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2004年9月20日月曜日

再見ウルムチ!


 ウルムチとは新疆ウイグル自治区の省都である。天山山脈からの雪解け水がこの地を潤し、大都市となった。この都市も他のシルクロードの都市の例に漏れず、ゴビの中に浮かぶ島のような都市だ。
 しかし、ここもまた、日本の小さな地方都市など比較にならないくらいの大都市だ。中心部にはビルが立ち並び、高速道路が街を縦に貫く。

 僕はホータンから寝台バスにはるばる揺られてこの街にやってきた。出発したのは前々日の夕方。実に30時間くらいかけて深夜にようやくこの街にたどり着いた。

 ウルムチの名物は新疆ウイグル自治区博物館だ。僕は翌日早速博物館に向かった。あいにく博物館は現在拡張工事中のようで、ごくごく一部分だけの公開になっていた。ただ、有名な楼蘭美女(楼蘭という遺跡で発掘された女性のミイラ。骨格から分析すると大変美人なようで、現在でも歌の題材にされるくらい有名である)は見ることができたし、一応満足することが出来た。

 満足はしたものの、何か物足りない。カシュガルのウイグル人レストランでのことや、カラクリ湖の出来事、ホータンのヨーグルト屋での出来事のように心が浮き立つようなそんな感じがない。冷たい都会のようなものを感じるのだ。有名な二道橋バザールを歩いていてもその冷たい感覚は拭えない。カシュガルのバザールもそうだったが、観光地化されたバザールでは言葉にはしづらいが、何かがかけているのだ。

 明日、早朝に僕は飛行機でウルムチを発つ。ウルムチから広東省シンセンまでひとっ飛び。広東省にすむ姉に会いに行くのである。シルクロードとも今日でお別れ。少し感傷的な気分になりながら、僕は町をうろうろと歩き続けた。


ウイグル人街と遠くに立ち並ぶ高層ビルが対照的だった
                  

 夕飯は、ホテルの近くの屋台でとることにした。いわゆる火鍋というやつで、頼んだ野菜やお肉を鍋で茹でてもらってから食べる。脂っこいものに飽きたときはこれが一番だ。そうして頼んだ野菜や肉をつついていると、となりに座った男性一人と女性二人の学生グループがなぜか興味を僕に持ったようで、声をかけてきた。
「僕は日本人だ。あなたの言っていることはわからない」
僕がようやく少し覚えた中国語で喋ると、向こうも納得したらしい。
「ここに何をしにきた。留学か?」
だから中国語はわからんというとるやんけ―と思わず突っ込みたくなるが、彼らはそんなことはお構いなし、とばかりに中国語でさらに話しかけてきた。もっとも、このパターンの会話は今まで幾度となく繰り返してきたので、さすがに僕も聞き取れたのだが。

「旅行だ」
「どこに行ってきた。新疆は楽しかったか」
こんな会話をしていると、いつものパターンといえばそうだが、また男が僕のギターを指し、「これは何だ」と聞いてきた。さあ来たぞ。ウルムチに向かうバスの中でも退屈をもてあましていた僕は、例によってギターを披露していた。連日のことなので、さすがにもうなれていたのだ。

 歌い終えて、彼らや周りの人に大きな拍手をもらうと、僕らはすっかり打ち解けていた。すると、男のほうが「いま僕らの大学でダンスパーティをやっている。君も来ないか」と誘ってきた。
 冷たい感覚に支配されていた僕に、にわかに心浮き立つようなきもちが戻ってきた。
「もちろん―」

 こうして僕は彼らの後についていった。大学は僕の泊まっているホテルのすぐとなりにある。門を入って校舎を抜けていくと、バスケットコートのようなところに学生が結構集まっている。ラジカセから音楽を流して学生たちが踊っていた。ものすごく健全な雰囲気だった。
 曲の合間に、日本から旅行に来たやつだ、と皆に僕を紹介してもらって早速僕もダンスに参加してみた。
 日本でも踊ったことなんてないのに―
そうは思ったが、強引に引っ張られるし仕方がない。だいいち、今日はシルクロード最終日なのだ。

 楽しいひと時はあっという間にすぎた。どうやら僕らが加わったときにはすでにパーティが終わりかけだったみたいだ。それで、何か名残惜しそうにみんなが残っているのでまた一曲披露してくれ、ということになった。
 何曲か歌いながら、
こうして歌うのも今回が最後だろうな―という思いが僕の頭をかすめた。

 歌い終わると皆で写真を撮って、解散した。ただ、最初の3人組だけは僕をホテルの部屋まで送ってくれた。やっぱり名残惜しかったが、僕らは分かれた。


ウルムチの大学生たち


 次の朝のフライトは8時くらいだった。朝の5時くらいにホテルを出なければならない。早く眠らなければ―とは思ったが、なぜかシルクロードでのいろいろな思い出が去来してなかなか寝付けない。蘭州や安西の風景、敦煌の砂漠と莫高窟、トルファンのサバクホテル、カシュガルのウイグル人街、カラクリ湖、ホータンのヨーグルト屋―どれも鮮やかな記憶のまま僕の頭を回り続けた。

 結局朝まで眠ることは出来なかった。タクシーで空港に向かう。何の問題もなく、飛行機はゴビから離陸した。
 シルクロードはもう十分満喫した、なんて嘘だ。

再見、ウルムチ。再見、シルクロード―

 僕は遠くなるウルムチを、ゴビの上に浮かぶ島を見つめ続けた。

                  (シルクロード編 了)

2004年9月16日木曜日

ホータンのヨーグルト屋さん


 ウイグル人はヨーグルトが好きらしい。カシュガルの例のレストランのように普通のレストランでも売っているが、ウイグル人街に行けば大抵屋台でヨーグルトを売っている。大体、発行したヨーグルトを、削った氷と、黒蜜のような甘味を混ぜて食べる。
 僕は、ウイグルに来て以来すっかりこのヨーグルトが気に入ってしまって、毎日のように食べていた。今回は、そんな街のヨーグルト屋台でのウイグル人との交流のお話―

 観光に飽きていた。
シルクロードに来てから既に一ヶ月以上の時がたった。シルクロードでは遺跡を観光することも多いが、遺跡の観光には想像力を要するのだ。
 玉門関の様に、子供のころから本で読んで慣れ親しんでいたところならまだしも、予備知識がまったくないと、時に遺跡は泥の塊にしか見えなくなる。それでいて、俄仕込みの知識をもとに、無理やり想像力を駆使して自分を感動させるという観光の仕方をするつもりはなかった。

 ホータンは班超の時代には「于闐(ウテン)」と呼ばれていた国であった。班超が、西域経略から手を引くという方針に転換した宮廷から帰還命令を受けたとき、地元住民に人気のあった彼は国民・国王から引き止められ、西域にとどまる決意をしたという。そのような逸話は残っているものの、それ以上のことは知らない。
 その班超の面影をしのぶような遺跡類も特にないようであった。

 困ったことに、新疆ウイグル自治区ではATMカードが使えないようだ。トラベラーズチェックの再発行をうけず、現金と姉から送ってもらった銀行カードで引き出した金でやりくりをしてきた僕は、カシュガルでお金を引き出そうとして困ってしまった。
 銀行の係りのウイグル人女性が、流暢な英語で「This card is valid only in China.」と言ったのを鮮明に覚えている。ウイグル自治区は「China」ではないのだ。
 困ってしまった僕は、カシュガルの色満賓館で出会った日本人の旅人に、余っていたドルのトラベラーズチェックを貸して貰った。彼は、「いいんですよ、困ったときはお互い様」といって、気前よく貸してくれた。
 そんなわけで、僕は旅を続けられることになったが、その彼とは途中まで目的地が一緒だったので、ホータンまで同じ夜行バスで行き、おんなじ宿で泊った。
 その彼が、たまたまバスで降り間違えてついたユーロンクシーの村がシルクロードらしくてとてもよい感じだったと教えてくれた。
 そういえば、まだ「いかにもシルクロード」という雰囲気の景色に実は出会っていないのではないか。いや、もちろん、いろいろシルクロードらしい景色は見てきている。ただ、ロバ車の行きかう土むき出しの小道とポプラ並木、果てしなく続く水路―以外なことに、完璧にこのような条件を満たしている場所でゆっくりしたことはなかったのだ。
 ともあれ、僕は、早速出かけることにした。

延々と続くポプラ並木は僕のイメージ通りだった
 


                      

 ホータンでは玉が出る。玉とは、乳白色をした滑らかな光沢をもつ石で、古来から装飾品などに使われていた。ホータンのユーロンクシー河の河畔では、玉を捜そうとするウイグル人であふれる。今では、川の源流のほうまで言って、大規模にブルドーザーで掘り出すのが主流らしいが、なおこうして玉を拾う人は絶えないようである。

 ユーロンクシーの村は、そんなユーロンクシー河をバスで越えていった、終点にある。
 僕の求めていたものは、まさにそこにあった。
バスが止まるあたりは、舗装もされていたと思うが、わき道にそれると、舗装もされてなく、ポプラ並木が果てしなく続く。そして、その傍には、水路がまっすぐに流れている。 シルクロードの景色は、心が洗われるような気持ちになったことは多い。ここでも、何か心の中の黒い塊がじゅわっと蒸発してしまったような気持ちになった。

 僕は、その小道の間をうろうろした。すれ違う人の好奇の視線を感じる。ここは、ただの村だ。訪れる観光客は特にいないのだろう。
「ヤッシムセス」
ウイグル語で、こんにちは、と声をかけてみる。
「メン、ヤップンイエ、ヤリッキ」
私は日本人だ。カシュガルの例のウイグル人レストランで身につけたウイグル語が役に立つ。
 やはり、「ヤップン」の言葉は、ウイグル人の顔をほころばせる。ウイグル人は、やはり支配民族である漢族にあまり好感を抱いていない。シルクロードのまちでも、ウイグル人居住区と漢人居住区ははっきり区別されていて、概してウイグル人居住区は道路も舗装されておらず、みすぼらしい。貧富の差は、やはり多いのだろう。
 日本人も、彼らにとって一見して漢人と見分けがつかない。つまり、すれ違う人の好奇の視線とは、敵意の視線、と言い換えてもいいくらいなのである。

 それに引き換え、ウイグル人は日本人にはとても好意的だ。そう、方々で感じる。トルコ人は、かつてロシアに侵攻されていたころ、日露戦争に日本が勝ってくれた、ということで、親日的だという話は聞いたことがあった。あるいは、ウイグルにとっても、日本は同じような意味合いを持っているのだろうか。

 すれ違った、女性に挨拶をすると、何かウイグル語でわーっとしゃべられたが、当然わからない。こうなると、頼るべきは、筆談、である。
 ウイグル人とも一応筆談は可能である。漢字を書ける人がどこかにはいるのだ。

「ここに何をしにきたの?」
女性は僕に聞いた。
―無目的。無故意。
「べつに、あてなんかなく、ふらっと来てみたんだ―」
こう言いたくて書いたのだが、伝わらなかったみたいだ。
そうこうしていると、通りかかった人たちがみんな集まってきて、もうなにがなんやらわからなくなってきた。
 僕は、赤ん坊を抱き上げたり、子供と戯れたり、偶然めぐり合ったこの村での時間を満喫した。


ユーロンクシーの村の子たち


 ユーロンクシーから、ホータン市街地へ向かうバスは、ホータンの大バザールの近くに着く。バザールといえば「カカッス」ヨーグルトである。
 ヨーグルト好きの僕は、ホータン滞在中は何かにつけてバザールでヨーグルトを食べていた。
 ガイドブックには、たとえばカシュガルでもそうだが、「日曜日は大バザール。必見。」的な文句が踊る。しかし、僕は下手に観光客でごった返す大バザールの日よりも、普段のバザールの方がある意味ではよりウイグル的ではないか、と思っている。実際に、なんとなくぶらぶらしているだけで、面白いことにぶち当たるのだ。
 
 ユーロンクシーの村に行く前の日、僕は、筆談用のノートを探して、やはりバザールを歩いていた。とある文房具屋で、中国語なのかウイグル語なのかジェスチュアなのかわからないもので意思を伝え、何とか値切って筆談ノートを買うと、「おかしなやつが現れたぞ」とばかりに、近所の青年・少年たちが集まってきた。
 僕らは、一緒にバスケをしたり、例によってギターを弾いて遊んだ。

ウイグル帽をかぶってすっかりウイグル人気分

 
 青年たちの中に、水泳選手の北島康介そっくりの男がいた。なかなかの男前だ。
彼は、どこで勉強したのか、流暢な英語を操る。
 うまく表現できないのだが、なんというか、日本人でも普通にいる、イケてる若いにーちゃん的な感じである。きっと日本にいたら、クラスの中心になって、すごくモテそうな洗練された空気の持ち主である。
 ウイグル自治区のことを、後進地域だ、と侮る気持ちは確かに僕の中にあったのかもしれない。言い訳がましいかもしれないが、ウイグル人で著名な人を一人挙げよ、という質問を受けて答えられる日本人は皆無に等しいのではないか。僕も、ご多聞にもれず、そんな日本人の一人だ。要するに、過去から現在に至るまで、少なくとも自分が知っているような有名人が輩出されていない、という理由だけで、なんとなく後進的と感じていたわけだ。そんな、自分の浅薄さを恥じるが、それにしても、人間の価値判断は如何に不正確な基盤の上に成り立っていることか。
 今回の旅行で、自分のいわゆる「ウイグルの後進性」は、歴史的な経緯とか、地理的な問題であろうと大分見方を変えることになった。いずれにせよ、ウイグル人にもこんな洗練された、日本でも普通に暮らしていけそうな今時の若者がいるんだな、ということは素直な僕の驚きだった。
 例えば、こんなやり取りがあった。
 僕は、カシュガルのバザールで小さな手鏡を買った。僕の宿泊するような安宿は鏡がないことも多い。さすがに、僕も自分がどんななりで街を歩いているのか気になったのだ。 その手鏡を目敏く見つけて、
「それは何だ、何のために持っているのか?」
と僕に尋ねてきた。
僕は、鏡を顔の前に差し出して、髪の毛を整えたりするしぐさをとったが、
Ah―!」
としたり顔で彼は頷いて、
「さては、お前ナルシストだな―」
と、口には出さないが、顔としぐさで語った。
 僕は、痛いところを衝かれたようで、少しドキッとした。
 
 そんな彼と話していると、食べ物の話になって、「僕はヨーグルトが好きだ」と伝えた。すると、帰り際、彼は僕を市場のヨーグルト屋台に連れて行ってくれたのだ。

 前日にそういうことがあったので、僕は、今日もヨーグルトを食べに屋台によろうと思い、またバザールの中に入っていった。

 ウイグルのヨーグルトは、豪快なものである。
生のヨーグルトがお盆の中にたっぷりあって、別に氷の塊がおいてある。注文があると、お盆のヨーグルトをおわんの中に少しとって、細かく砕いた氷と混ぜ、蜜などの甘味を入れて完成だ。
 化学調味料の類は一切入っていないだろうし、新鮮で、おいしい。

 今日は、丁度おやつの時間なのだろうか。屋台はウイグル人でいっぱいだった。
そんなところに、僕が一人入っていくもんだから、否が応でも目立つことになる。屋台はウイグル版肝っ玉母ちゃんといった風情のおばさんと、その娘らしき少女の二人で運営しているようだ。肝っ玉母ちゃんは僕のことを覚えていたようで、満席に近かった屋台のいすに隙間を作るようにほかの客に促して、僕を座らせてくれた。
 周囲の好奇の視線を浴びながら、ヨーグルトを食べた。客は僕の噂話をしているようである。肝っ玉母ちゃんも、僕のことを日本から来た変な旅行者だ―なんて説明していたのかもしれない。
 一人、まだ34歳と思しき少女がいて―少女とわかったのは何を隠そう、彼女は下半身に何もつけていなかったからなのだが―しきりに僕にまつわりついて、足で蹴るまねをしてきたりする。おかしなやつが来た―とでも思っているのだろうか。
 ヨーグルトを食べ終わると、肝っ玉母ちゃんは僕が背中に背負っているギターをさして、弾くまねをした。弾いてみろ、ということらしい。
 もうなれたものである。大体、曲目なんてものは何でもいいのである。テンポのいいのを何曲か歌うと、みんな自然に乗ってくるのだ。

ヨーグルト屋台はいつも大賑わい


 あっという間に、ヨーグルトを食べに来る人ばかりでなく、往来する人も集まってきて、人だかりになった。ウイグル人は本当に親しみやすい。一曲終わると、盛大な拍手をくれる。
 小さな演奏会が終わると、今度は肝っ玉母ちゃんが「カメラはないのか」というしぐさをしたので、撮影会になった。いろいろな人と写真を撮った。
 肝っ玉母ちゃんは、僕に対していろいろな人を写真で撮るように指示した。道端で、しゃがんでいる乞食を撮るように言って、周りの人と一緒になって笑っていた。乞食のおじいさんは、その状況を認識していたのかどうか。一心不乱にナンをお茶に浸して食べているようにも見えた。
 肝っ玉母ちゃんは、店を手伝っている娘と思しき少女にも、僕と一緒に写真をとるように促した。少女は、多分恥ずかしかったのだろう。最初は、嫌よ―というような態度をとった。しかし、最後僕が帰ろうとする段になって、にわかに僕を引っ張って写真を一緒に撮るようにせかした。実は、僕に興味があったのだろう。
 例の、下半身裸の少女も、何かにつけて僕にちょっかいをかけていたが、カメラを向けるとにっこり微笑んで撮影に応じた。彼女のちょっかいも興味の裏返しだったのだろう。
 このヨーグルト屋さんでは、筆談すらしなかった。ユーロンクシーの村では一応筆談をしたし、例の北島康介似の彼とは英語で意思疎通できた。
 ところが、一番、ウイグル人の感覚に近づけたような気がしたのは、このヨーグルト屋の時だった。

 コミュニケーションは難しい。何時間話しても、むしろ、話せば話すほど相手が何を考え、どんな感情を抱いているのかわからないこともある。下手に言葉が通じるから、ついつい自分の喋りたいことばかり喋ってしまうこともある。
 そういう意味でのコミュニケーションと比較しても無意味なのかもしれないが、ホータンのヨーグルト屋さんでのコミュニケーションは、コミュニケーションのひとつの原型であることは間違いない。

 ―ジョン万次郎が初めてアメリカ人と通じ合ったときの感覚は、こんな感じではないか。
 そういう思いが、バザールを後にする僕の頭に、ふと、浮かんだ。

肝っ玉かあちゃんは見かけどおり豪快な人だった


2004年9月12日日曜日

カラクリ湖



カラクリ湖。


別に,豚カツを揚げるときに使うあれでも,何かすごい仕掛けが施されている湖というわけでもない。
  カシュガルから,パキスタン国境へ向かって5,6時間車を走らせると眼前に広がる外周10kmにも満たないような小さな湖だ。標高は3000mを越える。
小さな湖ではあるが,この湖の話は所々で耳にした。旅行に出る前,知人にカシュガルの方まで行くのだと話したとき,カシュガルに来る途中反対方向から来る旅行者と話したときなど,みんな,おもしろいくらいに異口同音に
「本当にきれいな湖だから!」
と言う。
そういうわけなので,僕もカシュガル滞在中にカラクリ湖まで一泊二日の小旅行をすることにした。


カラクリ湖もそれなりに名が通った観光地である。しかし,今までの例に漏れず,直行で行ってくれるバスなどは存在しない。タクシーをチャーターしたら400元くらいかかるようだ。
そこで,旅行者がやすくカラクリ湖まで向かおうとするなら,タシクルガンという中・パ国境付近の街へ向かうバスか,直接パキスタンに向かう国際バスを途中下車する事になる。前日,バスターミナルに立ち寄った際,カラクリ湖への行き方を係りのおばちゃんに教えてもらい,チケットを買った僕は,次の朝,タシクルガン行きのバスに飛び乗った。


ところで,なのであるが。
僕は,こうみえて結構シャイなのである。日本でも,外国でも,道がわからない場合に滅多に人には聞かない(もっとも,これは自分で地図を見る方が迷わないからかもしれない)。外国で市内バスに乗るときも,事前に路線図を深く検討して乗ることにして,現地の人には聞かないことが多い。特に,一見して明らかに外国人とバレないような,韓国・中国などではなおさらだ。外国人とバレることに何か気恥ずかしさを覚えるのである。以前,韓国の古都慶州の古刹仏国寺に市内バスで向かったとき,きちんとそのことをアピールしないので間違えて仏国寺の駅前で降りてしまって,タクシーで入り口まで向かわなければならない羽目に陥ったこともある。蘭州から,炳霊寺石窟に向かったときも,そのことをきちんと伝えなかったので終点まで行ってしまって後で引き返す,ということがあった。
旅の恥はかきすて,とはよく言ったもので,こういう意味のない羞恥心は捨ててもかまわない,ということだろう。


さて,さすがに蘭州でのような失敗はこりごりだったし,今度は降り過ごしてしまうと戻りようがない。バスに乗った僕は,「カラクリ湖」と漢字で書いた紙を運転手に見せ,そこで降りる旨を伝えた。運転手は,わかったとばかりに大きく頷いた。この程度の簡単なことなのだから,いつもやればいいのに。
バスは,カシュガル周辺のオアシスを抜け,草木一本生えない岩山を縫って進んだ。岩山を抜けて,少し広いところに出る。所々に,水のたまった池のようなものも見え,草が生えているところもある。
透明な小川を渡って,緑と大きな湖が現れたと思ったら,バスが止まって,運転手が僕に声をかけた。どうやら,ついたらしい。


数日前は大吹雪だったそうだが、僕が訪れた日は快晴だった
  


バスを降りた僕を待ちかまえていたように,バイクに乗った少年が声をかけてきた。とはいえ,もはや英語でも,中国語ですらない。しかし,僕がまごついていると,彼は,「モーターバイク,ブルルン」と言ってバイクを運転するまねをして,湖の対岸にある集落を指さした。そして,指を5本立てて「フィフティー」という。どうやら,彼もほんの少し英語を知っているみたいだ。僕みたいな旅行者がたくさんいるからだろう。
要するに,彼の行っている意味は,これからバイクに乗ってあそこの集落までいこう。そして,その中の誰かの家に泊まれ。全部で50元だ。ということらしい。
感覚として50元は高い,と思った僕は「それじゃあだめだ」という身振りをした。走行しているうちに,もう一人のおじさんが現れて,
「わたしの家に来たらどうだ。歩いて10分くらいで行ける。一泊,ご飯付で25元だ。」
これも,簡単な英語だったが,大体こういう風に言ったように思う。
「20元だったらよい」
20元は,大体日本円で350円もしないくらいだから,さすがの僕も気が引けた。しかし,物事には適正な相場というものがある。足元を見て,いわば不当なダンピングをするならともかく,値段交渉というものは当然すべきものなのである。旅の始めのころは,これになれなかった僕も何度かの経験を通してこう考えるようになっていた。
そうすると,おじさんはあっさり
「わかった,わかった。それでいい。」
と,折れてくれた。


僕は,おじさんの後ろについて家の方に歩いた。おじさんの家はバイク少年の指さした集落とは湖を隔てて対岸にあり,ちょうどバスで通ってきた道をさかのぼった方向にある。バスを降りたところには,ゲートらしきものと,ゲートの向こうには3階建てくらいの比較的大きな宿泊施設があった。しかし,おじさんはゲートの方を指して,「あそこには入らない方がいいんだ。50元も取られて,何の意味もない。」という。まあ,ゲートに入らなくても湖は広い。見るのに何の支障もなかったので,そのまま家に向かうことにした。


あらためて,周囲を見る。不気味なくらいに透明な湖が広がり,背後には万年雪をかぶった山々が控える。しかし,木は生えていない。湖の周りには草が生えていて,所々では草原のようになっている。牛も,そのようなところに放牧されのんびり草を食べていた。


雪山と湖と草原と青い空、言葉を失うほどの美しさだった




忘れ得ない風景。
今回の旅でもいくつかそう表現するに値する景色に出会ったが,まさにカラクリ湖はそれだった。カシュガルで泊まっていたホテルのドミトリーで,パキスタン方面から来てカラクリ湖を通った,という韓国人の女の子から話を聞くと,彼女が通ったときにはここらへんは猛吹雪だったそうである。肌を刺す空気はもちろん冷たいが,今は澄み渡る青空が広がる穏やかな天気に恵まれた。


そんな風景の中,何百年も前からそこにあったとおもえるかのように自然に,おじさんの家がある集落はあった。家は,石を積み上げて作ったごくごく簡単な平屋づくりのものだ。もちろん,観光地とはいえ開発も進んでおらず,電気・ガス・水道などは存在しない。しかも,僕が泊まろうとしているところは,宿泊用の施設でも何でもなく,ただの民家なのである。トイレはというと,集落から少し離れた小山の陰なのである。陰にトイレの建物があるわけではない。大空を眺めながら,開放的な気分で用を足すようにできている。
おじさんは,家の中に僕を通すと,暖かいチャイとナンを振る舞ってくれた。正直言ってチャイは甘みが全くなくしょっぱいだけの,ナンは乾燥していてパサパサのものであり美味しいといえる代物ではなかった。しかし,おなかがすいていた僕は見よう見まねでナンをチャイに浸して,食べた。


おじさん達は,ウイグル人でもなく,キルギス人らしい。キルギスタンという国は中国と国境を隔てて西にある。このあたりは,確かにキルギスタンにも近い。放牧をして暮らしているようだ。おじさんは,民族楽器なのか,粗末な作りの弦楽器で演奏を披露してくれた。
僕は,大きな荷物はカシュガルのホテルに預けてきたものの,ギターははるばる担いできていた。お礼がてら,ギターを披露することにした。この旅の間に何度かこのようなシチュエーションがあったのでさすがに慣れてきて,抵抗なく弾くことができた。
おじさんと,奥さん,娘さんが家のなかにいたが,近所の子供等も興味深そうに家の中をのぞいていく。そのうち,外で弾いてくれという話になって外でも弾いた。子供達は大喜びだ。
こうして言葉も通じないキルギス人とのコミニュケーションは図れたが,いつまでも弾き続けているわけにもいかず,だんだんと子供達も仕事に戻ったりと元の場所に戻っていった。
こうなると,もう僕にかまってくれる人はいなくなった。まあ,別に民家訪問のツアーで来ているわけではないから当たり前といえばそうなのだが。おじさんにとっても,自分たちが住んでいるところに旅行者が来るようになって,小遣い稼ぎで宿泊させるようになった,というところだろう。いずれにせよ,20元しか払っていない割には十分な歓待である。


キルギス人の外見は,ヨーロッパ系には見えない。アジア系に見える。モンゴル人は見たことがないが,どことなくモンゴル人のような感じを受けた。
皆,日焼けしている。日焼けのせいなのか,過酷な労働のせいなのか,皆の肌は浅黒く実年齢よりも老けて見える。年齢を当ててごらん,とおじさんに聞かれたとき「60歳くらい?」と言ったらたいそう気分を害したようだった。これでも控えめに言ったつもりだったのだが,実際は40歳過ぎなのであった。
彼らはいったいどのように生計を立てているのだろう,何故このような生活を続けるのだろう。いろいろ考えさせられることはあったが,それはまたの機会に触れることにしたい。


おじさんはギターに似た楽器を披露してくれた




僕は,日没までまだ時間があると思い,湖を一周してみることにした。最初は,ちょっといって帰ってくるつもりだったのに,なんだか途中から一周できるような気がしてきたのだ。
どのくらい歩いただろう。最初は簡単に一周できると思っていたが,意外に外周は大きい。例のバイク少年が指さした集落にもなかなかつかない。道がないところもあり,小川を何とか飛び越えたりして,風景には満足したものの大分疲れてきた。
なんとか,集落にたどり着いた僕は,バイクに乗って湖一週を完成させることにした。バイク少年の集落は,僕が泊まる集落と比べると遙かに大きい。百戸くらいあるのではないかと思った。町人に,身振り手振りで「バイクに乗りたい」と示すと,すぐに勧誘合戦が始まった。やはり,旅行者はこの辺の人にとって金を落としていく貴重な存在なのだろう。
バイクを持っている家も何軒かあり,最初に出会ったのとは別のバイク少年に10元で対岸の集落まで連れて行ってもらうことにした。


このバイク少年は,歌が好きなようだった。
僕を後部座席に乗せながら,陽気に歌い出した。
「アップンダ,ヤップンダ,ジリニーダーヌマシプンダ」
キルギス民謡だった。
別に僕はキルギス語を知っているわけではない。しかし,何度か聞いたままをカタカナにするとこんな具合だった。もちろん,意味もわからない。
後ろに座っている僕が,彼に続いて歌ってみると,彼もニヤリと後ろを振り向いて,ワンフレーズごとに区切って教えてくれた。
陽気な二人の音楽隊は,そのまま歌を歌い続けながら,僕の泊まっている集落へとたどり着いた。バイク少年は10元を受け取ると風のようにもときた道を帰っていった。草原に吹くさわやかな風のような少年だった。


バイク少年の村のおばちゃん。子どもはおそるおそるだが、おばちゃんはギターを抱えてご満悦だ。




ふたたび,おじさんの家にはいると,どうやら僕は別の家で寝ることになるらしい。おばさんに別の家に案内された。
家の中では,夕食の準備が始まっていた。小麦粉のような,粉を固めたものを練る。最初はナンを作っているのかと思ったが,ラーメンの生地をこねているのであった。この生地を,穴がたくさんあいた麺製造器のようなものに入れてラーメンにするのだ。ハンドルを回すと,生地が穴を通って押し出される仕掛けになっている。
その一方で,暖炉もかねた火鉢では芋,野菜,肉を炒めていた。これが,ラーメンの具になるのだ。火鉢の燃料は,その辺に生えている駱駝草である。駱駝草は,ゴビに生えているほとんど唯一といってよい植物だ。カラクリ湖の周辺も,草原になっているような部分を除けば,要はゴビなのである。駱駝草は,家の前に山のように積み上げられている。
こうしてできたラーメンは,とても美味しかった。ラーメンといっても,麺をゆでてその上に具をかけるもので,スープはない。しかし,具は塩味が効いていて口に合う。僕は,勧められるがままにお代わりをした。


夜は,早かった。
日が沈むと,明かりは火鉢の火と,ランプだけである。僕は,薄暗い明かりの中で,早速今日覚えたてのキルギス民謡をギターとともに披露した。
若夫婦の旦那さんもすぐに知っている曲だとわかったらしく,一緒になって歌い,歌詞のわからないところを教えてくれた。
日が沈むの自体がそもそも遅いのもある。しかし,テレビも電気もなければさしたる娯楽が存在しないのであろう。すぐに,寝る時間が来た。
僕は,ふっと外に出てみた。月明かりがすごい。ちょうど満月に近かった。月夜に提灯,ということわざの意味が初めて分かった。月影が,湖面を照らす。月明かりは十分あるが,雲間からのぞく空には無数の星が散らばっていた。


夜が明けるところを見たい,と思って翌朝少し早めに起きて,外に出た。月も沈んだのであろうか,夜の時よりも暗い。雲もすっかり去って,見渡す限りの星空だ。今回の旅では,あまり町中以外で宿泊したことがなかった。船の上,トルファン駅前を除くと,星空を眺める機会にあまり恵まれなかった。そのわずかな機会の中でも,カラクリ湖は天に近いせいか,星にも手を伸ばせば届きそうな気がした。
朝焼けはなかった。山の向こうではもう完全に太陽が顔を出しているのだろう,大分薄明るい。西側の山の頂上は,もう日向になっていた。その日向がだんだん下がってくる,と思ったら湖の向こうの山の端からまぶしい光が差した。
まばゆい光,雪山,透明な湖面。しばしうっとりしている間に,すっかり太陽は昇りきった。


カラクリ湖での体験は,景色,キルギスの人々の生活を含めてこの旅で印象に残ったものの一つだ。この体験は本当に貴重だったと思う。


キルギスの人たちもよそ者の僕に自然に接してくれた

2004年9月7日火曜日

カシュガル探訪


 西へ。
タクラマカン砂漠の果て,中国の最西部にカシュガルという街はある。
 人が,集まってくる。
 さまざまな場所から。
ある人はここで進路を南に採りパミール高原を越え一路インドを目指す。またある人は,さらに西へ向かいローマを目指す。遙か紀元前から,カシュガルはシルクロードの交通の要衝であった。
 いまでも,それは変わらない。
 旅人たちは,あるいはチベットから,タクラマカン砂漠の南から北から,パキスタンから,中央アジアのキルギスからこの街に集まり,それぞれに散っていく。旅人,というのはもちろん商人や,出稼ぎ労働者などを含む。のみならず,今日では,西洋人,日本人,韓国人などの旅行者もここで足を休めるのだ。
 豊富な雪解け水が人を呼ぶ。そして,人が,物を呼び,物が人を呼ぶ。このゴビの上に浮かぶ島のようなオアシスに大都市が形成されたのもしかりと言うべきだろう。


 カシュガルは班超が西域都護府を置いた疏勒国があった場所に近い。
 西へ。
 彼も西を目指してこのオアシスにたどり着いたのである。僕も,この旅の西の果てはこの街にしようと決めていた。


 唐突だが,いまこの文章を書いている僕はすでに社会人になっている。社会人になってみると一日を移動に割くということがいかに贅沢かわかる。飛行機をつかえば日本からヨーロッパまで行けかねないほどの時間を使って,ゆっくりと地上をバスで行くのだ。さすがに,当時でも夜行バスや電車を移動に使うことが多かった。しかし,それに適さない場合やチケットが手に入らない場合もある。前日,クチャの鉄道駅の切符売り場で,営業時間中にもかかわらず,しかもどこ行きの切符がほしいとこっちが切り出す前に,窓口のおばちゃんに「没有」といわれるというきわめて伝統的な中国的拒絶をうけた僕は,夜行列車での旅を諦め翌朝バスでカシュガルに向かうことにした。
 アクスという街でバスを乗り換え,さらに7,8時間バスに揺られただろうか。カシュガルについた頃には,すっかりあたりは真っ暗になっていた。
 新彊は北京から大分西にあるため,最西端のカシュガルでは北京時間でいえば明るくなるのが夏でも8時くらいで暗くなるのは夜10時を過ぎる。そのため,新彊には独自の新彊時間というものもあるが,鉄道・バスなどでは北京時間が基本的には通用しているため僕も北京時間で行動していた。
 ともかくも,朝8時くらいに出発してこの時間に到着なのだから,贅沢にも時間を使ってやっと到着したのである。
 西へ,といっても地上を通っていくのは贅沢かつ退屈なのであった。




 貧乏旅行者の間で有名な色満賓館にチェックインすると,遅くなった夕食をとるためにバックパックを置いて街に出た。
 行ったことのない人には,この砂漠に浮かぶ,西の果てにある大都市の雰囲気はなかなか想像しづらいと思う。が,これは近頃の急速な経済発展とは無関係ではないのだろうが,本当に結構な大都市なのである。中心部には高層とはいえないまでもビルが建ち,中には観覧車を屋上に乗っけているようなビルまである。デパートもあり,道路は広く,当然舗装されている。但し,これはあくまでも漢人居住区の話である。新彊の各都市では漢人の居住区とウイグル人の居住区が別れている事が多い。仲間意識の所為なのか,貧富の差の所為なのか,上からの政策の所為なのか僕にはわからない。しかし,とにかくウイグル人居住区と漢人居住区を比べてみればその資力の差は一目瞭然だった。土でできた平屋建ての家,舗装されていない道,街角の何かの店にあるテレビに群がる子供たち。貧しいが,妙に懐かしい気持ちにさせる世界がそこにはあった。
 僕は,ホテルの前の大通りを南に下って歩いた。地元の人-しかもウイグル人-で賑わう大きなイスラム料理のレストランを見つけ中に入った。大通りにこのようにウイグル人だらけの店があるのは珍しいことだと思う。店員も皆ウイグル人である。男は頭にちいさな四角い帽子を被り,女はスカーフを頭にまいている。一見して,ウイグル人でない僕が一人で店には行ってきょろきょろしていると,ウイグル人の店員があいているテーブルを指して,座れ,と促した。僕は,いわれるがままそこに座り,店員が運ぼうとしているラグメン(羊肉と野菜が入った西域の焼きうどん)を指して,あれがほしい,と注文した。


 何がきっかけだったか,ウイグル語で「ヤップン(日本)」と言ったからか,今はもう忘れてしまったが,日本人が来たと知って,ウイグル人の店員がどっと集まってきた。
 新彊ウイグル自治区の小学校でも当然中国語の授業はあると思うが,やはり漢字を理解できる人は少ないらしい。いつもの筆談が思うようには通じない。しかし,一人の女性店員は漢字がわかるらしく,まもなくその人を介して会話が始まった。
 大体こういう時の会話はおきまりのものだ。何をしにここに来たのか,何日くらい旅行しているのか,学生か,中国に留学しているのか。しかし,集まったウイグル人達は女性店員が通訳するのにいちいち聞き入って,フンフン頷いていた。こういう簡単な話題がつきると,僕はこの機会にウイグル語を教えてもらおうと,「こんにちは」「さようなら」などはなんて言うのか-と聞いてみた。一人,まだ高校生くらいの少年がいて,その子は特に無邪気にはしゃいでしまいには聞きもしないことまで教えてくれた。靴とか,ズボンとかを指しながらいろいろな単語を教えてくれる。それをこっちはいちいち適当なカタカナでメモ帳に書き留めた。
 メニューももらって,よく見せてもらった。メニューには漢字と例のミミズが這ったようなアラビア文字で料理名と値段がかかれている。僕が,メニューの中の「酸牛[女乃](ヨーグルトという意味の中国語)」を指さして注文すると,少年は「これはエーターメータードー」だと言う。やけに長ったらしいな,と思ったがそのときはそのままその単語を覚えた。その後この店に来る度に「エーターメータードー」を頼んだ。大好物なのだ。ウイグルのヨーグルトは新鮮でおいしい。
 大分後になって,ウイグル語でヨーグルトは「カカッス」と言うことを知った。少年は僕をからかっていたわけだ。もちろん,悪意は感じない。
 ラグメンも3元くらいで,どうしようもなく美味しかったし,僕はすっかりこの店の人も料理も気に入った。その後,一人で食事するときはいつもこの店に行った。


件のレストランの従業員。ウイグル人も僕のギターに興味津津だった






 次の日は,レンタサイクルでカシュガル市内の観光をすることにした。この町の目玉は香妃墓とエイティガール寺院というイスラムのモスクだ。これらを見ると,もはや自分が中国にいることを忘れさせられる。
 これらは,もちろん素晴らしいことこの上ない。ただ,僕の性分としてお決まりの市内観光ではどうしても物足りないのだ。レンタサイクルがあればまさに羽が生えたも同然。ウイグル人の居住区へひとり入り込んだ。
 それで,さっき書いたような郷愁を誘うウイグル人居住区の風景に出会ったのだ。例によって,「ヤップン,ヤップン」という言葉を街角で遊ぶ子供達にかけるとわーっと子供が集まってくる。ウイグル人と漢人は仲が悪いようだが,日本人と知るとウイグル人からはすぐに笑顔がこぼれる。昨日覚えたての「ヤッシムセス(こんにちは)」の挨拶が聞いてるのかもしれない。
 子供達は,僕がカメラを取り出すとポーズを取り,しまいには僕からカメラを取り上げ勝手に写真を撮りだす。でも,しっかり者らしい男の子が,返さなきゃだめだよ,とカメラをもってはしゃぐ子をたしなめ顔でカメラを取り上げる。ポーズを取り出す子が多い一方で恥ずかしがって自分が抱えている赤ちゃん(たぶん弟だろう)の陰に隠れてしまう女の子。当たり前のことだが,ウイグル人だっていろんな子がいるのだ。


ウイグル人街に一歩足を踏み入れると、子どもたちの自然な笑顔に出会える




 カシュガル観光のもう一つの目玉として,日曜バザールというのがある。これはこれでもちろん珍しく,おもしろいのだが,僕としてはやはり何か物足りない物を感じた。それは,路地に迷い込んで子供と遊ぶとか,食堂の人々とコミニュケーションをとる楽しみを知りすぎてしまったからかもしれなかった。


 班超の時代にはまだウイグル人はこの地に進出していなかった。しかし,西の果てで異なる文化に接して驚いたのはきっと彼も僕も変わらなかっただろう。


赤ちゃんも僕のギターを抱えて大喜びだった



2004年9月3日金曜日

サバクホテル-トルファン


 電車は、夜明け前5時ごろにトルファン駅に滑り込んだ。僕は、敦煌駅で出会った一人旅のスペイン人マルクと一緒に駅に降り立った。
 闇の中で、人がうごめいていた。中国の駅前ではもはやなじみの光景だ。うごめいていた、といっても別に移動をしていたわけではない。電車を待ちながら駅前に大きな荷物と一緒に座り込んで、タバコを吹かしたり、子供に小便をさせたり、とにかくいろいろ細かい動きをしているのだ。それが、闇の中では妙に不気味なうごめきとして僕の目には映った。
 見上げれば、降るような星空だった。今まで、宿泊しているホテルは街中だったから日本とおんなじで星なんかほとんど見えない状況だった。夜明けの駅前で、おもいもかけない光景に出くわす。
 有象無象の人々の群れと、澄んだ星空。夜行電車で睡眠不足の僕には不思議に神秘的な光景に思えた。


 マルクと僕は、すぐにトルファンのホテルの客引きに捕まった。トルファンの鉄道駅から町までは車で約一時間の距離がある。さすがにこの時間には公共のバスも動いていないので、車で市内のホテルに連れて行ってくれる彼らは旅行者にとって便利な存在である。ホテルから紹介料をもらってるのであろう、値段もバスと同じかそれより安い(8.5元)。
 最初に客引きに捕まった僕らは、7人乗りほどのワゴンがいっぱいになるまで車内で待っていた。スンヨプとはそこで再会した。


 スンヨプと最初に出会ったのは、敦煌での僕の宿、飛天賓館のドミトリーである。何のきっかけだったか、話をして、日本人だらけの部屋でいづらそうにしている彼を誘って食事に出たのがきっかけで仲良くなった。スンヨプは韓国人である。ロッテの選手と同じ名前なのですぐに覚えた。
 兵役を終え、大学院生の彼は夏休みを利用して旅行に来ているそうである。ビールとタバコが好きで、控えめだが他人への心配りは忘れない東洋人的性格を持った人だ。
 不思議なもので、旅行先で韓国人と出会うと、僕にとっては拙い英語で会話をするのだが、後で思い返してみると外国人と話した気がしない。緊張が少なく、非常に自然な会話をした記憶のみが残るのだ。それだけ、日本人と韓国人は感覚的に近いものをもっているのかもしれない。
 
 スンヨプに関しては、こんなエピソードもあった。この日の晩のことなのだが、トルファン一日観光をした僕は夜行列車の疲れと、程よくビールが入ったことでドミトリーのベッドに戻るなり眠りに落ちてしまった。貴重品袋はさすがに身につけたままだったが、2,300元ほど入った財布をほうり出したままで。スンヨプは、必死で僕の体をゆすって起こしてくれたらしいが、夢の世界にしずんでしまった僕は全く反応しない。弱りきった彼は僕のために財布を人からは見つかりづらいように隠しておいてくれたのである。
「ほんっとに、いくら起こしても全く反応がないからどうしようとかと思ったんだよ」
起きた後に、スンヨプはそういって「しょうがないなあ」という風に顔をしかめた。でも、けっして怒っている風ではなかった。
 そんなスンヨプのやさしさがうれしかった。


 話がそれたが、スンヨプは客引きに連れられ、今度は7人ほどの韓国人とワゴンに乗り込んできたのであった。早くも訪れた再会に僕らの話は弾んだ。
 僕らはワゴンに乗せられるままに宿について、ドミトリーに落ち着いた。スンヨプと僕は隣のベットになった。
 一休みして、朝ごはんを韓国人たちと一緒に食べていると、また、ワゴンの運転手をしてたウイグル人がやってきて
「トルファン一日観光にいかないか?」
と、誘いをかけてきた。
 余談だが、トルファンであったウイグル人はすごかった。このウイグル人はウイグル語はもちろんのこと、北京語、英語もぺらぺら喋っていたし、日本語もすこし喋るようだった。このほかにも、ネイティブと見まがうくらいの日本語を喋るウイグル人。いろいろだった。観光都市のトルファンで儲けるには、外国語を学んで観光客を相手にするのが手っ取り早いだろう。ここでも、金という普遍原理が見えかくれする。それにしても、他の観光地と比べても特にトルファンはすごかった。


気温は高いが、湿度は低く、ぶどう棚の中は本当に快適だった




 トルファンには名所が多いが、それぞれ郊外にあり公共交通機関で回るのは骨である。ここでも今までの例にたがわず車をチャーターすることになる。僕らは、韓国人7人、日本人1人、中国人1人という編成で一日観光に出かけることになった。


 観光地はどれもすばらしいものであった。青い青い空の下の火焔山、偶像崇拝を禁じるイスラム勢力に破壊されてしまったのは残念だが、なおかつかつての壁画を残すベゼクリク千仏洞、玄奘にまつわる話で有名な高昌古城、地下水路のカレーズ。なによりすばらしかったのは交河古城。岩場を削ってできた町の遺跡なのだが、それをうまく描写する筆力がない自分が恨めしい。


 昼ごはんは、ぶどう棚の下にあるレストランで食べた。トルファンは火州と呼ばれるくらい気温の暑いところである。夏ならば平気で40度近くまで行く。しかし、ぶどう棚の下は別世界だった。もともと乾燥しているから、直射日光を避ければ涼しいし、水路を流れる水の音やぶどう棚の風情が清涼剤となってくれる。僕らは、ゆっくり涼みながら新疆名物のラグメン(羊肉とトマト・ピーマンなどの野菜をいためた焼きうどん)を食べて、ぶどう棚のぶどうをつまみながらゆっくり休憩した。


 夜はというと、冷えたビールを探し出し(中国ではまだビールを冷やして飲む習慣がなく、冷たいビールを探すのも一苦労だ)皆でテーブルを囲む。やっぱり中華は大人数で食べるのがおいしい。
 それで、その日はスンヨプが起こしても反応がないくらいぐっすり寝たというわけだ。


背中姿のスンヨプと、トルファンのイスラム寺院


 


 次の日は、朝起きてもそんなにすることがなかった。ただ、昨日の一日ツアーの際に「砂漠の真ん中で一晩過ごし、昔ながらのウイグル人の民家を訪ねるツアー」を例のガイドに持ちかけられていた。朝ごはんを例によって一緒に食べていると、それに行こう、という話になった。値段は、夕食代、ビール代、宿泊費、車代等すべて込みで100元くらいだったと思う。韓国人の中で、中国語が出来る人が一生懸命値切ってくれた。
 
 ツアーは4時くらいに出発ということで、僕らは暇をもてあました。バザールをめぐって、いろんなものを食べたり、帽子を買ったりとしたがせいぜい2,3時間もあればおわってしまう。
 僕らは、宿の近くのレストランで冷えたビールを昼から開けてゆっくり過ごした。


 ついつい、酔いの力もあってか、ギターを弾いてくれといわれて一曲披露した。すると、たまたまそれを聞いていた、食堂のウイグル人のおばちゃんや隣でご飯を食べていたウイグル人の若い女性も拍手をしてくれた。ウイグル人の女性は、ホテルで毎晩行われているウイグル舞踊のダンサーをしているそうである。
 下手な演奏と歌だが、様々な人から拍手を受け悪い気はしなかった。
 おわったあと、スンヨプは、
「君のギターはほんとにいいなあ。今日は、砂漠にギターを持ってきて、みんなに聞かしてくれ」
と、うらやましそうなまなざしを向けて言ってきた。
 「OK。そうしよう」
 ひそかに、砂漠の真ん中で思いっきり歌ってみたいと思っていた僕は照れながらも、スンヨプの申し入れを受けた。


これは、広西省からきた中国人のカメラマンらしい女性がとってくれた写真




 例によって、韓国人7人、中国人1人、日本人1人を乗せた車は郊外に向けて出発した。ウイグル人の民家で夕食や歯磨きなどをすませると、いざ夕焼けの砂漠に出発。
 僕は、この際回りの目なんか気にするか、とギターを取り出して歌った。こういうことも周りに日本人がいたら恥ずかしくてしづらかったかも知れない。
 みんなはそんな僕が歌うのを聞きながら、沈む夕日を眺め、遊んだ。何曲かみんなのリクエストに答えつつ歌った。
 ビートルズのリクエストが何曲かあった。「let it be」「two of us」「yellow submarine」砂漠に似つかわしいのかどうなのか。西域の砂漠の上で、不思議な国籍のメンバー構成で、しかもビートルズ。もともと妙な取り合わせといえばそうなのだけども。
 砂漠の夜の帳は、幕を下ろしたようにすぐに下りた。


 すっかり日が暮れると、ビールを飲みながら車座になって話し込んだ。みんなの自己紹介を聞くと、中国留学中の人や、リストラされてしまって長期旅行に来たおっちゃんなど、いろいろな人がいることがわかった。唯一の中国人の女性は、広西壮族自治区から旅行に来ている人で、普段は会社に勤めているが、オーケストラにも所属しておりバイオリンを弾くという。非常にいいカメラを持っているし、お金持ちなんだろう。


 愉快なひと時だった。思い返してみると、英語での会話だったのが不思議に思えるほど、自然に語り、飲み、僕らは夜を明かした。


 夜は、そのまま砂漠に布団を敷いて眠るのである。砂漠の夜は結構冷えるが、布団をかぶっていればなんとかなる。僕らは、語り明かしつつ、いつの間にか眠りに落ちた。


 妙な開放感がある。
屋根もないのに、大地に、大空に、包まれているような。


 こうして旅行に来ている僕だが、特にこの一年はいろいろな苦しみを抱え、乗り越えてやってきたと思っていた。
 ―When I find myself in times of trouble,mother mary comes to me,,,
さっき歌ったビートルズの一節が頭をかすめた。
こうして、砂漠の真ん中で、自分が地球と一体になったように感じながら思う。


「それは些細なことだ」
と。


 サバクホテルは、一泊百元。ビールとご飯と素敵な仲間つき。
日常に疲れたあなたにも、いかが?


サバクホテルに向かう韓国人の仲間



2004年8月31日火曜日

敦煌での出会い-インインさんや純粋な少女など


 敦煌は、今回の旅のまさにメインと言ってもいいと思う。昔、小説「異域の人」を読んで涙が止まらなかったのは班超が玉門関を越えるシーンである。彼は、そこに骨を埋めるつもりで数十年来西域の平定に力をそそいだが、晩年、望郷の念を生じ時の皇帝に上奏文を送る。曰く、
「数十年来、西域の平定に尽力してきましたが、老いて旧友はこの世を去り、一人生きながらえております。洛陽まで戻りたいとは申しません。せめて、玉門関を越えて最後を迎えたいと思います」
 これを見た皇帝は、自分が生まれる前から西域の平定に当たっていた班超にいたく同情し帰郷を許可したのである。
 班超は玉門関を越えて洛陽に帰郷すると、思い残すことはないかのように息を引き取った。


 ガイドブックには玉門関の写真が載っていたから、日本を出てくる前によくよくみていた。興味がない人が見れば、ただの泥の塊ではある。しかし、だれが何と言おうと玉門関だけははずせなかったのだ。


 そういうわけなので、敦煌に着いた次の日早速日本から来た雑誌の編集者の人とふたりで例によってタクシーをチャーターしていざ玉門関へ向かったのであった。
 玉門関は敦煌の町からおよそ100キロはなれている。ゴビの中をまっすぐ横切る道路を突っ走ると1時間くらいで到着する。昔は、わざわざ玉門関を訪れる人もまれだったらしい。だから、敦煌から一日がかりで車をチャーターして道なき道を走ってようやく見ることができたような代物だとか。今は、中国政府の観光政策のお陰であろう、「西の方陽関をいずれば故人なからん」の唐詩で有名な陽関とともに観光道路が整備されている。


 僕は、ついに見た。この目で見た。玉門関を。
ああ、班超は一体何をおもってここを越えたのだろう。昔、志を抱いて玉門関の外に出たときからの数十年間が走馬灯のようによみがえったか―勝手な想像をたくましくして一人感動に浸っていると―


 「オニイチャン。ウマノルー?ヤスイネー。ヒトリ30ゲン」
妙なイントネーションだが感情のこもった喋り方だった。ヤスイネー、の部分なんかは思わず「そうか、安いんか」と頷きたくなるほど見事であった。
 そう、馬オバちゃん登場である。まさかこんなところに来て日本語で勧誘を受けるとはさすがに予想だにしていなかったので、僕も、編集者氏も面食らった。
 だが、相手にせず無視していると、
「トモダチー。20ゲン」
とかいいながら、どんどん値段を下げていく。
最初はまったく相手にしなかった僕らだったが、うっとうしくなり、
「ふたりで7元ならいいよ」
とこれはさすがに無理だろう、という値段を言ってみた。すると、案に相違してあっさりOKがでた。後で知った話だが、相場はだいたい一人3元だそうである。馬オバちゃん只者ではない。


 おかげで、感傷的な気分はすっ飛ばされたが、まあ、それはそれでいいとしよう。今日も馬オバちゃんは玉門関を訪れる日本人をてぐすねひいてまっているのか……


玉門関で馬にのる図




 敦煌は、井上靖の小説で有名なだけあり、日本人観光客が本当に多い。この旅で初めてドミトリーに泊まれたと思ったら部屋のなかはほぼ日本人で占領されていた。上海以来久しく日本人と喋ったことがなかった僕はそのギャップに戸惑った。


 ここでの出会いは結構あとまでつながっている。チベットの方からやってきた大学生の二人組は、一人は中国への留学生で、もう一人はその友達だった。留学生の方とは、後に上海で再会することになる。
 別に一人旅の留学生の女の子がいて、その子には中国人にうける曲を教えてもらった。後に日本に帰ってから、中華ポップスについて載せているブログを愛読していたが、実はそのブログの主が彼女で、彼女の敦煌旅行記に「頼りなさそうなギター君」として僕が登場していた。上海で一式盗まれた―という話をしてそう思ったそうだ(ただし、ギターを弾いた僕を見て、「見直した」とちゃんとフォローしてくれている)。彼女は、麗江の町と、とあるゲストハウスを非常に絶賛していたので、僕も後に訪れることになった。
 韓国人のスンヨプともここで出会ったが、スンヨプのことはトルファンのところで詳しく書く。他にも、某皇室御用達の大学から留学していたジャスミン。いかにもお嬢様そうな肩書きの人が一人旅しているので驚きだったが、「本名が「茉莉」だから「ジャスミン」があだ名なの。似合わないでしょ」なんて言って笑っていた、面白い人だった。隣に寝ていたマレーシア人は、嘉峪関に行くというので、もちろん「皇都招待所」を紹介しておいた。

 ジャスミンとスンヨプが自転車で莫高屈に行ったというので、僕も自転車で何時間かかけて行って見た。片道2,30kmあったので恐ろしく疲れたが、いい思い出だ。莫高屈は小説「敦煌」の主題となった敦煌文書が発見された場所である。自転車で行った僕は、集合時間を気にせず、ゆっくりとたくさんの屈を見て回ることができた。


 敦煌には長く滞在する必要があった。姉が銀行のカードなどを送ってくれるのでそれを待つためである。いくら、高名な観光都市といっても3日ほどあれば大体の観光地は回れてしまう。僕は、暇をもてあましては同じやどで知り合った人たちと旨いものを食べることが楽しみとなった。インインさんは地元だけあり、おいしいお店をいろいろと知っている。それを別に嫌がりもせず教えてくれるのだ。ワンタン、ロバ肉、鶏湯麺、などなど毎日食べては飲んで、楽しかった。
 宿の清掃をする従業員の中に、まだ中学生と小学生くらいではないかという幼い少女がいた。小学生くらいの少女のほうは、見かけるたびに本当に屈託のない顔で「ニイハオ」と挨拶してくれるので、あまりにも可愛らしく、何か忘れていた大事なものを持っているような気がした。ジャスミンにこの話をすると、このニュアンスの難しい日本語を見事に翻訳して伝えてくれた。
 出発の朝、別れの挨拶をすると、いつもの屈託ない笑顔がなく、もじもじしている。中学生くらいの女の子のに背中を押されるように一歩前に出てくると、プレゼントがあるといって、おそるおそる陶器の人形を僕に手渡してくれた。
 これは嬉しかった。もちろん、陶器の人形は僕の好みでもなかったし、高価なものでもないことは一見してわかる。でも、こんな幼い少女が、自分の大事なものをくれたその気持ちがうれしかった。残念ながらバックパッカーには陶器の人形は不釣り合いで、そのうち割れてしまった。荷物を開いてそれがわかったときは、少女の純粋無垢な心までも割ってしまったようで、少しばかり良心に堪えた。


 突然インインさんの名前を出し、紹介が遅れたが、彼女は僕の大恩人である。大きな観光地では大抵個人旅行者の日本人のために、日本人向けのカフェがある。敦煌ではインインカフェがそれにあたった。
 オーナーのインインさんは、中国人である。日本人のだんなさんと愛娘ユエユエと共にシーズン以外は日本で暮らしておられる。シーズン期間だけ敦煌にやってきてカフェの仕事をされているのだ。
 上海以来、盗まれたものの盗難届を出していなかったが、インインカフェでその話をすると、なんとインインさんが通訳をして、一緒に警察署に届けてくれるという。僕は、もちろんその言葉に甘えた。それ以来、インインカフェに毎日入り浸るようになったのである。
 玉門関に一緒に行った編集者さんと知り合ったのもインインカフェなら、車の手配を頼んだのもインインさんにである。


 インインさんがこういう人なので、自然インインカフェには人が集まる。でも、どうやらこの店をつづける気はあまりないらしい。
 もともと、趣味で始めたような店だし旦那さんと別れて暮らすのも大変だろう。インインカフェの料理の値段はもちろん周辺の地元の食堂よりは高いが、材料をわざわざ日本から送ってもらっている割には、そして何より味の割には、安いものである。そして、地元の客はわざわざ高い金を払って日本料理を食べにはこないので、いくら人気があると言っても売上げは知れたものである。
「昨日なんか、売上げはたったこれだけだったのよ」
そうこぼすインインさんだがあくまで陽気だ。
「上海で、月給45万円くらいで雑貨屋の店長をやらないかなんて誘われたこともあったのよ。でも断ったの。上海という町、あんまり好きじゃないし」
 金ではなく、信念によって生きる。
言ってしまうとものすごく単純なようだが、実際はすごく難しい。
欲深な自分が恥ずかしく思われるほど、欲のない人なのだ。


 敦煌を出発する日も、やっぱりここに立ち寄った。
「いってらっしゃい」
 と、敦煌を出発する僕を見送る声を背中に受け、僕の心には涼やかな風が吹いたようだった。


敦煌のサバクは本当に美しかった



2004年8月27日金曜日

ちっちゃなオアシス-安西


 その女の子は、僕の乗るタクシーを道端で止めて乗り込んできた。安西という小さな町に帰るタクシーの中での話しだ。


 敦煌による途中、僕はバスを途中下車して安西という町によることにした。ここには楡林窟という大きな石窟があるのだ。
 安西の町は、本当にちっちゃなオアシスだった。小説「敦煌」の時代、宋の末期には瓜州と呼ばれていた。そのころ、この町は焼き払われて廃墟と化しているのだが今はもちろんそんな影もない。
 バスターミナルの周辺には、ホテルやら何やらが固まっていて一通りのものはそろっている。しかし、そこから10分も歩けば茫漠たるゴビのなかだ。


ひたすら茫漠たるゴビがつづく




 中国の田舎にある観光地に行けば、たいていの場合公共の交通機関はないと思っていい。楡林窟にどうやって行けばいいとバスターミナルで尋ねると案に相違せず「100元でタクシーをチャーターしろ」とのことだった。
 安西の市街地から、楡林窟へのタクシーの移動はそれだけでも十分すばらしかった。果てしないゴビ。草一つ生えない岩山をこえ、時に小さなオアシスで羊や牛たちの放牧されている姿を見る。雲ひとつない青空、そして、また果てしないゴビ。
 楡林窟はそんな風景をこえて一時間ほど行ったところに、突然出現した渓谷の両脇にあった。もとは平坦だったのだろうが、長年の侵食の末2,30メートルほど水面は台地の下にあった。水辺には木々が生い茂り、花も咲き、蝶が舞う。こんな草一つないゴビの中でかくや、と思えるほど神秘的な場所だった。かつても決して交通の便が良かったわけではないだろうが、なるほど、石窟を掘るにはもってこいだ。
   
 そして、石窟自体もまたすごかった。有名な敦煌の莫高窟もそうだが、このような石窟小さな個々の石窟の集まりでできている。当時の豪族や、豪商がお金を出して石窟を作らせるそうである。
 その、何百かある石窟のうち、十数個が一般の観光客に開放されており、我々はガイドさんに従ってそれを回ることになる。ここの石窟の扉には厳重に鍵がかけてあって、毎回ガイドさんが鍵を開けて入る仕組みになっているのだ。そこで僕が見たのは、こんな辺鄙なところによくもまあこんな巨大なものを、とため息が出るような大仏。劣化していることは否めないものの、見るものに感銘を与えるに十分なほど色鮮やかな壁画たち。特別窟という、入場料に加えさらに何百元か払わないと見られない窟は拝観が叶わなかったが、十分に満足することができた。
 そうして、僕は待たしておいたタクシーに乗り込んだ。


楡林屈はゴビの真ん中で神秘的な美しさを放つところだった






 前置きが長くなったが、女の子はその帰り道、市街地まであと20分くらい、という大きな農場がちらほら見えるオアシスで車を止めて乗り込んできた。
「ニーハオ。★◆◎▲!?」
と、助手席から後部座席に座る僕に話しかけてきたがもちろん何を言っているかさっぱり分からない。例によって、筆談用のノートを差し出して会話をした。
 何人だ、どこから来て、どこに行く。何の目的でここに来たのか。大体そういう内容の会話をしていると、彼女も敦煌に行く予定があるらしく、一緒にいかないか、とか、今日は安西に泊まらないのか、何か手助けをしてあげるよ―と親切にもいろいろ申し出てくれた。僕は、その日のうちに敦煌に着きたいと思っていたので、そういうとどうもバスはもうないのではないか、ということだった。そうこうしているうちに、市街地に着くとやはりバスターミナルは閉まっていて入ることすらできない状態だった。大きい荷物をターミナル内の寄存所に預けていた僕は打つ手もなく、一泊して明日の朝敦煌に向かうことにした。
 
 彼女の名前は、張麗。僕より少し上の年齢で、中学校の社会教師をしているらしい。政治、経済について教えているそうだ。とりあえずご飯を食べよう、といって食事している間僕らは筆談でさらにいろいろ会話を続けた。
「ここへは、班超にあこがれてきたんだ。中国の歴史が好きで、史記や三国志を昔よくよんだんだよ」「あと、中国の本では西遊記とか水滸伝、詩では李白・杜甫が好きだ」
 好きだ、というよりはむしろ知っているもの全部を挙げたようなものだが、彼女は
「私もそういうの好きよ、あと紅楼夢とかも」
さすがに社会の先生だけある。ちょっと趣味が似てるのかもしれない。中国語ができなくても筆談でなんとかこの程度の会話はできるのだから中国ってのは楽しい国だ。
 そう会話している中でもけっこう支払について頭を悩ませる僕―中国って割り勘はないよね。こういう場合ってどうするんだろう。お世話になったからおごったほうがいいんだろうけど、中国人って面子を大事にしてるもんな。。。へたに、おごるよとか言っていいもんか―。とりあえず、いざ支払の段になってまずは支払う振りをしてみよう。そうおもって勘定のときにポケットからお金を出すと、彼女はなにもせずに黙って僕が払うのを見ていた。日本なら、「ここ俺が払うよ」「そんな、わるいですよ」「でも、いろいろお世話になったし、遠慮しないで」「それじゃあ。。。」というような会話が交わされるはずの場面だから少々面食らった。町を案内してくれたり、これから宿探しを手伝ってくれるみたいなので、もともと食事代は全部出す気でいたから、別にいいのだけれど。


「20元くらいの安いホテルがいいんだ」
こう、お願いすると彼女は直ぐにあるホテルに入って、値段交渉をまとめてくれた。
嘉峪関での苦労が嘘のようだ。田舎町だけあって、安いホテルはざらにあるのか、それともやはり中国語で値段交渉できるればあっさり安くなるのか。


 彼女もやはり、何か困ったことがあったら電話してと電話番号を書いて渡してくれた。僕が部屋に落ち着いたかと思うと、彼女は、名残惜しさも見せずに、ふわっと行ってしまった。


 まるで、蜃気楼のような。


 僕が立ち寄ったちっちゃなオアシスは、しかし、僕の渇きを潤すのに十分だった。 
 

2004年8月25日水曜日

皇都招待所-嘉峪関


 夕方前に嘉峪関に到着した僕の宿探しは難航を極めていた。蘭州では一泊50元近くするシングルルームに泊まっていたため、このペースで行けばとても金が持たないと、僕は意地でも20元ほどの宿を探す気。だが、カメラと一緒にガイドブックまで盗まれてしまっていてはそうも簡単にいきはしない。
 「20元的房間」とか何とか書いてあるメモ帳を見せながら手当たりしだいめぼしそうな宿を当たってみるがとてもではないが僕の希望する額の部屋は無いようだった。そうして何軒か宿を回っていると、よっぽど運に恵まれているのか、僕が頼りなさそうに見えるのか、例によって親切な人が現れた。
 そのホテルに入って例によって「20元―」の紙を差し出すと、無いとフロントのおばちゃんは言った。ただ、それまでと違ったのはガードマンらしい制服を着た男を呼んで心当たりを探してくれたところである。ガードマンはいろいろ電話をして確認を取ってくれ、一つの招待所―招待所とは、ごくごく簡単に言えば一番低級なクラスのホテルである―を紹介してくれた。


 ホテルを出てメインの通りに戻り少し歩くとビルの2階にその招待所はあった。フロントで聞くと20元の部屋はあるとのこと。早速チェックインをしようとすると、「身分証明書を出せ」といわれる。パスポートを出したところ、フロントのおばちゃんは眉間にしわを寄せて「だめだ」と首を振った。外国人は泊められないらしい。
 中国の法律で決まっているのだろうが、外国人を泊められるには政府の許可か何かが必要なのである。外国人の管理と安全のために、あまりにも設備の悪い宿にはとまらせない方針のようである。この招待所はその許可を得てなかったのだ。


 また、途方にくれてさっきのホテルにひきかえして、パスポートを見せながら「外人はダメだった」ということをジェスチュアで伝えると、ガードマンもおばさんもようやく僕が日本人であることに気がついたようである。喋っても通じないので筆談していたにも拘らずだ。案外、香港人か在外中国人とか、思っていたのかもしれない。それとも中国では中国人同士でも筆談をすることが稀でないのか。
 それはともかく、再度やってきた客でもない僕に対してまたも2人でああでもない、こーでもないと話をして、英語の通じるホテルに電話かけてくれたりいろいろした挙句紹介されたのが「皇都招待所」であった。ガードマン風の話によると「30元と言っていたが、交渉すればまけてくれるだろう」とのこと。
 僕は、親切な皆に「非常感謝」とかいた紙を見せてホテルをあとにした。


 皇都招待所もやはり、大通りに面したビルの最上階にあった。つまり、ビルのワンフロアを宿としているのである。
 ここでもやはり「20元―」とさらに今回は「外国人OK?」と書いたメモを見せると、受付のお姉さん―おばさんというべきか微妙な年齢だけど―は早口で「○★◆◎!?」とまくしたてて、あわててきづいて一人でコロコロ笑い転げた。人のいい、愉快な感じの人だ。以下筆談―
「20元の部屋はないけど30元の部屋ならあるよ」
「でも、さっき聞いたところでは20元だって言ってたよ」
これは、あの人たちも30元と言っていた以上うそにはなるわけだけど。
「いや、30元」
「わかった。だったら20元にまけてくれ」
「ダメよ。みんなそれで泊まってるんだから」
「うーん、でも僕は学生で金が無いんだ。2泊するから2泊で50元にしてよ」
「わかった」
だいたい、こんなやり取りを経てようやく長い僕の宿探しはおわったのだった。


 皇都招待所は小さくて設備もたいしたことはないけれど、そのぶんアットホームな雰囲気をもっている。受付のお姉さんは、あいかわらず何か尋ねるたびに(もちろん筆談で)早口でまくし立てては僕が理解しないのに気づいていちいち笑い転げていてた。日本人がよっぽど珍しいのか、なんで嘉峪関に来ているのか、学生なのか、結婚しているのか、彼女はいるのか、等々、もう一人のおばちゃんと一緒になって質問攻めにしてきた。でも、こっちが尋ねたことにはきちんと答えてくれるし、自分がわからなかったら「ここで聞け」ときちんと教えてくれて本当に助かった。


 嘉峪関はゴビ―日本ではゴビ砂漠という特定の場所を表す固有名詞が有名だが、ゴビとは本来は岩でできた砂漠をさす一般名詞である―のなかにできたオアシスである。蘭州をすぎて西域に入ってくるとあたりはたいてい一面のゴビでその中にポッとあたかも島のようにオアシスがあり、町を形成している。嘉峪関から南を眺めれば漢の時代匈奴の根拠地とされた祁連山脈が雪をかぶっているのが望める。万里の長城はこの町から始まっており遥か北京のもっと向こうまで続いているのだ。近くの敦煌に比べれば大分落ちるもののシルクロードの主要な観光都市のひとつである。
 僕は、2泊してじっくり観光をした後、次の目的地、敦煌に向かうことにした。




嘉峪関は万里の長城の西端の地だ


 出発の朝、チェックアウトをしにいけば、例のころころ笑い転げるお姉さんが
「嘉峪関は楽しかった?」
筆談でこう聞いてきた。
「ああ、楽しかったよ」
「じゃあ、この町にまた来る?」
「うん、きっと」
多分もう来ることは無いだろうな、とは思ってたけど。
「そう、また来たら大歓迎するから」
彼女はそう書いてくれた。
中国でもこういう社交辞令ってあるんだなあ、と妙に感心した。それとも、本気で言っているのだろうか。
 それで、
「バスターミナルに行くのには、何番バスに乗っていけばいいの?」
と聞くと
「人力車で行ったほうがいいよ、2元しかかからないし。この人についていって」
と、もう一人のおばさんを指差した。
 フロントのお姉さんとさよならしておばさんについて下に下りると、おばさんは人力車―といっても自転車の後ろに幌馬車の座席をつけたようなやつだが―をつかまえてくれた。さらに、「3元だよー」と渋る運転手に「2元、2元」と押しまくって結局2元で押し切ってくれた。つくづく、親切な人たちである。


「再見―」
おばさんに向けてなのか、誰に向けてなのか、僕は挨拶して人力車に飛び乗った。
やっぱり、いつでも別れは少しさびしいものだ。

2004年8月17日火曜日

蘭州之旅-炳霊寺石窟



蘭州という町は西安からさらに西に電車で7・8時間ほど行ったところにある、黄河沿いの工業都市である。甘粛省の省都だけに街中は非常に栄えている。ビルが立ち並び、デパートには人が群がる。典型的な中国の地方都市だ。ただ、木々のまばらな郊外の山々には植物のためにスプリンクラーで水が撒かれており、雨の少ないシルクロードにやってきたことを実感させられた。
蘭州からシルクロードの旅を始めたのは、NHKのシルクロードにも紹介された炳霊寺石窟というものを見たいがためであった。僕は、蘭州西バスターミナルから劉家峡行きのバスに飛び乗り、炳霊寺を目指した。
中国に来て、一人で初めてローカルの交通機関を使って観光に出かけた僕にとってこの蘭州からの小旅行は困難だがしかし楽しいものとなった。


バスを終点で降りて、さんざん迷った挙句ようやく黄河のダム湖にできたボート乗り場にたどり着いた僕をさらに待ち構えていたのは、料金交渉という大仕事だった。炳霊寺にはここから船に乗って向かわなくてはならないのである。後には大分慣れたのだが、料金交渉に不慣れな日本人の典型である僕は、なかなか「まけてくれ」の一言が出ない。船頭のおっちゃんが「丸ごとチャーターで400元、相乗りで200元」と持ちかけると、交渉もなくつい「200元のほうで」と決めてしまった。
しばらく待つと、6人の家族が乗り込んできていざ出発することになったが、試みにいくら払ったか聞いてみると6人で400元とのこと。僕は猛然と船頭に抗議をしたが既に払ってしまったものを取り返すのは困難で、ただ首を振るだけだった。家族づれの親父さんは「君は一人で先に来たし、私たちは学生が四人で後から来たから安いんだよ」と説明してくれたがちゃんと交渉すればもう少し安くなったのはもちろんだろう。
ただ、この一件で相乗りの中国人の家族連れ‐白さん一家‐とは一気に仲良くなった。一人で旅をしている僕に興味を持ってくれたのである。特に、高校生くらいの長女と中学生くらいの次女は習いたての片言の英語でいろいろと説明を加えてくれた。


船は草一つ生えない岩山の間にできたダム湖を突っ切って快調に進んだ。憧れのシルクロードにやってきたんだ。青い空、湖、岩山、緑のない風景を眺めながら僕ははじめて総実感した。時々現れる、小さな草原と放牧された牛・馬に妙に郷愁を覚えた。炳霊寺は、そんな風景の間をダム湖からさらに少し上流に行ったところにあった。僅かな緑と、川と岩山の織り成す神秘的な風景。僕の心は躍った。


この船の上からの風景は憧れていたシルクロードそのものだった




白さん一家とともに石窟を見て回ると、どうやらジープに乗ってもう少し奥に入るらしく、干上がった川らしきところを揺られながら奥へと入っていった。そこにはこじんまりとしたチベット仏教の寺があった。


さらにチケットが要るらしい。白さんは僕の分もまとめて払ってくれた。僕が支払おうとしても、「朋友」だから、といって受け取ってくれなかった。必死で船頭に抗議する僕に哀れを催したのか、それとも、一旦仲良くなると中国人というのはそういうものなのか。


白さんの主人はまったく英語はダメだったが、僕に好意を持ってくれているのは別れ際に携帯の番号を「困ったことがあったら、遠慮なくかけてきてくれ」と渡してくれたことでもよく分かった。中国語のできない僕には役に立たないことは分かってるはずなのに。


白さんは、中国人にしては珍しく自家用車を所有していた。子供たちも英語をしゃべることからすれば結構いい教育を受けているに違いない。僕は蘭州に向かう電車の中であったいかにも貧しそうな人々のことと比較せざるを得なかった。あの電車に乗れてるだけでもなかなか裕福なのだろうな、と思っていただけに中国では貧富の差が拡大しているということを痛感させられた。ただ、金を持っているいないにかかわらず自分なりのやり方で日本からやってきた旅人に親切にしてくれるのはとてもうれしい。


チベット仏教の寺では、すっかり白さんの子供たちに混じって、果物を取ったり、僧が出してくれたお茶を頂いたりした。再度船に乗って、ダムに戻ると一家の面々は、腹が減ってないかとパンやゆで卵をくれたり、僕がどうやって蘭州の町に戻るのかを心配したりしてくれた。船で少しぼったぼったくられたのは腹が立つが、これだけいい人たちに出会えたんだからまあいいか。すっかり僕は機嫌を直していた。チベット僧も、言葉はまったくわからなかったが、遠い日本からの来訪者に感激したのか、なにかとよくしてくれた。


このチベット仏教のお寺の雰囲気も素晴らしかった




駐車場から、手を振りながら去っていく一家を見送ると、一人旅ならではの満足感と寂しさの入り混じった複雑な感情が去来した。

2004年8月15日日曜日

硬座24時-上海から蘭州へ


 翌朝、目覚めた僕は今日のチケットを買いに上海駅へと向かった。中国の都会にある駅の切符売り場の状況は、言葉にしにくいがとにかくすさまじい喧騒である。20ほどある窓口にそれぞれ何十人もの人々が並ぶ。当然、「列に並ぶ」という習慣がまだ十分に根付いていない中国のことだから割り込みは日常茶飯事である。最近では、オリンピックを視野に入れてかこのような割り込みを防止しようと、公安が割り込みを監視しているようである。僕の並んだ列でもそのような光景が見られた。
 正面の電光掲示板には、電車の出発地と到着地、電車番号、発車時刻が表示されて、さらにそれぞれの電車につき、軟臥・硬臥・軟座・硬座の空席の有無が表示される。できれば僕は硬臥のチケットがほしかった。軟臥というのは、ソフトスリーパー、日本で言うA寝台のようなもので、硬臥とはハードスリーパー、日本で言うB寝台のようなものだ。軟座というのは、日本で言うグリーン車のようなものである。最後の、硬座というものは、文字通り硬い座席である。日本の鈍行列車のような直角な対面シートになっている。硬座のチケットは安い。中国の一般庶民は夜行列車でもこの席のチケットをつかう。
 僕は、とりあえず西安行きの硬臥を第一希望にして、最悪硬座の蘭州ないし西安行きの切符を購入しようとその旨紙に書いて係員に出した。すると、あるはずの西安行きの硬臥はなく、何がどうなったのか蘭州行きの電車の西安までの硬座のチケットを買わされた。まあ、とりあえずこれで今日中に忌まわしき上海を脱出できることになった。蘭州までだと、24時間、硬座の旅である。


 昨日の失敗で懲りた僕は、もう町をうろうろするのをあきらめ駅に荷物を預け駅前をうろうろすることにした。それで、今度こそは無事電車に乗り込むことができた。
 自分の座席のある車両に行くと、すでに中国人で埋め尽くされていた。荷物を置く場所もない。強引にほかの人の荷物をずらしてなんとかスペースを作って自分の荷物を戸棚に載せることに成功する。この時点では、ほかの乗客は何か変わったやつがいる、程度に思っていただけで、日本人の単独旅行者とは考えてなかっただろう。


 不安を乗せた列車は発車した。何しろ、硬座に乗っているのは一般庶民である。治安を期待しろというほうが無理な注文だろう。停車するたびに荷物に気を使いながら、眠れぬ夜をすごすこととなった。


 いつのまにか、うとうとしてたらしく、翌朝5時ごろ目を覚ますと外はすでに明るく、洛陽から西安に続く道を走っているようだった。まさに中原から関中に入る道である。山の間を縫うようにして列車はゆく。
 何のきっかけだったか、反対側の座席に座っていたウイグル人風のおっちゃんがぼくに興味を持っていたようで、「君は韓国人か」ときいてきた。もちろん、最初何を言われているのかわからなかったから書いてもらったのだが。「違う。日本人だ」と筆談でかえしてから、いろいろな会話をした。中国にはいつ来たのか、日本にいつ帰るのか、等々。
 そのうち、僕の持っていた小さなギターをさして、あれは何だ、見せてみろという話になる。戸棚からおろして、ギターを取り出すと、自然な話の流れとして「弾いてみろ」ということになった。
―よわった―
 もちろん、こういう事態を想定しているからこそわざわざ日本くんだりからギターを持ってきているわけであるが、日本でも人前ではほとんどギターを弾いたことはなかったのである。思い切って、どうせ相手は何を歌ってるか分からないんだから、と一曲ひいてみる。すると、「なんか変な日本人がおかしなことやってるぞ」とばかりに車両中の人が注目しだした。まだ、朝っぱらの6時を回ったくらいである。大体、電車の中で歌ってるだけでも日本では考えられない。携帯で話すことすらマナー違反とされるくらいだから。
 盛大な拍手をもらってすっかり気をよくした僕は、さらに何曲も日本の曲を弾いて、歌った。
 ほうっておくと、きりなく続けることになりそうなので、筆談ノートに
「休憩」
と書いて一休みすることにした。


手前左がウイグル風のおじさん。宿も探してくれ、親切だった




 こういうことがあってから、電車の中は一気にすごしよくなった。トイレに行こうと思えば荷物を見ていてもらえるし、車窓に名勝が現れれば解説をしてくれる。昨日の盗難の経験からかなり警戒心でぴりぴりしていた僕も大分リラックスすることができた。その後も、西安行きの切符を蘭州までのものに差額を払って変えてもらったついでに、車掌さんと筆談したりして「勤務中いいのか」なんて思ったりした。いろいろおおらかな国ではある。
 なかなか面白かったのは中国人の女の子との筆談だった。


 西安から乗ってきたその女の子は、親父さんらしき人と二人づれだった。女の子をからかう親父さんに噛み付こうとしたりしてじゃれあっている。年は高校生か大学生くらい(あとで19とわかったが)のようにみえるが精神年齢は低そうだ。僕が、ほかの中国人と筆談などをしているとこちらを伺っている。そのくせ、だれかがあの日本人に興味があるのかとたずねると「興味ないわ」なんてすまし顔をしたりする。しかし、明らかに僕のことが気になっている様子だ。そんなわけで、女の子の向かい側に座ってみた。


 彼女は座席備え付けのテーブルの上で一元硬貨をコマのように回して遊んでいた。だが指ではじかず、普通のコマ回しと同じようにまわすもんだから勢いがでない。そこで、僕は左手の人差し指で硬貨を立てたままテーブルに押し付けつつ、右手の中指ではじいて回してみせた。
 コマは、勢いよく回った。


「コインを使って遊ぶのって楽しい?」
ニュアンスはよくわからない。いいトシして―という小ばかにしたつもりなのかもしれない。ともかく、彼女は僕の筆談ノートをとってそう書き込んだ。
「あなたの国にもコインってあるの?」
彼女は、さらに続けて書き込んだ。
僕は、少しいじわるっけを出して、親とじゃれあってる彼女をさして
「君は、親父さんとすごく仲がいいね」
と、わざと質問には答えないで、逆にからかった。すると、
「あんたほんとにむかつくわー。あんたみたいなガキに何が分かるのよ」
なんて書いてきた。ただ、別に険悪な雰囲気じゃない。
「あんたって、日本人っぽくないよ。ほんっといやだわ」
彼女はつづけた。
 僕は少しおかしくなって、さらにこの子をからかってみたくなって
「君って、素直じゃないよね」
と筆談ノートに書き足した。けっこうテンポのいい会話のようだけども、いちいち辞書で調べながら書いてるから実際は途切れ途切れだ。
「そうよ、素直じゃないの。私はとっても冷酷よ。人を殴るのが一番すきなの。あなた(中国語の)勉強したってうまくいかないわよ」
―残念だけど
「うまくいきそうだよ。君のおかげで」
僕も負けずにやり返す。実際、この子のおかげで辞書と悪戦苦闘しながらも何とか会話をつづけているのである。
「私って、ほんと不幸だわ。まだ、私をいじめるつもり!」
さすがにぼくもこのへんにしとこうかな、と思って
「そんなことないよ。僕はただ君に非常感謝してるだけなんだ」
これはもちろん正しい日本語ではないが、僕は実際「非常感謝」とノートに記したのである。


 「非常感謝」が効いたのかどうかは知らないが、雰囲気が変わった。
 彼女は、やけにしおらしい表情をしたかとおもうと、こう書いてきた。
「恋愛したことある?彼女いるんじゃない」
「いないよ」
「でも、恋愛したことはあるんでしょ」
「まあね」
「わかれたの?」
「そう」
ここまで来ると、一種礼儀だと思って
「君は彼氏いるの?」
と僕のほうも聞いてみた。
「いないわ。彼はもう別の人と結婚しちゃったのよ」
最初の感じとはうってかわってしゅんとしている。
「気を落とすなよ」
「がっくりしたわよ。今はどうしたらいいか分からないわ」
僕は、ちょっと慰める気になった。
「君、今いくつなの」
「18よ。すぐに19になるの」
「まだまだ若いじゃない。俺は23だよ」
と、ここから急に話の方向がおかしくなって、
「しってるわ。でも、私たちはだめなのよ」
「だめなのって、何が?」
うすうす答えは感づいていたが、一応聞いてみた。
「だって、私は中国人、あなたは日本人‥‥」
―どうしてこんなことになったんだ。別に口説くつもりはなかったし、口説き文句もなかったんだと思うけど―
 内心、苦笑いする僕にかまわず彼女はつづけた。
「あなた中国の女の子好き?中国好き?」
僕はもちろん、好き、と答えておいた。
「ありがとうね。今日はとっても愉快な一日だわ。わたしとってもうれしい」
最後は、気味が悪いくらい素直になった。
 僕は末っ子だけど、なにか妹のように彼女のことを感じたのだった。


 硬座24時の旅を終えて、電車は終点、蘭州駅に滑り込んだ。
彼女も、ここで降りる。
 降り際に、また例のすまし顔で
「再見!」
と手を差し出してきた。そのやけにすました顔が小憎らしい。
 僕は、愉快だった硬座24時ともさよならだな―と、一抹の寂しさを感じながら、手を差し出し返した。