2004年9月7日火曜日

カシュガル探訪


 西へ。
タクラマカン砂漠の果て,中国の最西部にカシュガルという街はある。
 人が,集まってくる。
 さまざまな場所から。
ある人はここで進路を南に採りパミール高原を越え一路インドを目指す。またある人は,さらに西へ向かいローマを目指す。遙か紀元前から,カシュガルはシルクロードの交通の要衝であった。
 いまでも,それは変わらない。
 旅人たちは,あるいはチベットから,タクラマカン砂漠の南から北から,パキスタンから,中央アジアのキルギスからこの街に集まり,それぞれに散っていく。旅人,というのはもちろん商人や,出稼ぎ労働者などを含む。のみならず,今日では,西洋人,日本人,韓国人などの旅行者もここで足を休めるのだ。
 豊富な雪解け水が人を呼ぶ。そして,人が,物を呼び,物が人を呼ぶ。このゴビの上に浮かぶ島のようなオアシスに大都市が形成されたのもしかりと言うべきだろう。


 カシュガルは班超が西域都護府を置いた疏勒国があった場所に近い。
 西へ。
 彼も西を目指してこのオアシスにたどり着いたのである。僕も,この旅の西の果てはこの街にしようと決めていた。


 唐突だが,いまこの文章を書いている僕はすでに社会人になっている。社会人になってみると一日を移動に割くということがいかに贅沢かわかる。飛行機をつかえば日本からヨーロッパまで行けかねないほどの時間を使って,ゆっくりと地上をバスで行くのだ。さすがに,当時でも夜行バスや電車を移動に使うことが多かった。しかし,それに適さない場合やチケットが手に入らない場合もある。前日,クチャの鉄道駅の切符売り場で,営業時間中にもかかわらず,しかもどこ行きの切符がほしいとこっちが切り出す前に,窓口のおばちゃんに「没有」といわれるというきわめて伝統的な中国的拒絶をうけた僕は,夜行列車での旅を諦め翌朝バスでカシュガルに向かうことにした。
 アクスという街でバスを乗り換え,さらに7,8時間バスに揺られただろうか。カシュガルについた頃には,すっかりあたりは真っ暗になっていた。
 新彊は北京から大分西にあるため,最西端のカシュガルでは北京時間でいえば明るくなるのが夏でも8時くらいで暗くなるのは夜10時を過ぎる。そのため,新彊には独自の新彊時間というものもあるが,鉄道・バスなどでは北京時間が基本的には通用しているため僕も北京時間で行動していた。
 ともかくも,朝8時くらいに出発してこの時間に到着なのだから,贅沢にも時間を使ってやっと到着したのである。
 西へ,といっても地上を通っていくのは贅沢かつ退屈なのであった。




 貧乏旅行者の間で有名な色満賓館にチェックインすると,遅くなった夕食をとるためにバックパックを置いて街に出た。
 行ったことのない人には,この砂漠に浮かぶ,西の果てにある大都市の雰囲気はなかなか想像しづらいと思う。が,これは近頃の急速な経済発展とは無関係ではないのだろうが,本当に結構な大都市なのである。中心部には高層とはいえないまでもビルが建ち,中には観覧車を屋上に乗っけているようなビルまである。デパートもあり,道路は広く,当然舗装されている。但し,これはあくまでも漢人居住区の話である。新彊の各都市では漢人の居住区とウイグル人の居住区が別れている事が多い。仲間意識の所為なのか,貧富の差の所為なのか,上からの政策の所為なのか僕にはわからない。しかし,とにかくウイグル人居住区と漢人居住区を比べてみればその資力の差は一目瞭然だった。土でできた平屋建ての家,舗装されていない道,街角の何かの店にあるテレビに群がる子供たち。貧しいが,妙に懐かしい気持ちにさせる世界がそこにはあった。
 僕は,ホテルの前の大通りを南に下って歩いた。地元の人-しかもウイグル人-で賑わう大きなイスラム料理のレストランを見つけ中に入った。大通りにこのようにウイグル人だらけの店があるのは珍しいことだと思う。店員も皆ウイグル人である。男は頭にちいさな四角い帽子を被り,女はスカーフを頭にまいている。一見して,ウイグル人でない僕が一人で店には行ってきょろきょろしていると,ウイグル人の店員があいているテーブルを指して,座れ,と促した。僕は,いわれるがままそこに座り,店員が運ぼうとしているラグメン(羊肉と野菜が入った西域の焼きうどん)を指して,あれがほしい,と注文した。


 何がきっかけだったか,ウイグル語で「ヤップン(日本)」と言ったからか,今はもう忘れてしまったが,日本人が来たと知って,ウイグル人の店員がどっと集まってきた。
 新彊ウイグル自治区の小学校でも当然中国語の授業はあると思うが,やはり漢字を理解できる人は少ないらしい。いつもの筆談が思うようには通じない。しかし,一人の女性店員は漢字がわかるらしく,まもなくその人を介して会話が始まった。
 大体こういう時の会話はおきまりのものだ。何をしにここに来たのか,何日くらい旅行しているのか,学生か,中国に留学しているのか。しかし,集まったウイグル人達は女性店員が通訳するのにいちいち聞き入って,フンフン頷いていた。こういう簡単な話題がつきると,僕はこの機会にウイグル語を教えてもらおうと,「こんにちは」「さようなら」などはなんて言うのか-と聞いてみた。一人,まだ高校生くらいの少年がいて,その子は特に無邪気にはしゃいでしまいには聞きもしないことまで教えてくれた。靴とか,ズボンとかを指しながらいろいろな単語を教えてくれる。それをこっちはいちいち適当なカタカナでメモ帳に書き留めた。
 メニューももらって,よく見せてもらった。メニューには漢字と例のミミズが這ったようなアラビア文字で料理名と値段がかかれている。僕が,メニューの中の「酸牛[女乃](ヨーグルトという意味の中国語)」を指さして注文すると,少年は「これはエーターメータードー」だと言う。やけに長ったらしいな,と思ったがそのときはそのままその単語を覚えた。その後この店に来る度に「エーターメータードー」を頼んだ。大好物なのだ。ウイグルのヨーグルトは新鮮でおいしい。
 大分後になって,ウイグル語でヨーグルトは「カカッス」と言うことを知った。少年は僕をからかっていたわけだ。もちろん,悪意は感じない。
 ラグメンも3元くらいで,どうしようもなく美味しかったし,僕はすっかりこの店の人も料理も気に入った。その後,一人で食事するときはいつもこの店に行った。


件のレストランの従業員。ウイグル人も僕のギターに興味津津だった






 次の日は,レンタサイクルでカシュガル市内の観光をすることにした。この町の目玉は香妃墓とエイティガール寺院というイスラムのモスクだ。これらを見ると,もはや自分が中国にいることを忘れさせられる。
 これらは,もちろん素晴らしいことこの上ない。ただ,僕の性分としてお決まりの市内観光ではどうしても物足りないのだ。レンタサイクルがあればまさに羽が生えたも同然。ウイグル人の居住区へひとり入り込んだ。
 それで,さっき書いたような郷愁を誘うウイグル人居住区の風景に出会ったのだ。例によって,「ヤップン,ヤップン」という言葉を街角で遊ぶ子供達にかけるとわーっと子供が集まってくる。ウイグル人と漢人は仲が悪いようだが,日本人と知るとウイグル人からはすぐに笑顔がこぼれる。昨日覚えたての「ヤッシムセス(こんにちは)」の挨拶が聞いてるのかもしれない。
 子供達は,僕がカメラを取り出すとポーズを取り,しまいには僕からカメラを取り上げ勝手に写真を撮りだす。でも,しっかり者らしい男の子が,返さなきゃだめだよ,とカメラをもってはしゃぐ子をたしなめ顔でカメラを取り上げる。ポーズを取り出す子が多い一方で恥ずかしがって自分が抱えている赤ちゃん(たぶん弟だろう)の陰に隠れてしまう女の子。当たり前のことだが,ウイグル人だっていろんな子がいるのだ。


ウイグル人街に一歩足を踏み入れると、子どもたちの自然な笑顔に出会える




 カシュガル観光のもう一つの目玉として,日曜バザールというのがある。これはこれでもちろん珍しく,おもしろいのだが,僕としてはやはり何か物足りない物を感じた。それは,路地に迷い込んで子供と遊ぶとか,食堂の人々とコミニュケーションをとる楽しみを知りすぎてしまったからかもしれなかった。


 班超の時代にはまだウイグル人はこの地に進出していなかった。しかし,西の果てで異なる文化に接して驚いたのはきっと彼も僕も変わらなかっただろう。


赤ちゃんも僕のギターを抱えて大喜びだった