラトビア、リトアニアの3国であるが、意外なことにエストニアと他の2国の間に言語・民族的な共通性はないのである。エストニアはもともとウラル語族系で、実はフィンランドも同様である。東欧では他にハンガリーも同様だ。つまり、同じウラル語族系のチュルク語族とは親戚関係にある。これは5月に訪れたウズベキスタンとの奇妙な縁を感じた。さらにいうと、ウラル=アルタイ語族説を採るとすれば、日本語とは遠い親戚関係にあるのがエストニア語ということになる。
 ラトビアとリトアニアはともにインド=ヨーロッパ語族の一派であるバルト語派に属する。ただ、リトアニアは中世においてポーランドと共同し、ラトビアはリヴォニア騎士団領としてエストニアと運命をともにすることとなった。

 さて、リヴォニア騎士団の名前が出てきたところで、いよいよドイツ騎士団領について触れなければならない。
 唐突だが、ごく大雑把にいえば、中世ヨーロッパを読み解くカギは、3種の利権でないかと思う。すなわち、交易の利権、教会の利権、略奪の利権(というのはややおかしいが)である。中世で儲ける手段を考えるとすれば、貿易などの商業取引をすること、教会の権威をもって住民から利益を得ること、さらに手っ取り早く略奪すること3つの手段があるということだ。中世のまちが高い城壁をもって要塞化しているのは広い意味での略奪、他の都市からの攻撃を防ぐためであろう。教会の利権については宗教改革のネタになった免罪符などを考えれば容易に想像がつくし、そういえば習ったところの叙任権闘争ではローマ皇帝と教皇が利権をめぐって争っていたのだ。十字軍は「異教徒征伐」や「聖地奪還」に名をかりた略奪の側面があったし、またジェノバの商人が商売敵であるコンスタンティノープルの商人に打撃を与えるために利用したことなどを考えればわかる。

 ドイツ騎士団も、要するに交易と略奪の利権のために存在した存在なのだろう。もともとのスポンサーは後にハンザ同盟を構成するブレーメンやリューベックの貿易商で、十字軍に赴くドイツ人兵士を資金的に援助したのが始まりらしい。つまり、貿易商らは異教徒征伐に名を借りて東方との交易上の利権を確保しようとおもったのだろう。そのドイツ人兵団が発展してドイツ騎士団となるのだが、彼らは彼らで領土的な利権を含む広い意味での略奪を同じように考えたのであろう。
 ドイツ騎士団は最初パレスチナに利権を見出そうとするが、イスラム勢力に押されてハンガリー王国を軍事的に助けて利権を確保しようとするが失敗、そして今度はバルト海沿岸地域、プロシア(今のロシアの飛び地になっているカリーニングラード州あたり)に目をつけて成功したというのが大まかな話だ。別にこれもドイツ人のリヴォニア騎士団というのが先立ってラトビアあたりで「異教徒征伐」の名のもとに征服を行っていたのを吸収して、プロシアからバルト三国にまたがる広大な版図を得たということだ。なお、エストニアは先にデンマークが征服していたが、リヴォニア騎士団が買い受けている。


リーガの街並みもどこがドイツ的ではないだろうか。


 話を補完してまとめつつさらにその後を追うと、次のようである。後のエストニア、ラトビア、エストニアを構成する民族は紀元前にはバルト海沿岸地域に存在したが独自の国家を持たず、まずエストニアはデンマークに征服され、三国ともども後にドイツ騎士団に征服ないし買収されたのであり、これが14世紀ぐらいまでのことである。ただ、ほぼ同時にリトアニアはドイツ騎士団の支配を廃してリトアニア大公国を作り、ポーランドと同君連合としてポーランド化の道をたどることになる。
 バルト三国はリトアニアを除き各国の侵略にさらされることになる。スウェーデン、ロシア、そしてポーランドー=リトアニアとドイツ騎士団がバルト海沿岸の覇権をめぐって争ったのがリヴォニア戦争(16世紀後半)で、結果エストニアとラトビア北部はスウェーデンの支配下に、ドイツ騎士団は解体してリヴォニア公国となり実質的にポーランド=リトアニアの支配下に置かれる。
 18世紀にはロシアが台頭し、数度にポーランド分割が行われるなどし、バルト海沿岸はロシアの支配を受けるようになった。結局バルト3国が独立を宣言したのは第一次世界大戦後である。しかし、第二次世界大戦後は事実上ソ連の支配下に置かれることになる。そこから再独立したのが1991年で、当時まだ私は小学生だったが、ベルリンの壁崩壊、バルト三国の独立、ソ連の崩壊と世界が大きく動いたことは、その意味は十分理解できていなくても覚えている。

 さて、ドイツ騎士団支配下のタリン(エストニア)、リーガ(ラトビア)はハンザ同盟に加盟し、大いに発展する。旧市街は基本的にこの時代のもので、要するにドイツなのである。リトアニアだけは独立国家であったから、首都のヴィリニュスは趣を別にするが、詳細はヴィリニュスの項で触れる。


ヴィリニュスの街並みは他の2首都とどこか違う。


 別に現にバルト三国を訪れてヨーロッパの歴史が自然に頭に入ってくるわけではない。が、こうしてあれやこれやと調べているうちに、やはりバルト三国のみならずヨーロッパ全体の歴史が少しはクリアになったつもりでいる。