ウイグル人はヨーグルトが好きらしい。カシュガルの例のレストランのように普通のレストランでも売っているが、ウイグル人街に行けば大抵屋台でヨーグルトを売っている。大体、発行したヨーグルトを、削った氷と、黒蜜のような甘味を混ぜて食べる。
僕は、ウイグルに来て以来すっかりこのヨーグルトが気に入ってしまって、毎日のように食べていた。今回は、そんな街のヨーグルト屋台でのウイグル人との交流のお話―
観光に飽きていた。
シルクロードに来てから既に一ヶ月以上の時がたった。シルクロードでは遺跡を観光することも多いが、遺跡の観光には想像力を要するのだ。
玉門関の様に、子供のころから本で読んで慣れ親しんでいたところならまだしも、予備知識がまったくないと、時に遺跡は泥の塊にしか見えなくなる。それでいて、俄仕込みの知識をもとに、無理やり想像力を駆使して自分を感動させるという観光の仕方をするつもりはなかった。
ホータンは班超の時代には「于闐(ウテン)」と呼ばれていた国であった。班超が、西域経略から手を引くという方針に転換した宮廷から帰還命令を受けたとき、地元住民に人気のあった彼は国民・国王から引き止められ、西域にとどまる決意をしたという。そのような逸話は残っているものの、それ以上のことは知らない。
その班超の面影をしのぶような遺跡類も特にないようであった。
困ったことに、新疆ウイグル自治区ではATMカードが使えないようだ。トラベラーズチェックの再発行をうけず、現金と姉から送ってもらった銀行カードで引き出した金でやりくりをしてきた僕は、カシュガルでお金を引き出そうとして困ってしまった。
銀行の係りのウイグル人女性が、流暢な英語で「This card is valid
only in China.」と言ったのを鮮明に覚えている。ウイグル自治区は「China」ではないのだ。
困ってしまった僕は、カシュガルの色満賓館で出会った日本人の旅人に、余っていたドルのトラベラーズチェックを貸して貰った。彼は、「いいんですよ、困ったときはお互い様」といって、気前よく貸してくれた。
そんなわけで、僕は旅を続けられることになったが、その彼とは途中まで目的地が一緒だったので、ホータンまで同じ夜行バスで行き、おんなじ宿で泊った。
その彼が、たまたまバスで降り間違えてついたユーロンクシーの村がシルクロードらしくてとてもよい感じだったと教えてくれた。
そういえば、まだ「いかにもシルクロード」という雰囲気の景色に実は出会っていないのではないか。いや、もちろん、いろいろシルクロードらしい景色は見てきている。ただ、ロバ車の行きかう土むき出しの小道とポプラ並木、果てしなく続く水路―以外なことに、完璧にこのような条件を満たしている場所でゆっくりしたことはなかったのだ。
ともあれ、僕は、早速出かけることにした。
延々と続くポプラ並木は僕のイメージ通りだった |
ホータンでは玉が出る。玉とは、乳白色をした滑らかな光沢をもつ石で、古来から装飾品などに使われていた。ホータンのユーロンクシー河の河畔では、玉を捜そうとするウイグル人であふれる。今では、川の源流のほうまで言って、大規模にブルドーザーで掘り出すのが主流らしいが、なおこうして玉を拾う人は絶えないようである。
ユーロンクシーの村は、そんなユーロンクシー河をバスで越えていった、終点にある。
僕の求めていたものは、まさにそこにあった。
バスが止まるあたりは、舗装もされていたと思うが、わき道にそれると、舗装もされてなく、ポプラ並木が果てしなく続く。そして、その傍には、水路がまっすぐに流れている。 シルクロードの景色は、心が洗われるような気持ちになったことは多い。ここでも、何か心の中の黒い塊がじゅわっと蒸発してしまったような気持ちになった。
僕は、その小道の間をうろうろした。すれ違う人の好奇の視線を感じる。ここは、ただの村だ。訪れる観光客は特にいないのだろう。
「ヤッシムセス」
ウイグル語で、こんにちは、と声をかけてみる。
「メン、ヤップンイエ、ヤリッキ」
私は日本人だ。カシュガルの例のウイグル人レストランで身につけたウイグル語が役に立つ。
やはり、「ヤップン」の言葉は、ウイグル人の顔をほころばせる。ウイグル人は、やはり支配民族である漢族にあまり好感を抱いていない。シルクロードのまちでも、ウイグル人居住区と漢人居住区ははっきり区別されていて、概してウイグル人居住区は道路も舗装されておらず、みすぼらしい。貧富の差は、やはり多いのだろう。
日本人も、彼らにとって一見して漢人と見分けがつかない。つまり、すれ違う人の好奇の視線とは、敵意の視線、と言い換えてもいいくらいなのである。
それに引き換え、ウイグル人は日本人にはとても好意的だ。そう、方々で感じる。トルコ人は、かつてロシアに侵攻されていたころ、日露戦争に日本が勝ってくれた、ということで、親日的だという話は聞いたことがあった。あるいは、ウイグルにとっても、日本は同じような意味合いを持っているのだろうか。
すれ違った、女性に挨拶をすると、何かウイグル語でわーっとしゃべられたが、当然わからない。こうなると、頼るべきは、筆談、である。
ウイグル人とも一応筆談は可能である。漢字を書ける人がどこかにはいるのだ。
「ここに何をしにきたの?」
女性は僕に聞いた。
―無目的。無故意。
「べつに、あてなんかなく、ふらっと来てみたんだ―」
こう言いたくて書いたのだが、伝わらなかったみたいだ。
そうこうしていると、通りかかった人たちがみんな集まってきて、もうなにがなんやらわからなくなってきた。
僕は、赤ん坊を抱き上げたり、子供と戯れたり、偶然めぐり合ったこの村での時間を満喫した。
ユーロンクシーの村の子たち |
ユーロンクシーから、ホータン市街地へ向かうバスは、ホータンの大バザールの近くに着く。バザールといえば「カカッス」ヨーグルトである。
ヨーグルト好きの僕は、ホータン滞在中は何かにつけてバザールでヨーグルトを食べていた。
ガイドブックには、たとえばカシュガルでもそうだが、「日曜日は大バザール。必見。」的な文句が踊る。しかし、僕は下手に観光客でごった返す大バザールの日よりも、普段のバザールの方がある意味ではよりウイグル的ではないか、と思っている。実際に、なんとなくぶらぶらしているだけで、面白いことにぶち当たるのだ。
ユーロンクシーの村に行く前の日、僕は、筆談用のノートを探して、やはりバザールを歩いていた。とある文房具屋で、中国語なのかウイグル語なのかジェスチュアなのかわからないもので意思を伝え、何とか値切って筆談ノートを買うと、「おかしなやつが現れたぞ」とばかりに、近所の青年・少年たちが集まってきた。
僕らは、一緒にバスケをしたり、例によってギターを弾いて遊んだ。
ウイグル帽をかぶってすっかりウイグル人気分 |
青年たちの中に、水泳選手の北島康介そっくりの男がいた。なかなかの男前だ。
彼は、どこで勉強したのか、流暢な英語を操る。
うまく表現できないのだが、なんというか、日本人でも普通にいる、イケてる若いにーちゃん的な感じである。きっと日本にいたら、クラスの中心になって、すごくモテそうな洗練された空気の持ち主である。
ウイグル自治区のことを、後進地域だ、と侮る気持ちは確かに僕の中にあったのかもしれない。言い訳がましいかもしれないが、ウイグル人で著名な人を一人挙げよ、という質問を受けて答えられる日本人は皆無に等しいのではないか。僕も、ご多聞にもれず、そんな日本人の一人だ。要するに、過去から現在に至るまで、少なくとも自分が知っているような有名人が輩出されていない、という理由だけで、なんとなく後進的と感じていたわけだ。そんな、自分の浅薄さを恥じるが、それにしても、人間の価値判断は如何に不正確な基盤の上に成り立っていることか。
今回の旅行で、自分のいわゆる「ウイグルの後進性」は、歴史的な経緯とか、地理的な問題であろうと大分見方を変えることになった。いずれにせよ、ウイグル人にもこんな洗練された、日本でも普通に暮らしていけそうな今時の若者がいるんだな、ということは素直な僕の驚きだった。
例えば、こんなやり取りがあった。
僕は、カシュガルのバザールで小さな手鏡を買った。僕の宿泊するような安宿は鏡がないことも多い。さすがに、僕も自分がどんななりで街を歩いているのか気になったのだ。 その手鏡を目敏く見つけて、
「それは何だ、何のために持っているのか?」
と僕に尋ねてきた。
僕は、鏡を顔の前に差し出して、髪の毛を整えたりするしぐさをとったが、
「Ah―!」
としたり顔で彼は頷いて、
「さては、お前ナルシストだな―」
と、口には出さないが、顔としぐさで語った。
僕は、痛いところを衝かれたようで、少しドキッとした。
そんな彼と話していると、食べ物の話になって、「僕はヨーグルトが好きだ」と伝えた。すると、帰り際、彼は僕を市場のヨーグルト屋台に連れて行ってくれたのだ。
前日にそういうことがあったので、僕は、今日もヨーグルトを食べに屋台によろうと思い、またバザールの中に入っていった。
ウイグルのヨーグルトは、豪快なものである。
生のヨーグルトがお盆の中にたっぷりあって、別に氷の塊がおいてある。注文があると、お盆のヨーグルトをおわんの中に少しとって、細かく砕いた氷と混ぜ、蜜などの甘味を入れて完成だ。
化学調味料の類は一切入っていないだろうし、新鮮で、おいしい。
今日は、丁度おやつの時間なのだろうか。屋台はウイグル人でいっぱいだった。
そんなところに、僕が一人入っていくもんだから、否が応でも目立つことになる。屋台はウイグル版肝っ玉母ちゃんといった風情のおばさんと、その娘らしき少女の二人で運営しているようだ。肝っ玉母ちゃんは僕のことを覚えていたようで、満席に近かった屋台のいすに隙間を作るようにほかの客に促して、僕を座らせてくれた。
周囲の好奇の視線を浴びながら、ヨーグルトを食べた。客は僕の噂話をしているようである。肝っ玉母ちゃんも、僕のことを日本から来た変な旅行者だ―なんて説明していたのかもしれない。
一人、まだ3,4歳と思しき少女がいて―少女とわかったのは何を隠そう、彼女は下半身に何もつけていなかったからなのだが―しきりに僕にまつわりついて、足で蹴るまねをしてきたりする。おかしなやつが来た―とでも思っているのだろうか。
ヨーグルトを食べ終わると、肝っ玉母ちゃんは僕が背中に背負っているギターをさして、弾くまねをした。弾いてみろ、ということらしい。
もうなれたものである。大体、曲目なんてものは何でもいいのである。テンポのいいのを何曲か歌うと、みんな自然に乗ってくるのだ。
ヨーグルト屋台はいつも大賑わい |
あっという間に、ヨーグルトを食べに来る人ばかりでなく、往来する人も集まってきて、人だかりになった。ウイグル人は本当に親しみやすい。一曲終わると、盛大な拍手をくれる。
小さな演奏会が終わると、今度は肝っ玉母ちゃんが「カメラはないのか」というしぐさをしたので、撮影会になった。いろいろな人と写真を撮った。
肝っ玉母ちゃんは、僕に対していろいろな人を写真で撮るように指示した。道端で、しゃがんでいる乞食を撮るように言って、周りの人と一緒になって笑っていた。乞食のおじいさんは、その状況を認識していたのかどうか。一心不乱にナンをお茶に浸して食べているようにも見えた。
肝っ玉母ちゃんは、店を手伝っている娘と思しき少女にも、僕と一緒に写真をとるように促した。少女は、多分恥ずかしかったのだろう。最初は、嫌よ―というような態度をとった。しかし、最後僕が帰ろうとする段になって、にわかに僕を引っ張って写真を一緒に撮るようにせかした。実は、僕に興味があったのだろう。
例の、下半身裸の少女も、何かにつけて僕にちょっかいをかけていたが、カメラを向けるとにっこり微笑んで撮影に応じた。彼女のちょっかいも興味の裏返しだったのだろう。
このヨーグルト屋さんでは、筆談すらしなかった。ユーロンクシーの村では一応筆談をしたし、例の北島康介似の彼とは英語で意思疎通できた。
ところが、一番、ウイグル人の感覚に近づけたような気がしたのは、このヨーグルト屋の時だった。
コミュニケーションは難しい。何時間話しても、むしろ、話せば話すほど相手が何を考え、どんな感情を抱いているのかわからないこともある。下手に言葉が通じるから、ついつい自分の喋りたいことばかり喋ってしまうこともある。
そういう意味でのコミュニケーションと比較しても無意味なのかもしれないが、ホータンのヨーグルト屋さんでのコミュニケーションは、コミュニケーションのひとつの原型であることは間違いない。
―ジョン万次郎が初めてアメリカ人と通じ合ったときの感覚は、こんな感じではないか。
そういう思いが、バザールを後にする僕の頭に、ふと、浮かんだ。
肝っ玉かあちゃんは見かけどおり豪快な人だった |