2004年9月12日日曜日

カラクリ湖



カラクリ湖。


別に,豚カツを揚げるときに使うあれでも,何かすごい仕掛けが施されている湖というわけでもない。
  カシュガルから,パキスタン国境へ向かって5,6時間車を走らせると眼前に広がる外周10kmにも満たないような小さな湖だ。標高は3000mを越える。
小さな湖ではあるが,この湖の話は所々で耳にした。旅行に出る前,知人にカシュガルの方まで行くのだと話したとき,カシュガルに来る途中反対方向から来る旅行者と話したときなど,みんな,おもしろいくらいに異口同音に
「本当にきれいな湖だから!」
と言う。
そういうわけなので,僕もカシュガル滞在中にカラクリ湖まで一泊二日の小旅行をすることにした。


カラクリ湖もそれなりに名が通った観光地である。しかし,今までの例に漏れず,直行で行ってくれるバスなどは存在しない。タクシーをチャーターしたら400元くらいかかるようだ。
そこで,旅行者がやすくカラクリ湖まで向かおうとするなら,タシクルガンという中・パ国境付近の街へ向かうバスか,直接パキスタンに向かう国際バスを途中下車する事になる。前日,バスターミナルに立ち寄った際,カラクリ湖への行き方を係りのおばちゃんに教えてもらい,チケットを買った僕は,次の朝,タシクルガン行きのバスに飛び乗った。


ところで,なのであるが。
僕は,こうみえて結構シャイなのである。日本でも,外国でも,道がわからない場合に滅多に人には聞かない(もっとも,これは自分で地図を見る方が迷わないからかもしれない)。外国で市内バスに乗るときも,事前に路線図を深く検討して乗ることにして,現地の人には聞かないことが多い。特に,一見して明らかに外国人とバレないような,韓国・中国などではなおさらだ。外国人とバレることに何か気恥ずかしさを覚えるのである。以前,韓国の古都慶州の古刹仏国寺に市内バスで向かったとき,きちんとそのことをアピールしないので間違えて仏国寺の駅前で降りてしまって,タクシーで入り口まで向かわなければならない羽目に陥ったこともある。蘭州から,炳霊寺石窟に向かったときも,そのことをきちんと伝えなかったので終点まで行ってしまって後で引き返す,ということがあった。
旅の恥はかきすて,とはよく言ったもので,こういう意味のない羞恥心は捨ててもかまわない,ということだろう。


さて,さすがに蘭州でのような失敗はこりごりだったし,今度は降り過ごしてしまうと戻りようがない。バスに乗った僕は,「カラクリ湖」と漢字で書いた紙を運転手に見せ,そこで降りる旨を伝えた。運転手は,わかったとばかりに大きく頷いた。この程度の簡単なことなのだから,いつもやればいいのに。
バスは,カシュガル周辺のオアシスを抜け,草木一本生えない岩山を縫って進んだ。岩山を抜けて,少し広いところに出る。所々に,水のたまった池のようなものも見え,草が生えているところもある。
透明な小川を渡って,緑と大きな湖が現れたと思ったら,バスが止まって,運転手が僕に声をかけた。どうやら,ついたらしい。


数日前は大吹雪だったそうだが、僕が訪れた日は快晴だった
  


バスを降りた僕を待ちかまえていたように,バイクに乗った少年が声をかけてきた。とはいえ,もはや英語でも,中国語ですらない。しかし,僕がまごついていると,彼は,「モーターバイク,ブルルン」と言ってバイクを運転するまねをして,湖の対岸にある集落を指さした。そして,指を5本立てて「フィフティー」という。どうやら,彼もほんの少し英語を知っているみたいだ。僕みたいな旅行者がたくさんいるからだろう。
要するに,彼の行っている意味は,これからバイクに乗ってあそこの集落までいこう。そして,その中の誰かの家に泊まれ。全部で50元だ。ということらしい。
感覚として50元は高い,と思った僕は「それじゃあだめだ」という身振りをした。走行しているうちに,もう一人のおじさんが現れて,
「わたしの家に来たらどうだ。歩いて10分くらいで行ける。一泊,ご飯付で25元だ。」
これも,簡単な英語だったが,大体こういう風に言ったように思う。
「20元だったらよい」
20元は,大体日本円で350円もしないくらいだから,さすがの僕も気が引けた。しかし,物事には適正な相場というものがある。足元を見て,いわば不当なダンピングをするならともかく,値段交渉というものは当然すべきものなのである。旅の始めのころは,これになれなかった僕も何度かの経験を通してこう考えるようになっていた。
そうすると,おじさんはあっさり
「わかった,わかった。それでいい。」
と,折れてくれた。


僕は,おじさんの後ろについて家の方に歩いた。おじさんの家はバイク少年の指さした集落とは湖を隔てて対岸にあり,ちょうどバスで通ってきた道をさかのぼった方向にある。バスを降りたところには,ゲートらしきものと,ゲートの向こうには3階建てくらいの比較的大きな宿泊施設があった。しかし,おじさんはゲートの方を指して,「あそこには入らない方がいいんだ。50元も取られて,何の意味もない。」という。まあ,ゲートに入らなくても湖は広い。見るのに何の支障もなかったので,そのまま家に向かうことにした。


あらためて,周囲を見る。不気味なくらいに透明な湖が広がり,背後には万年雪をかぶった山々が控える。しかし,木は生えていない。湖の周りには草が生えていて,所々では草原のようになっている。牛も,そのようなところに放牧されのんびり草を食べていた。


雪山と湖と草原と青い空、言葉を失うほどの美しさだった




忘れ得ない風景。
今回の旅でもいくつかそう表現するに値する景色に出会ったが,まさにカラクリ湖はそれだった。カシュガルで泊まっていたホテルのドミトリーで,パキスタン方面から来てカラクリ湖を通った,という韓国人の女の子から話を聞くと,彼女が通ったときにはここらへんは猛吹雪だったそうである。肌を刺す空気はもちろん冷たいが,今は澄み渡る青空が広がる穏やかな天気に恵まれた。


そんな風景の中,何百年も前からそこにあったとおもえるかのように自然に,おじさんの家がある集落はあった。家は,石を積み上げて作ったごくごく簡単な平屋づくりのものだ。もちろん,観光地とはいえ開発も進んでおらず,電気・ガス・水道などは存在しない。しかも,僕が泊まろうとしているところは,宿泊用の施設でも何でもなく,ただの民家なのである。トイレはというと,集落から少し離れた小山の陰なのである。陰にトイレの建物があるわけではない。大空を眺めながら,開放的な気分で用を足すようにできている。
おじさんは,家の中に僕を通すと,暖かいチャイとナンを振る舞ってくれた。正直言ってチャイは甘みが全くなくしょっぱいだけの,ナンは乾燥していてパサパサのものであり美味しいといえる代物ではなかった。しかし,おなかがすいていた僕は見よう見まねでナンをチャイに浸して,食べた。


おじさん達は,ウイグル人でもなく,キルギス人らしい。キルギスタンという国は中国と国境を隔てて西にある。このあたりは,確かにキルギスタンにも近い。放牧をして暮らしているようだ。おじさんは,民族楽器なのか,粗末な作りの弦楽器で演奏を披露してくれた。
僕は,大きな荷物はカシュガルのホテルに預けてきたものの,ギターははるばる担いできていた。お礼がてら,ギターを披露することにした。この旅の間に何度かこのようなシチュエーションがあったのでさすがに慣れてきて,抵抗なく弾くことができた。
おじさんと,奥さん,娘さんが家のなかにいたが,近所の子供等も興味深そうに家の中をのぞいていく。そのうち,外で弾いてくれという話になって外でも弾いた。子供達は大喜びだ。
こうして言葉も通じないキルギス人とのコミニュケーションは図れたが,いつまでも弾き続けているわけにもいかず,だんだんと子供達も仕事に戻ったりと元の場所に戻っていった。
こうなると,もう僕にかまってくれる人はいなくなった。まあ,別に民家訪問のツアーで来ているわけではないから当たり前といえばそうなのだが。おじさんにとっても,自分たちが住んでいるところに旅行者が来るようになって,小遣い稼ぎで宿泊させるようになった,というところだろう。いずれにせよ,20元しか払っていない割には十分な歓待である。


キルギス人の外見は,ヨーロッパ系には見えない。アジア系に見える。モンゴル人は見たことがないが,どことなくモンゴル人のような感じを受けた。
皆,日焼けしている。日焼けのせいなのか,過酷な労働のせいなのか,皆の肌は浅黒く実年齢よりも老けて見える。年齢を当ててごらん,とおじさんに聞かれたとき「60歳くらい?」と言ったらたいそう気分を害したようだった。これでも控えめに言ったつもりだったのだが,実際は40歳過ぎなのであった。
彼らはいったいどのように生計を立てているのだろう,何故このような生活を続けるのだろう。いろいろ考えさせられることはあったが,それはまたの機会に触れることにしたい。


おじさんはギターに似た楽器を披露してくれた




僕は,日没までまだ時間があると思い,湖を一周してみることにした。最初は,ちょっといって帰ってくるつもりだったのに,なんだか途中から一周できるような気がしてきたのだ。
どのくらい歩いただろう。最初は簡単に一周できると思っていたが,意外に外周は大きい。例のバイク少年が指さした集落にもなかなかつかない。道がないところもあり,小川を何とか飛び越えたりして,風景には満足したものの大分疲れてきた。
なんとか,集落にたどり着いた僕は,バイクに乗って湖一週を完成させることにした。バイク少年の集落は,僕が泊まる集落と比べると遙かに大きい。百戸くらいあるのではないかと思った。町人に,身振り手振りで「バイクに乗りたい」と示すと,すぐに勧誘合戦が始まった。やはり,旅行者はこの辺の人にとって金を落としていく貴重な存在なのだろう。
バイクを持っている家も何軒かあり,最初に出会ったのとは別のバイク少年に10元で対岸の集落まで連れて行ってもらうことにした。


このバイク少年は,歌が好きなようだった。
僕を後部座席に乗せながら,陽気に歌い出した。
「アップンダ,ヤップンダ,ジリニーダーヌマシプンダ」
キルギス民謡だった。
別に僕はキルギス語を知っているわけではない。しかし,何度か聞いたままをカタカナにするとこんな具合だった。もちろん,意味もわからない。
後ろに座っている僕が,彼に続いて歌ってみると,彼もニヤリと後ろを振り向いて,ワンフレーズごとに区切って教えてくれた。
陽気な二人の音楽隊は,そのまま歌を歌い続けながら,僕の泊まっている集落へとたどり着いた。バイク少年は10元を受け取ると風のようにもときた道を帰っていった。草原に吹くさわやかな風のような少年だった。


バイク少年の村のおばちゃん。子どもはおそるおそるだが、おばちゃんはギターを抱えてご満悦だ。




ふたたび,おじさんの家にはいると,どうやら僕は別の家で寝ることになるらしい。おばさんに別の家に案内された。
家の中では,夕食の準備が始まっていた。小麦粉のような,粉を固めたものを練る。最初はナンを作っているのかと思ったが,ラーメンの生地をこねているのであった。この生地を,穴がたくさんあいた麺製造器のようなものに入れてラーメンにするのだ。ハンドルを回すと,生地が穴を通って押し出される仕掛けになっている。
その一方で,暖炉もかねた火鉢では芋,野菜,肉を炒めていた。これが,ラーメンの具になるのだ。火鉢の燃料は,その辺に生えている駱駝草である。駱駝草は,ゴビに生えているほとんど唯一といってよい植物だ。カラクリ湖の周辺も,草原になっているような部分を除けば,要はゴビなのである。駱駝草は,家の前に山のように積み上げられている。
こうしてできたラーメンは,とても美味しかった。ラーメンといっても,麺をゆでてその上に具をかけるもので,スープはない。しかし,具は塩味が効いていて口に合う。僕は,勧められるがままにお代わりをした。


夜は,早かった。
日が沈むと,明かりは火鉢の火と,ランプだけである。僕は,薄暗い明かりの中で,早速今日覚えたてのキルギス民謡をギターとともに披露した。
若夫婦の旦那さんもすぐに知っている曲だとわかったらしく,一緒になって歌い,歌詞のわからないところを教えてくれた。
日が沈むの自体がそもそも遅いのもある。しかし,テレビも電気もなければさしたる娯楽が存在しないのであろう。すぐに,寝る時間が来た。
僕は,ふっと外に出てみた。月明かりがすごい。ちょうど満月に近かった。月夜に提灯,ということわざの意味が初めて分かった。月影が,湖面を照らす。月明かりは十分あるが,雲間からのぞく空には無数の星が散らばっていた。


夜が明けるところを見たい,と思って翌朝少し早めに起きて,外に出た。月も沈んだのであろうか,夜の時よりも暗い。雲もすっかり去って,見渡す限りの星空だ。今回の旅では,あまり町中以外で宿泊したことがなかった。船の上,トルファン駅前を除くと,星空を眺める機会にあまり恵まれなかった。そのわずかな機会の中でも,カラクリ湖は天に近いせいか,星にも手を伸ばせば届きそうな気がした。
朝焼けはなかった。山の向こうではもう完全に太陽が顔を出しているのだろう,大分薄明るい。西側の山の頂上は,もう日向になっていた。その日向がだんだん下がってくる,と思ったら湖の向こうの山の端からまぶしい光が差した。
まばゆい光,雪山,透明な湖面。しばしうっとりしている間に,すっかり太陽は昇りきった。


カラクリ湖での体験は,景色,キルギスの人々の生活を含めてこの旅で印象に残ったものの一つだ。この体験は本当に貴重だったと思う。


キルギスの人たちもよそ者の僕に自然に接してくれた

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