2005年3月5日土曜日

ハノイ―奇妙に自然な場所

 8年ぶりに降り立ったハノイの地を目にしての感想は、「あんまり変わってないな」というものであった。8年前に空港には寄っていないが、ノイバイ空港はそれなりに老朽化した、簡易な施設に思えた。あるいは空港からハノイまでの高速道路などは新しく作られたものなのかもしれないし、工事中の橋梁などはかなりの規模のようには見えたが、全体的な印象は変わらない。
 理由の一つは、どうしても中国との比較で見てしまう点だろう。8年前にはじめて上海に足を踏み入れて以来、毎年上海には行っているし、別の地域もそこそこ見ている。8年前の上海の地下鉄は4号線くらいまでだったかと思うが、今や10号線を越えていて、わけがわからない。路上にあふれていた自転車も、今やスポーツサイクルで走る人を見るほどで、当時とは隔世の感がある。8年前は路上を走る自動車は、タクシーかトラックかバスがほとんどだったのが、今や自家用車が大半である。
 それと比べてみると、ハノイにはあいかわらず摩天楼はないし、バイクが溢れ、多少自家用車が増えたかという印象があるだけだった。
 別に、マスメディアが喧伝するほどベトナムは発展していないんだとか、なんらかの見解につながるようなことを述べたいのではない。ただ、見て感じたままを漠然と感想として述べたまでである。
 空港からホテルまでバスに乗り、ハノイ市内に入ると、ふと見覚えのある堤防というか、城壁用の壁というかが目に入ってきた。8年前、自転車で快走した思い出が鮮やかに蘇って、思わず「8年前ここを自転車で走ったんです!」と同乗する日本語を解するガイドに話しかけた。ガイドの反応は「ハノイは自転車よりもバイクの方が多いよ」といったかみあわないものであったが。


ハノイの旧市街。この雑多な感じがたまらない。

 それで話は8年前に戻る。
 バクハ、サパを回った私は、ラオカイから夜行列車でハノイを目指すこととした。バスもあるが、昼間移動するには時間がかかりすぎるし、また私は基本的に夜行列車が好きなのだ。ラオカイの駅前で電車を待っていると、イギリスだったかスペインだったか2人いて両方だったかもう忘れたが、近くに座った欧米人とビールで乾杯し、薄暮れのテラス席で、持っていたギターで知りうる限りの英語の歌を歌ったのがよい思い出だ。一緒に最初「これを歌えるか」とドナドナのメロディーを口ずさみだしたときは多少面食らったが、ベトナムと中国の国境まちでなぜかドナドナを盛大に合唱してきた。

 ラオカイからハノイに行く夜行列車の時間設定は奇妙で、夜の8時くらいにラオカイをでて朝の4時くらいにハノイに到着する。2等寝台では何人かのベトナム人と同室になったが、外国人である私を珍しがるでもなく、ごく自然に同部屋の乗客として迎えてくれた。逆にいえば、中国でよくあったように、好奇の目で見つめてあれやこれやと質問を浴びせてくるということも一切なかった。

 そうして、電車はまだ日の出前のハノイ駅に到着した。さっさとバイタクで移動して宿探しをしようかとも思ったのだが、例の「バイタクはボッタクリが横行している」とか「人気のいない場所に連れて行かれて脅された」というようなガイドブックの注意書きがさすがに怖かったので、駅のベンチで明るくなるまで時間を潰すことにした。
 日が登りかけて、大分明るくなったころ、僕はバックパックとギターを背負って、安宿街のある旧市街へと歩きだした。
 ハノイのバイタクは、というかハノイのあらゆる物売りの人は、すごい。
 何がすごいかというと、十中八九、満面の笑みでこちらを見て「ヘイ」とかいいながら声をかけてくるのである。そのあまりの笑顔に、つい足を止めてしまうのだが、単なる客引きと分かってまた歩き始める。これはなれるまでに大分時間がかかった。「営業はまず笑顔」と言われることがあるみたいだが、ハノイでその意味をはじめて理解した気がする。

 「ハノイは変わらない」という話の続きをするのであれば、8年後のハノイのバイタクおじさんたちも、相変わらず満面の笑みで声をかけてくれた。屋台のおばちゃんだって同じである。すこし店先で物欲しそうに見ていると、すぐに満面の笑みで食べるように促す。もっとすごいのは、地元民が集まる市場に入り込んでウロウロしているときですら、物珍しそうに店を見て回る一見してストレンジャーな私に対しても、店のおばちゃんたちはやはり満面の笑みで手招きすることである。

 安宿街はすぐに見つかり、僕は2ドルだかの安宿にチェックインした。早速レンタサイクルを借りて、街に繰り出すことにした。



川沿いを北上する。

 別に目的があったわけではない。なんとなく地図を見て、旧市街を抜けて、湖をみつつ川沿いに北上して、上述の堤防道をとおり、大きな橋を渡った。特に橋をわたってからはのどかな風景だった。川沿いの道をゆっくり下っていったが、日本の農村を思わせるようなのどかな風景が続いた。

 不意に重さを感じた。なんとベトナム人男性が自転車の荷台に座り、二人乗りをしだした。何を言っているかはわからないが、私の進路方向に進むのでちょっと乗っけてくれと言っているみたいだった。
 3分も立たないうちに2人の道中は終わり、彼は自転車を降りていった。何か盗まれるのではとすこし警戒心を持っていたが、もちろん、なにも奪われることはなかった。


木の皮?を干している。こういうのどかな風景を眺めているところに突然二人乗りされた。


 ハノイは本当に自然なまちだった。韓国、中国ではまるで透明人間のように外国人として扱われない。ベトナムに入ればそうでもないかと思っていたが、そうでもないようで、そうでもあるような、不思議なところだった。彼らにしてみれば、いつもどおり笑顔で営業して、笑顔で外国人料金を請求し、笑顔で僕の自転車に飛び乗る。警戒心の高い僕を、ハノイは自然に受入れてくれた。そして、それは8年後も全く変わらなかったのである。

昔ながらの機関車が走っていた。


2005年3月1日火曜日

バクハの花モン族とサパの黒モン族-文明と文化-ベトナム・中国国境地帯


 今、ベトナムへと向かう機内でこのベトナム旅行記を作成している。
 と、いうと何やら奇妙に思われるかもしれないが、8年ぶりにベトナムを訪問するに際して、8年間サボタージュして、手をつけるきっかけを失いかけていた旅行記を認めているというわけだ。もちろん薄くなっていった記憶をもとに書くわけだが、何かしらの臨場感は得られるかもしれない。
 少数民族の暮らしを見てみたいと思っている。これはこの長いアジア縦断の旅の後でも変わらないが、一応このアジア横断の旅のテーマは、「韓国、中国、ベトナムという黄河文明・漢字文化圏と、カンボジア・タイというインダス文明圏を渡り歩いて、各文明内と文明間の共通点・相違点を感じる」ということであった。
 各地の少数民族は、そうすると興味深い存在ということになる。黄河文明やインダス文明の影響を受けながら、独特の文化を維持してきた存在なのである。ただ実際は、近代以降の西洋文明の浸透が急激すぎるので、古い文明の影響はわずかにしか感じられなかった。その意味で、「文明化と観光化の功罪」のくだりとやや重複するきらいはあるが、思い出すままに書き連ねてみたい。



 実は、ベトナムに入国するのはかなり怖かった。およそ無茶な旅行をしているのにまたおかしなことを、と思われるかもしれないが、実際そうだったし、旅行の情報、特に安全やお金に関することにかんしてはかなり綿密に調べる性格なのである。そして、ガイドブックの情報によれば、“ベトナムでは金持ちの外国人からは多くお金をとることは当然とされている”とか、“バイクタクシーに乗ったら人気のいない場所に連れていかれてお金を巻き上げられた”とか、ネガティブな情報が溢れていたのである。

 昆明発の夜行バスは早朝に国境のまち、河口に到着した。バスで一緒になったアイルランド人バックパッカーたちと早速国境に向かう。陸の国境越えは、香港と中国本土のそれをカウントしないとすれば、私にとってはじめてだった。国境となるホン河の向こうには、漢字ではなく見慣れないアルファベットの看板をつけた建物が並んでおり、イミグレーションの建物は重厚で、国境にかかる橋も少なくとも私たちが通過する際は一台の車も通過しなかったのにもかかわらず、広く、しっかりした作りのものであった。国の威信をかけて建設したことの現れなのだと思う。

 国境を抜けると、早速、バスターミナルまでの移動のためのバイクタクシーとの交渉が待ち構えていた。が、多少の値下げ交渉を経ると、ガイドブックのいう適正相場まであっさりとディスカウントがあり、無事にバスターミナルまで到着した。
 ベトナム側の国境のまちは、ラオカイ(老街)という。ラオカイからまず私が目指したのは、バクハという高原にある少数民族のまちだった。毎週日曜日のマーケットには、色鮮やかな民族衣装を身にまとった花モン族の女性が集まるという。生のままの少数民族の姿を是非見たいと思ったのだ。

 ラオカイは河が流れるため、山間の渓谷にできたまちのようになっているが、バクハはその片方の山側にある高原の山あいにある。
 ラオカイから現地民を満載するミニバスに乗って、山あいの道をノロノロと越えてバクハについてみると、数件のホテルとレストラン、あとは学校と民家があるという、とても小じんまりした印象のむらであった。サパにはおしゃれなフランス料理店のようなお店もいくつかあるが、もちろんバクハにそのような店はない。なお、「少数民族のまち」と書いているが、基本的にまちなかに少数民族が暮らしているわけではない。近郊に少数民族の集落が点在しており、その集落の中心的なむらであるということだ。
 適当に部屋を見せてもらって、値段を聞いて(確か一泊2ドルくらいだったと思うが)、泊まることに決めたホテルのおばさんは、私のベトナムに関するイメージとは相違して、親切だった。ニコニコしながら、レストランはどこどこだ、明日は日曜日で市場が開かれる、などといろいろ世話を焼いてくれた。不安を抱えたままのベトナム初日は、こうして平穏に過ぎていった。


バクハあたりの高原地帯ではハッとするような棚田風景が続く


 翌日、起きると、目的であるマーケットを見に行った。圧倒された。
 いわゆる少数民族っぽい少数民族というのは、実ははじめてみたのかもしれない。昆明のあたりでは刺繍の行商に来ている少数民族(確か彝族)をよく見かけたし、麗江ではナシ族にたくさん出会った。行商の人たちは観光用ではないだろうが、ナシ族はまちなかでは民族衣装を着ているひとは少なかったし、まちなかで着ている場合は観光用であった。虎跳峡で出会ったナシ族のおばあちゃんは、人民服のような衣装だったと思うが、民族衣装には見えなかったし、少なくとも華やかさはなかった。
 ところが、バクハには見渡す限りというか、色鮮やかな民族衣装を来た女性であふれていた。まだ2、3歳の子どもですらそうだ。子どもまで民族衣装を着ているのは珍しいことだと思う。衣装は人によって違いがあるが、黒や青をベースにした服に、色とりどりの刺繍が施された上着とスカートを身にまとっているという感じである。これは写真を見て頂いたほうが早いであろう。
 文明、すなわち、それなりに通用力をもった普遍的なものというのは私がこれまで旅してきた、新疆ウイグルのオアシス、貴州や雲南の少数民族のむらでも豊富にみられた。それは例えば、ジーンズであったり、携帯電話であったり、ビールであったりした。ただ、このバクハでは、少なくとも女性については頑ななようにそういう文明的な衣装というのを拒否しているように見えた。

 マーケットが終わると、花モン族たちはそれぞれのむらに帰っていく。私は地図も、予定もないまま、ある一団のあとをついていくことにした。
 バクハの中心街をすぐに抜けて、目のさめるような棚田の風景を眼下にみつつ歩き続けていくと、追いついたのか、彼らが休憩していたのか、老人と若い男性の二人と一緒になり、なにやら話すこととなった。
 話すーといってもお互い一切共通言語を解さないので、身振り手振りとか、雰囲気なのだが、
「私はベトナム人だけど、花モン族だ」
とでも言ったのだろう。身分証明書を取り出して、名前や民族が記載されている部分を示してくれた。
 歩きながら、僕のカメラを興味深そうに眺めて、写真をとってくれ、とか、あれを写真にとれとかいうので、言われるがままに僕はこれらをカメラにおさめた。その中には、鼻をたらしながら、樹の枝を持って遊んでいる3、4歳くらいの少女がいたが、今写真を見なおしてみると幼いような、妙に大人びたようなオーラをもっている不思議な写真である。この長い旅の中でも、お気に入りの一枚だ。


花モン族の少女。なにか不思議なオーラをもっている。



「少数民族の暮らしは大変なんだ」
 とか、かれは続けたのだと思う。座って話し込んだ際に僕が取り出したボールペンを指さして、「これをくれないか」というようなことを言った。僕は迷ったが「安易にものをあげてはいけない、あげてしまうと、彼らはそれで生計が立てられると思うようになってしまう」というガイドブックの記載に忠実に、あげないことにした。彼は別に不満そうにするわけでもなく、笑顔で次の話に移った。
 そうしているうちにも、バクハから戻ってきたと思しき花モン族の女性たちが通りかかった。まだ僕と同じくらいの年齢の女性が小さな子どもを背負って帰り道を急いでいた。写真撮影をすると、照れくさそうに笑いながら応じてくれた。
「私のむらまで一緒に来たらいいよ」
 私、彼を順に指さして、さらに道の先の方向を彼は指さした。正直かなり行ってみたかったのだが、地図を持っていないのと、帰るまでの時間が読めないので、大事をとって断念した。この点は下調べをもっとマメにしておけばと後々まで後悔しつつ、バクハに戻った。


花モン族の皆は、基本的にノリの良い人たちだった。


 ラオカイを起点にして、バクハの、反対側の山にはサパという避暑地として有名な観光地がある。サパ近郊には多数の少数民族が暮らしているが、黒モン族という民族がおそらく数としては最多数であると思う。有名な避暑地だけあって、まちの中にはフレンチのおしゃれなレストランがあったり、大きなホテルがある。私が行ったのは真冬のシーズンオフだったので、どのホテルも閑古鳥が鳴いており、立派なホテルの部屋もわずか一泊2ドルで使うことができた。

 黒モン族の少女たちも、やはり民族衣装を着ているが、文字通り黒っぽい衣装で、花モン族ほどの華やかさはない。ただ、サパの黒モン族はいろんな意味ですごかった。英語はもちろん、片言の日本語まで駆使して、まだ中学生くらいの女の子たちが土産物を販売してくる。小さなまちのメインストリートあたりを歩けばすぐに彼女たちにつかまってしまう。オフシーズンであるからかもしれないが、彼女たちは結構ひまを持て余していて、おそらく観光客向けと思われるインターネットカフェでパソコンゲームやインターネットに興じたりもしている。近郊の電気もとおってないようなむらから出てきて、黒モン族の名に象徴される黒い民族衣装をまとつつ、いわば文明の先端の象徴であるインターネットカフェに彼女らがたむろする姿は大いに違和感を感じさせるものであった。文明と未開の極端な交差がサパでは起こっていたのである。
 結局話しをうまくまとめあげることはできない。が、それが生計に関わることであるから、黒モン族の少女たちは英語も日本語もすぐに習得するのであろう。そしてあまりに身近に文明が存在するから、ごく自然な形で彼女らはそれに触れるのであろう。
 バクハの花モン族の女性に私は文明に侵食されない頑固な文化を見たような気がする。しかし、男性はすでに民族衣装を放棄していることに表されるとおり、それも時間の問題であるかもしれなかった。あれから8年経った今では、あるいは花モン族のみなも、英語や日本語を駆使して土産物を売っているのかもしれないし、やはりかわらないのかもしれない。

2005年2月21日月曜日

麗江―やさしいナシ族


 麗江に来た。
麗江は,中国雲南省の四川省よりの地域にある,小さな古都だ。
かつての面影を残す町並みは,麗江古城といって,世界遺産に登録されている。
小さな,きれいな町だ。
 もともと,ナシ族という少数民族が住んでいた地域で,ナシ族の里といわれている。雲南省は少数民族の宝庫だが,この地域ではナシ族が多いのだ。
 最近は,テレビの影響で有名になったが,現存する唯一の象形文字,トンパ文字を使うのはこの民族である。もっとも,最近ではトンパ文字を読み書きできる人は少なくなり,もっぱらTシャツの図柄など,お土産用として使われるくらいである。
 貴陽を朝出発して,一路雲南省を目指した僕が,雲南省の省都である昆明にようやく到着したのはもう夜も10時を回ったころだった。
 予定をどうするかはあまりはっきり決めていなかった。
昆明を2,3日かけて観光するつもりではあったものの,大理や麗江という他の町にも興味があった。そして,その後目指すベトナムへの興味もますます深まってきていた。
 昆明に一泊する手もあったが,僕は強行軍でそのまま夜行バスを使い一気に麗江に向うことにした。昆明は大きすぎる街で,何にも予定を決めずにふらふらするにはあまり向いていない。それなら,麗江に明日の朝つくようにして明日はゆっくり街を見て回ればいいのだ。
 
 こうしてにわかに麗江行きを決心した僕は,バスターミナル内で麗江行きの夜行バスを探した。大理行き(正確には,近くの下関行き)のバスは多いが麗江行きのバスは見当たらない。客引きの若い男に,「麗江行きはないのか」とたずねると,麗江行きらしいバスまで連れてってくれ,チケットを買わされた。
「正規運賃よりも安い,140元だ」
言われてガイドブックを見てみると,確かにガイドブックに書いてある正規運賃より安い。言い忘れたが,雲南省では正規で走っているバス以外に,私的に運行されるバスが多いようである。夜になると,バスターミナル付近に客引きがあふれる。バスターミナルを一応使っているのだから,正規のバス会社じゃないのかといわれると,僕は詳しくないので分からないが,とりあえず時刻表などなく運行されているようなので,僕は私的に運行されるバスだ,と思った。
 余談になるが,その後僕が昆明からベトナムとの国境の町,河口に向うときにまたこのバスターミナルに来た。その時は僕の言う意味で正規のバス,つまり,チケット売り場でチケットを買い,時刻表どおりに出発するバスを利用した。
 昆明から河口へのルートは,中国からベトナムへと抜ける旅行者の著名なルートになっており,その日も僕以外にアイルランド人のバックパッカーが4,5人乗り合わせた。そのとき,われわれが大きな荷物をバスのしたの荷物入れに預けようとすると,一人の少年がつかつかとやってきて,
「荷物を預けるには一人50元いる!」
と結構流暢な英語でアイルランド人の一人に話しかけた。僕はもちろん,旅行者相手のたちの悪いたかりだと思って,中国語で受け答えしてあまり口を開かなかった。彼は,疑うアイルランド人に対し,
「Fack off!」
と口汚い英語をはいて執拗に食い下がっていたが,一人50元をだんだんと40元,30元,20元,,,ついには10元とまけていった。
 アイルランド人は10元になったところで,それくらいは仕方ないか,という感じで結局支払ってしまった。
 僕は,同じように大きなバックパックを背負っていたが,中国人のふりをしたため,彼のたかりを逃れることができた。
 何が言いたいのか,というと,中国も雲南省くらいに来るとまだまだ公安の統制がゆるいのかな,ということである。こういうせこいたかり行為は今まで別の省では見たことがなかったし,多分おおっぴらにやれば誰かに密告されるなど取締りの対象にはなるのではないか。
 私的なバス会社が多いというのも,その所為なのかもしれない。
 もちろん,以上はまったく僕の想像に過ぎないが。

 話がそれたが,僕はチケットを買って,麗江行きのバスに乗り込んだのだが,実はそれは大理(下関)までしか行かなかったのだ。どうも,もともと大理に行くバスで,僕が乗るときだけ,バスのフロントガラスに掲げるプレートを「麗江」行きに変えたらしい。チケットにも「麗江」と書いてあるが,もちろん,それを大理のバス職員に見せても麗江行きのチケットには変えてくれなかった。
 要するに,まんまとだまされたのであった。
 仕方なく,僕は麗江行きのチケットを買いなおして麗江に向った。バスは,雲南の盆地を疾走した。はっきりと覚えていないが,何度か峠を抜けたりしたろうか。移り行く景色に見とれているうちに,バスは麗江についた。
 麗江の宿は,「古城香格韻客棧」に決めていた。前に敦煌の飛天賓館で出会った日本人旅行者が,麗江を非常に気に入ったらしく,この宿に泊まるといい,と薦めてくれたのがそこだった。
 麗江の古城にはいる。麗江の古い町並みが残る地区は古城と呼ばれている。赤い観音開きの扉が入り口で,白い壁と灰色の瓦葺の家。石畳の道。世界遺産なりの趣はある。ただ,惜しいのは観光化されすぎていることだろう。古城の中には,お土産屋があまりに多い。観光客もあふれている。
 あこがれていた麗江だが,すこし僕は落胆した。勝手なもので,いい観光地ほど観光客が少なくあってほしいのだ。
 目指す宿は,古城の東のはずれにあった。
「ドミトリーはありますか?」
以前に比べて大分上達した中国語で尋ねると,
「有,有(ある,ある)」という答えがすぐに宿の主らしきおばさんから返ってきた。一泊いくら?15元。というやり取りの後,従業員らしきお姉さんに僕を部屋に案内させると,そのおばちゃんは,
「荷物を置いたら,下に来てお茶を飲め」
といった。中国の宿で,そこまで熱心な歓迎を受けたのは初めてだったから,僕は大分面食らった。
 宿のおばちゃんは,ナシ族らしい。これが,僕のナシ族との最初の出会いだった。
ちょっと,おばちゃんの迫力に圧倒され気味な旦那さんも,従業員のお姉ちゃんも若い兄ちゃんも,何の意味もなくふらっと宿の中に入っきて話をして帰っていく近所の売店のおっちゃんも,みんなナシ族だった。
 いちいち書くのが面倒なくらい,ナシ族の人々は親切だった。本当にお金をもうけるつもりがあるんだろうか,と疑いたくなる。宿には,中庭があり,いすがたくさん置いてある。いすに座ってくつろいでいると,お茶を飲め,とお茶を入れてくれるし,いろんなお菓子を食べろといって持ってきてくれる。こんな宿だから,いろんな人をひきつけてやまないらしく,長く滞在する人も多いようだった。
 宿には,中国人はもちろん,日本人や,ロシア人や,韓国人や,スイス人,フランス人など,きわめて多国籍な顔ぶれが集っていた。おばちゃんが,「ギターを弾け」というので,僕も多国籍に曲を披露した。中国語曲は既に何曲か歌えたし,ロシアは学校で習ったロシア民謡(一週間とか,カチューシャ),韓国人には韓国語曲はさすがに知らないので,韓国でもカヴァーされた日本曲,後は,全世界共通のビートルズ。
 音楽はいいものだ。おかげで,あっという間に各国の皆と仲良くなれた。宿は,まるで家のように居心地がよかった。一週間くらい滞在しても気にならないくらいだ。
 なんにせよ,こんなに居心地がいいのも,おばちゃんをはじめとして,宿の人の人柄のおかげだろう。

麗江はすっかり観光地化されているが、街並みは美しい


 長江の上流が麗江の近くを流れている。
長江も,ここまで来ると大分川幅が狭くなっている。諸葛孔明が異民族の征伐に来たときもこの付近を渡ったという。中でも,トラでも飛んでわたれそうなほど狭く深い渓谷になっている部分があり,虎跳峡という。ここは,トレッキングのスポットになっていて,非常に面白いという話なので,僕も出かけることにした。虎跳峡のトレッキングは結構距離があるので,一泊はしないと全行程を徒歩で行くことはできない。僕は,一泊分の荷物をもって,虎跳峡へと出発した。

 虎跳峡の景色は,やはり言葉で表現することが難しい。日本の渓谷のように,うっそうと茂る森はない。とはいえ,シルクロードのようにらくだ草しか生えていないというわけでもない。草はむしろ一面に生えている感じである。
 僕は,車で回る,と言っていた同宿の韓国人に便乗して,虎跳峡の入り口,橋頭についた。ただ,運転手さんにはそのことがうまく伝わっていなかったらしく,登山口のようなところを通り過ぎてしまった。
「僕は,歩いて虎跳峡を見るつもりだったんだ―」
そう伝えると,僕は路上で下ろされた。車道は,長江沿いにあり,トレッキングルートは車道を上に上ったところに有る。運転手さんが地元の人に聞いてくれたが,要するに上へ上へと道なき道を行けば,トレッキングルートにぶつかるらしい。いまさら入り口にもどのるのは面倒だから,ここから上に上っていけ,とのことだった。

 若干不安だったが,例によって親切なナシ族の地元民が,この道を登って,右に行って左に行って,,,,と行けば必ずつくから,というので,僕もようやく安心して,草だけが生えたがけのような道を上へと向かうことにした。
 案の定,すぐに迷った。
右に行け,左に行け,と言ったって,何しろもともと道なき道のようなものなのである。どこで曲がったらいいのかとても分かったものではない。
 民家があり,一人の少女が遊んでいた。風貌からして,ナシ族だろう。彼女は僕を見咎め,何をしているの,と聞いてきた。つたない中国語と,身振り手振りで,「上に行って,トレッキングするんだ」というと,彼女はついて来い,といって僕を道案内してくれた。ナシ族は子供まで親切なのだ。
 それで,大分上まで行き,後はまっすぐ行くだけ,となったところで,彼女は突如
「銭(チエン)」
お金をちょうだい,と言い出した。
 これには,面食らった。気のいいはずのナシ族の少女がそんなことを言い出すとは,しかも,まだいたいけない少女なのである。そんな生々しい要求があるなど,思っても見なかった。
 しかし―。
 僕は,すぐに思いなおした。少女の住む家にせよ,決して裕福には見えない。また,少女もあまりきれいな格好をしているとはお世辞にもいえないようなものだった。
―金,生活するための金ってのは,普遍原理なのだ―
中国に初めてやってきたとき,思い知らされたが,半分忘れかけていたようなことが,また頭をよぎった。誰が少女を責めることができる。
 ただ,これも既に学んだことだが,適正相場は守らなければならない。安易に金が入ることを覚えることは却って少女に悪影響を及ぼしかねない。情にほだされたり,あるいはお金に群がる人々をみて優越感を感じてついつい与えすぎてしまう旅行者も多いようであるが,安易にお金や物をあげることの危険性は十分認識すべきであろう。
 僕は,そういうジレンマの中で若干苦しんだが,結局一元札を取り出し,彼女にあげた。それがよかったのかどうかは,自信がない。
 いずれにせよ,ナシ族の善良さを無条件に信じてしまっていた僕にとって,ショックではあった。真っ白な人間の頭は無防備だ。宿のナシ族のあまりの善良さに,僕の真っ白な頭は占領されていたのだ。人間の事実に対する認識や,価値判断は,こうも影響されやすいものなのである。

 ともあれ,僕はトレッキングルートを見つけると,それに沿って歩き始めた。虎跳峡を一泊で歩きぬけようとするのは強行軍なのだ。一日目で半分以上行って置かないと,虎跳峡の出口の町,大具から麗江へのバスに乗り遅れかねないのだ。そうすると,もう一泊を余儀なくされる。
 道中では,スイス人とよく出会った。山の多いスイス人だから,トレッキングが好きなのだろうか。アルプスの風景に親しんでいるはずのスイス人も,虎跳峡の風景は素晴らしい,と手放しでほめていたから,僕もやはりここの景色は本物なのだな,と思った。
 そういうスイス人や,日本で2年くらい仕事をしていたというニュージーランド人に出会いながら,僕はどんどん先を目指した。彼らは2泊で行くらしいので途中の宿に泊まっていったが,僕は先を急いだ。
 今度は,中国人の団体に出会った。この団体の人々は,山道のトレッキングロードが途切れて,車道と合流するところにある宿に宿泊するらしい。さすがにかなり疲労がたまっていた僕は,もう少し先を急ごうかな,とも思ったが彼らの泊まる宿に宿泊することにした。一人でいるのが少し寂しかったこともある。

 その日の夕食は,その中国人の人たちと一緒に食べた。どうやら,みなもともと住んでいる場所は違うらしく,麗江で団体を組んで虎跳峡にやってきたらしい。ハルピン出身の女性や北京出身の女性もおり,上海から来たカップルもいれば,広東省から来ている人たちもいた。
 実は,電気の通っていない場所らしい。あるいは,たまたま停電していただけなのかもしれないが。
 いずれにせよ,夕飯を食べている途中で日は沈み,ろうそくの明かりの下で,ビールを開け,飲んだ。やはり,ご飯は大人数で食べるのがおいしい。

 無用心な話だが,ビールに酔って記憶をなくしてしまったらしい。それまで,大学生のとき部活の先輩に散々日本酒を飲まされ記憶を失ったことが一度だけあったが,度の薄い中国ビールでまさか記憶をなくすとは思ってみなかった。一日中歩き通しで疲労がたまっていたせいももちろんあるのだろう。
 とにかく,気がついたら部屋のベッドで横になっていた。何も盗まれているものがないことに安心したが,たぶん明かり代わりに使ったのだろう,デジカメの電池が完全になくなっていた。もともと電気が通っていない場所なので充電の余地はない。麗江に戻るまでもう写真は撮れないが,それはあきらめるほかない。
 次の朝,中国人の団体の中のおっちゃんにあうと,
「お前,昨日のこと覚えているか,酔って大変だったんだぞ―」
と言って,笑った。



虎跳峡の風景。どこか懐かしく、美しい。



 既に書いたが,虎跳峡は二日で走破するつもりだった。
結構なハードスケジュールである。

 前日に,少し妥協して泊まってしまったので,僕は次の朝早く宿を出発する必要があった。虎跳峡のもうひとつの端,大具から麗江へのバスは昼に出て,それ以降はないのだ。だから,昼過ぎまでには大具に着かなければならない。
 僕は,挨拶もそこそこに,宿を辞して,再び一人歩き始めた。

 宿からの道は,舗装されていて,歩きやすい。初日に歩いた山道とは違うのだ。完全に車道を歩くのである。右手には,長江が流れているが,あまりにも谷が深いので川の流れは見通しのいいところにいかないと見えない。初日の山道を歩いたときほどではないが,景色は僕を飽きさせることはない。
 一時間と少し歩いたところだろうか,それまで切り立った崖にへばりつくような道路を歩いていたのが,すこし開けたかんじのところまで出てきた。ぽつぽつと人家があった。
 僕が人家の前を通り過ぎたとき,その人家の中から一人の老婆が現れた。ナシ族の民族衣装をまとっている。
「どこに行くのか,大具か?」
とつぜん中国語と身振りをまじえて尋ねられた。一見して旅行者風の僕であるから,多くのトレッキング客と同じように大具の街まで行くと思ったのだろう。
「そうです」
と,僕がつたない中国語で答えると,
「私もそっちの方向にいく。ついてきたらいい」
こう,また身振りをまじえて言った。

「どこから来たのか」
「日本です」
こう答えると,老婆は大きくうなずいた。僕の中国語がつたない理由が分かったのだろう。
「私はナシ族だ。私も北京語はあんまり分からない」
なにか,そういう意味で僕に親近感を持ってくれたのかもしれない。
 考えてみると,中華の衛星群としては僕もそのおばあさんも一緒なのだった。ナシ族が中国政府の支配下に置かれたのは,長い歴史からみたら最近のことにすぎない。われわれはともに,漢民族の文化に照らされ,影響をうけ生きてきた。
「日常ではナシ族の言葉しかつかわないんだ,だから」
というようなことをおばあさんはぼそっと言った。言外には,僕の勘違いなのかもしれないが,北京語を押し付けられることへの不満が滲み出しているように感じた。

 さすがに地元のひとで,近道を教えてくれた。道路沿いの崖を越えていくのだ。それにしても,おばあちゃんはもう70歳にはなっている感じだが,健脚このうえない。としよりだからすぐ疲れる―と僕に漏らしながらも,軽々と崖を上っていった。この間,あまり会話がなかったのは,僕の語学力が不足していることもあるが,息が切れてそれどころではなかったこともある。
 崖を越えて,小さな川を超え,民家の間をぬけと10分ほど歩いただろうか。突然視界が大きく開けた。
―まるで,桃源郷のようだ。
 大げさかもしれない。しかし,そう思ったのだ。
天気も寒くない。むしろ春の陽気だ。一面に広がっていたのは,菜の花畑。黄色い花を一面につけ,緑と黄色のコントラストがなんともいえない風景を作り出していた。農作業をする老婆,買い物に行くのだろうか,牛を連れて歩く老婆が行きかい,ナシ語でおばあさんと挨拶を交わしていた。菜の花畑では蝶々が舞う。
 それは,まるでここだけ時間が止まっているのではないか,と思わせるほど穏やかな,なにか懐かしい風景だった。

「心洗われるような風景」
まさにこの言葉にふさわしかった。
長い旅行をして,いろいろな場所に行っているが,こう呼べる風景にはそうめったに遭遇しない。単に珍しい,素晴らしい風景とは違うのだ。
 シルクロードの青い空と砂漠のように,うまくいえないが,自分の心の中の汚い物が一気に蒸発していくような,穏やかな心地になる風景。こういう風景はむしろ,昔ながらの人がそのまま暮らす風景なのだった。

 桃源郷を歩いている時間は,そう長くなかったかもしれない。一見昔ながらの生活をしているように見えるが,それはあくまでも僕の目からである。電柱があり,電気は通っているし,道路もアスファルトで舗装されている。
 おばあさんは,そんな道路が通る,この小さな集落の中心地らしきところまでくると,肥料を買うために店に入った。

 大具にいくには長江を渡らなければならない。橋はない。
虎なら跳んでわたれるのかもしれないが,われわれ人間がわたるためには渡し舟が必須だ。その渡し舟の乗り場までは,この集落からもう少し歩かねばならないようだった。
 おばあさんは,肥料をかかえ,歩き出した。

「私の家族は5人で,子供は3人いる。でもみんな街に出てしまっている」
こういうような話をおばあさんは歩きながらしてくれた。
「おまえは,何であまりしゃべらない」
ずっと,おばあさんの言うことを聞いてうなずいている僕をみて,おばあさんはこういった。
「いや,中国語がよくわからないから」
もちろん,うそをついたわけではなかったが,むしろ老婆と話すべき適当な話題が思い浮かばなかったのだ。あたりさわりのない話をするほどの語学力がないという意味では間違いないのだが。
「旦那さんはどうしているの―」
そういう話題は,振りづらかったのだ。
 それで,僕はとりあえず,おばあさんの振ってくる話題に分かる限り答えることに専念した。重そうに抱える肥料もかわりに持ってあげた。

 おばあさんの家に着いたようだ。どうも,少し寄っていけ,ということらしいので,基本的に好奇心旺盛な僕は甘えることにした。
 家の中に入って,僕は,桃源郷のような世界,と安易に思う自分を恥じた。
 家の中は,貧しさをあらわしていた。
 決して散らかっているわけではない。しかし,電気はなく,だだっ広い土間に大きなテーブルがひとつあり,後は台所があるだけの平家だった。汚いからというわけではないと思うが,部屋のなかではハエがうようよしていた。暗く,じめじめした感じの部屋だった。
 当然,桃源郷のような,というのはそこに住む人の現実の生活を捨象した見方に過ぎない。それを,まざまざと見せ付けられた感があった。
 それでもおばあさんは,僕にお茶を勧めてくれたし,お茶請けまで出してくれた。
「睡眠薬が入っているかもしれない」
無用心かもしれないが,そう疑うことはやめてしまった。安全対策にはかなり慎重な方だが,虎跳峡でそのような手口による強盗があったという話はまったく聞かなかったし,なにより,一緒に小一時間ほど歩いて,しゃべってきた感じで,さすがにそれはありえないと思ったからだ。だいたい,だます気なら,もう少しきれいなうちに案内するものだし,おばあさん自身僕のバスの時間を気にして,間に合うなら―という趣旨で誘ってくれたのである。

 人間,騙されるときは,どれだけ疑っていても騙されるものである。まさか,ここまで親切にしてくれて騙すわけがあるまい,そういう記述を海外旅行の安全対策の本で読んだことがあった。
 しかし,もちろん,僕が睡眠薬で眠ることはなかった。

 おいしいお茶と,お茶請けをいただいて薄明かりの差し込む家で少しゆっくりさせてもらっただけだ。
 家の中では,あまりおばあさんと話をしなかった。話題がなかったのもあるし,語学力の問題もあろう。しかし,居心地の悪さはまったく感じなかった。
「そろそろ,バスの時間があるから―」
そういって僕が立ち上がると,おばあさんは家の外まで出てきて,見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。
 やむをえないとはいえ,おばあさんの好意を疑った自分を僕はひどく恥じた。



真ん中左の緑の服がやどのおばちゃん。その右は近所に住んでいてよく油を売りにくるおっちゃん。その後ろが旦那さん。なんとなく尻にしかれてそうだった。



 麗江は居心地のいい街だ。
 同室の人に,貴陽から来た大学生がいたが,その人は一日中中庭で本を読んでいた。僕ももっとゆっくりしたかったが,虎跳峡から戻った次の日の夜行バスで昆明に戻ることにした。今にして思うと,地元民と一緒にバスに乗ってもっと小さな村に行ってみてもよかったのかもしれない。

 宿の代金は,最終日に清算することになっていた。いままで中国の宿では必ず取られていた押金(デポジット)のシステムはなかった。それほど客を信頼しているのである。
 宿の代金と,夕ご飯の代金で90元近く(それでも3泊だったが)になる。僕は,計算してお金を宿のママに渡したが,全額はいらない,80元でいいという。僕は,あくまで引き下がったが,ママはまったく受け取る気がないらしい。
「あなたは,親に借金して旅行にきているんだから」
こう説得された。
「またきたときにかえしてくれればいいよ」
本当に金銭欲というものがない人らしい。

 宿からバスターミナルまでは,ミニバスともいえない,町を順次循環するワゴンのような小さな乗り合いタクシーに乗らなければならない。
 それで,やどのママの旦那さんが僕を一緒に乗り合いタクシーが捕まるところまで連れて行ってくれた。
 そして,車通りまで出たところで,クラクションを鳴らされたのでみてみると,虎跳峡まで行ったときの例の運転手だった。ママから話を聞いて急いで追いかけてきたのだろう。そして,乗り合いタクシーであることを示すボードを掲げて,車は乗り合いタクシーへと早変わりした。
 運転手さんは,親指を僕に向って立て,ニヤリ,と笑った。

 まったく,つくづくナシ族ってのは親切なんだから―
 僕は少し名残惜しさを感じつつ、麗江をあとにした。

                                                             (中国編,了)




2005年1月10日月曜日

廬山・陽朔―愉快な中国人


 中国歴史の旅を終え、僕は武漢の町に来ていた。最終的には、香港から日本に一時帰国しようと考えていたが、まだ寄り道する時間がある。
 漠然と、ヒントを得ようかと思って、バスターミナルに行ってみる。
 「赤壁」、三国志の赤壁の戦いで有名な地名が目にとまる。しかし、気乗りしない。もう、赤壁への距離感は地図で十分想像できたし、今までの中国歴史の旅から、赤壁は岩山に「赤壁」と文字が書いてあるだけの場所であることは容易に想像できたのだ。
 「廬山」。これだ。武漢で黄鶴楼を見た僕は、今度は詩情を掻き立てられていた。が、白状すれば、漫画「聖闘士星矢」の影響が大きい。廬山の瀑布が頻繁に描かれていたからである。実際、廬山をテーマにした詩は、李白の「廬山の瀑布を望む」くらいしか知らない。この詩も、子供のころ上記の漫画の影響でおぼえたものだ。
 ともかくも、武漢から九江を経由して、僕は真冬の廬山に入ることにした。
 武漢から九江までは、まったくローカルなバスであった。最初は空席が目立ったが、路上で次々に人を拾いあるいはおろして、ゆっくりと進みながら、バスはあっというまにいっぱいになった。
 九江の地図は持っていない。バスの運転手が何か言っている気がするが、聞き取れないうちに終点らしきところで降ろされた。例によってつたない中国語で「汽車站(チーチャージャン)」とバスターミナルまでの行き方をたずねると、はいよとばかりに3輪オートバイのおばちゃんが現れ、「2元」といわれるがままに後ろの荷台に乗せられた。あっという間にバスターミナルに着いた。おばちゃんとはそこでさよならかと思ったら、彼女はトラックを降りて僕の行き先を聞くと切符の売り場まで案内してくれ、バス乗場にまで連れて行ってくれた。しかも、バスの時間を確認してくれて、まだ15分くらいある、ご飯は食べたか、と弁当屋さんにまで案内してくれた。ここまで親切にされると、重慶でのおせっかいガイドのこともあるし、チップをねだられるのかと不気味だったが、暗に相違しておばちゃんは僕が弁当を無事に買ったのを見届けると身を翻して去って行った。
 そういえば、決して金目当てで親切な人ばかりでなかったな。中国は。電車の中で知り合った人たち、蘭州の白さん一家、皇都招待所の人たち、安西の張麗―数えだしたらきりがない。

 廬山は、雪で真っ白だった。比較的緯度は低いはずだけど、高度があるだけに寒いのだろう。「香炉峰の雪は簾をかかげてみる」という白楽天の一節を思い出し、そういえば昔から廬山は当然雪が降るところだったんだなと納得した。
 入山料を100元だか払わされて、町の中に入る。観光客らしい乗客は僕だけで、後はみんな現地の人のようだった。僕以外に入山料を支払っている人はいなかった。バスを降りると待ってましたとばかりにホテルの客引きが寄ってくる。もちろん泊まるあてがあるわけではなかったので、そのうちの一人についていった。
 料金表をみると、一番安い部屋でも60元と、とても予算に合わない。じゃあ、と回れ右しようとすると、必死で引き止められた。「60元じゃとても泊まれないよー」というと、「安くするから」とどんどん値段を下げていく。「35元」といわれてもなお断ったが、「一度部屋を見てくれ」といわれたので試しに見に行ってみる。結構きれいな部屋だ。シャワーもトイレも室内についている。「20元ならいいよ―」と言ってみると、客引きのおばちゃんは「30元」「25元」となおも粘る。こちらが譲らないのを見て、携帯電話を取り出して、オーナーらしき人に電話をしてどうやら20元でいいかどうか確認しているらしい。OKが出たようで、あきらめ顔で「20元でいいよー」。これで商談成立。冬場はよほど観光客が来ないらしい。ちょっと足元を見すぎた気がするが、オーナーに電話までして値段を下げさせたのはそれほど多い経験でないから、まあ良しとしよう。
 しかし、雪の廬山は交通の便が本当に悪いらしい。例の廬山の大瀑布は結構遠くにあり、車をチャーターしていかなければならないらしい。宿の従業員が、「別の観光客と車をシェアしないか」と持ちかけてきた。それで、一緒になったのが上海からの大学生二人組だった。
 一人は体格どおりどっしり落ち着いたタイプ、もう一人はこれも外見どおり飄々としたタイプ。調子のいいやつで、僕がデジカメを持っていると知ると、自分もとってくれとどんどん撮らせた。あとで廬山の町の写真屋に寄って、すぐにデータを印刷したのだが、それに僕も付き合わされた。容赦なく「これだけの枚数印刷するんだから安くしろよ、そうだ、お前も印刷するだろ、じゃあもっと一枚あたりの値段を安くしてくれ」とこっちの意向もお構いなく強引に話を進めていく。その一方で、「客なんだから椅子とストーブの前の場所を譲れ」と店員をどかして、僕に席を勧め、自分も座る。なんだかすっかり彼のペースだったが、なぜだかそう憎めないやつではあった。新たなタイプの中国人だな―と思って一人おかしかった。
 それで、結局遠くの滝を見に行ってもしょうがないだろ、という学生2人の主張により、「廬山の瀑布」には行かず、近くの滝などを見ることになった。まあ、廬山には多数の滝があるので、漫画でこだわりでもなければわざわざそれを見に行くことはなかろう。実際、李白の詩も僕の思う「廬山の瀑布」を詠んだものなのか、はっきりしないらしい。
 結局寒い廬山に何日もいたってしょうがないので、一泊してまたふもとの九江にもどった。学生2人組も同じバスだったが、電車で上海に帰る、とバス停でさよならした。

天橋。まるで天然の橋のように石が突き出ている。


 次の行き先を九江まで向かうバスの中で考えていた。桂林に行きたいと思っていたので、コンパクト版の時刻表を見ると、南昌から直通の夜行電車が出ているらしい。九江と南昌はバスで数時間なので、一気に南昌に向かうことにした。
 南昌へ到着したのはすっかり日も落ちたあとで、若干不安だったがすぐに安宿は見つかった。「外国人もとまれるか」と宿に入って聞くと、従業員の女の子たちは目を丸くしていたが、「いいよ」ということであっさりとまた20元の宿が見つかった。
 南昌は、国民党の武装蜂起があったことで有名な町だが、これと言って観光のネタはなかった。それでもガイドブックに載っている町なので一応一通り見てまわって、夜行列車に乗り込む。
 何がきっかけだったか、一人の老人に話しかけられた。この老人はシリアスな話が好きなようで、僕が日本人だと知ると、「昔日本と中国は戦争をしたことを知っているか」と聞かれたり、学生か、何を勉強しているんだ、どこへ行ってきたんだ、などなどいろいろ聞かれた。最後は、「今後は日中友好が大事だ。若い君たちががんばってくれ」と話を締めくくってくれた。
 南昌から南寧まで帰省するという大学生の集団とも話した。自分たちの専門の話、日本文化の話、日本人の収入や結婚年齢の話など、話題は尽きることはなかった。そのうち、例によってギターで日本の曲を披露した。中国人は「東京ラブストーリー」が大好きなので、みな小田和正の「ラブストーリーは突然に」を知っている。それも歌ったし、kiroroの「長い間」「未来へ」という曲は劉若英というアーティストがカバーして大ヒットしているから、よく知っている。このあたりの曲を歌うと大うけだった。
 近くで何事か、と見ていたひとも多いようで、「まるで陳小春みたいね」という若い女性からの声援?も頂いた。陳小春とは、そのとき筆談で教えてもらったが、香港の大スターなのだそうである。ほんとうに似ているらしく、その後中国人や台湾人に何度か「似ている」といわれたことがあった。
 大学生のみんなや、シリアス老人、陳小春ファン?の若い女性などと、話は尽きることはなかったが、やがて消灯時間となって、後日の再会を期して、みな床に付いた。今度は硬臥だったが、前の硬座24時の時より盛り上がった列車の中だった。

ちょっと昭和のかおりがする大学生たち

 電車はまだ薄暗いうちに、桂林に到着した。すぐに僕はバスに乗って、桂林近郊の町、
陽朔に移動した。姉から、陽朔のほうが町が小さいし、旅行者向けにすごしよい、ということを聞いていたからだった。
 陽朔もまた出会いの宝庫だった。陽朔は、桂林同様石灰岩が丸く隆起した奇峰がつらなる水墨画のような風景が有名な町だ。西洋人のバックパッカーも多数くるような風光明媚なところなので、電車の中のシリアス老人も教えてくれた通り、みんな英語ができる。つまり、だいぶ観光客なれした町なのだが、田舎町だからなのか、みんなとても気のいい人たちばかりだった。例えば、蘇州で感じたような、旅行者を金としか思っていないような感じは一切受けなかった。
 すぐに宿泊先の従業員と仲良くなった。例によってギターを披露したり、名物の砂鍋をおごってもらったりと、特に従業員のリーダー格の偉君と、湖南省から来た郭君とはだいぶ話した。偉君は、下の名前「利林」にちなんで「トシ」と呼んでくれと言って、日本語を勉強中なので教えてほしいと僕に頼んだ。
 今、筆談ノートを見直してみると、ほとんど会話のメモがない。このころでは、サバイバル旅行でだいぶ中国語も鍛えられていたし、中国語でダメな部分は英語で会話したと思う。
 ご飯は、ティナズカフェというところでよく食べた。最初、なぜこの店に入ったのかはあまり記憶がない。店の前においてあるメニューをみて惹かれたのだと思う。テリーとサリーの2人とはここで仲良くなった。2人はまだ高校生くらいで、確か年齢を聞いたら18だったと思う。もちろん、テリーとサリーと言っても生粋の中国人で、英語風のニックネームだ。店に入ると、「今日はどこに行ってきたの?」とか「隣に座っていい?」などと何かと話しかけてくれる。一人旅の僕にとっては恰好の話し相手だった。
 2人とも、英語をもっと勉強したいらしいが、あるいは西洋人は敷居が高いのだろうか。それで、一人旅の日本人である僕に何かと英語で話しかけてくる。僕は僕で、中国語を教えてもらう。ご飯をサービスしてくれたり、ここに行くといいのよ―といろいろ世話してくれたりするので、すっかり2人が気に入ってしまった。末っ子なので、妹がいたらこんな感じだろうな、と思って。
 陽朔の町は、本当に過ごしよかった。自転車を借りてあたりを走ると、奇峰が立ち並ぶ風景が続く。目を驚かせる景色の連続なのである。うまい表現が思い浮かばないが、子供のころやったドラクエでたとえれば、ボスキャラ級が次々出現するような、そんな油断のできない風景が―他の場所だったらこの山ひとつだけで一大観光地になる、というような山が―次から次へと現れるのだ。
 冬であるが、気候も北に比べればだいぶ温和だ。青島、洛陽など、北のほうでは凍える寒さの連続だった僕にとっては気候の意味でもかなりよかった。
 すっかり陽朔が気に入ってしまった。ユースのみんなも、ティナズの2人も気に入って、この後広東省の姉の家によって、香港から一度家に帰るのだが、香港から旅の続きを始めるとき、春節でごった返す陽朔にまた来て、3日くらい滞在した。3週間くらいぶりの再会をユースのみんなやテリーとサリーと果たし、僕はこの地を後にして、桂林から貴州省の貴陽に旅立った。

 九江のおばちゃん、廬山の大学生、夜行列車のみんな、陽朔のみんな、ほんとに気のいい人たちばかりで愉快だった。ここには書かなかったが、陽朔で出会った旅行中の中国人など、数え切れない人たちと話をした。
 不愉快、とまではいかないが、違和感を覚えたこともある。陽朔には観光客向けのバーがあって、そこでバンドがライブ演奏などをしている。郭君と2人でそういうバーに入って話していたところ、シンセンから来た、ホテルを経営しているという金持ち一家のおばさんに「日本人!」ということですっかり気に入られ、しまいには一緒にステージに上がってバンドに演奏させて「時の流れに身をまかせ」を歌う羽目になった。おばさんは上機嫌で、小さな瓶で一瓶20元くらいするバドワイザーだか、ハイネケンだかの輸入ビール(ちなみに国産の青島ビールの大瓶は大体2、3元である)をどんどん薦め、われわれに奢った。お金を出そうとする僕に対し、郭君は制止して「いいんだ。お金を持っているんだから、払わせておけば」。いかにも成金の振る舞いに好意をもっているような口ぶりではなかったし、僕も内心辟易していたので、まだ上機嫌でわれわれを引き止めにかかるおばさんを尻目に、僕らは店を出た。急激な経済成長と貧富の格差の実態が、あまりにもわかりやすくおばさんの行動に現れていた。
 湖南省は貧しい土地柄と聞く。郭君が「僕もシンセンに行くつもりだ。シンセンにはオポチュニティ(チャンス)がある」とこのおとなしい人が珍しく感情をこめて言っていた。
 英語をもっと学ぼうと一生懸命なテリーとサリー。英語にくわえて、日本語もものにしようという偉君。陽朔の町を飛び出してさらなるチャンスを求めようとする郭君。その行き着く先が成金おばさんでなければいいが―。僕が出会った愉快な中国人たちは、あるいは金銭的には裕福でないかもしれないが、決して心は貧しいことはなかった。



陽朔は本当に風光明媚なところだ


2005年1月1日土曜日

襄陽・重慶・三峡下り―史記・三国志の旅(2)


 本当の意味で一人ぼっちの旅行だった。一人旅をしていても、別の場所では似たような旅人に会うことが多い。ところが、今回は全く観光ルートを外れているがために、上海を出て以来、同じような旅人に出会うことも、日本語を使ってしゃべったこともなかった。ただ、淮陰のレストランの親切なおばちゃん、徐州の宿のこれまた親切なおばちゃん、洛陽のホテルの女の子―僕がギターを持っているのを見て何か歌ってくれとせがんだ。テレサ・テンの「時の流れに身を任せ」を中国語で歌ってあげると、気に入ったようで僕が宿泊している間よく鼻歌で歌っていた―、洛陽のホテル近くのレストランの従業員の人懐っこい女の子たち。みな良い思い出だが、決して僕の孤独を十分に埋めてくれるものではなかった。
 予想にたがわず、三国志の史跡めぐりにも飽きてきた。楽しみといえば、距離感をつかむことだけである。洛陽から襄陽への距離感も概ねつかむことができた。
 三国志で「荊州」という場合に、大体この襄陽あたりを想像して差し支えない。現在の荊州は、当時の江陵という長江流域の都市である。三峡下りのあと、現在の荊州の町に行ったが、三国志関係の史跡は取り立ててないように思えた。襄陽は漢水の南側の町であり、樊城とは漢水を隔てて向かい側に位置する。現在は都市の名前自体も襄陽・樊城の頭文字をとって「襄樊」とされている。関羽が呉に殺害される前に守っていたのは樊城であるし、劉備が諸葛亮を三顧の礼で迎えた新野城は襄陽から少し北に行ったところにある。有名な長坂橋の戦いなどもこの付近での出来事である。
 電車が襄樊の駅に到着したときは、既に夜の帳は完全に下りていた。例によって客引きのおばちゃんについていって、安い宿を確保した。ここでも宿の人たちはかなり親切だった。駅から遠く、交通がどうしても不便なため、翌日駅前の宿に変わったが、駅まで送迎してくれ、次に重慶まで行くという僕に「それなら電車だな」とチケット売り場まで運転手のおっちゃんは案内してくれた。観光客ずれしていない町なのであった。
 諸葛亮が三顧の礼によって迎えられる前に隠棲していた地は古隆中という場所で、このあたりでは一大観光地である。隠棲地であるから、ポツンと庵が一つ建っていたような場所なはずだが、行ってみると20個くらいは建物があったように思える。「草廬遺址」という碑があったが例によって怪しい。
 ただ、新野あたりから雪の降る中諸葛亮を迎えに行ったという劉備一行を想像して、何となくおかしかった。雪は降っていなかったが、積もっていたし、池は凍りついていた。張飛がぶつぶつ言いながら雪の中馬を走らせる光景を想像したのだ。
 古隆中で一人の少年に出会った。まだ中学生くらいの子だ。売店の店員みたいなことをやっているようだが、正式な店員でないのか、自由が利くようだ。少しつたない中国語などで話をしていると、「一緒にローラースケートをしに行こう」というので、ついていくことにした。近くの小学校の体育館らしいところに入ると、驚いたことに100人くらいの子供がローラースケートでぐるぐると体育館を回っていた。諸葛亮が隠棲していたくらいだから、今でも人里はなれた感じの場所である。どこにこんなに人が、しかも子供が位しているのだろうと不思議だった。
 ローラースケートは貸し出しをしていないらしく、ダメだと少年が言うので、僕らは一緒にご飯を食べることにした。川魚らしきものを一匹煮たものなど、色々食べて、僕らは分かれた。それだけのことだ。そして僕は古隆中を後にした。

孔明の草蘆跡だが、怪しい

 翌日は襄陽の町を歩いてみることにした。後に三峡下りの後に訪れた荊州(かつての江陵)もそうだが、襄陽には城壁が残されている。明代に修復されたもののようだが、中国の「城」の概念を体感するには丁度よい。日本で「城」といえば、普通天守閣など城主が住む館や要塞を思い浮かべるが、中国で「城」とは都市を指す。城壁で囲まれた一角がまるまる都市なのである。もちろん、今では襄陽の城壁外にも町は広がっているが。
 町歩きは、まあ、面白いが退屈だった。面白いものはいくらかあるのである。汚らしい市場や、路上でマージャンをする人々、民族衣装を着てパフォーマンスをする人々、ビルの上から者を投げていたずらをする少年達、思い返してみると、地方都市の日常というのがこの町に集約されているような感じだった。ただ、僕が町に溶け込みすぎているのかもしれない。特に声をかけられることもなく、黙々と町を歩いた。
 襄陽の町にも大きな公園があった。町中のどこでもそうだが、とにかく中国は人が多い。公園は市民の憩いの場なのだろう、家族ずれなどで大賑わいだった。
 僕は歩きつかれてベンチに腰をかけて、確かデジカメをいじっていたのだと思う。3、4歳くらいの女の子2人がまつわりついてきた。「なあに、それ。見せて」とでも言ったのだろうか。聞き取れなかったので僕はつたない中国語で「デジタルカメラ」と言って二人に見せた。発音におかしなものを感じたのか、珍しいものを持っている都会人と思ったのか、「あなたは北京人」と尋ねられた。「いや」と答えると、「じゃあ東北人」と更に尋ねるので、これも「いや」と答えた。なぜだか「日本人」と答える気がしなかった。
 女の子は首をひねって「でも、南方の人ではないみたいね」というような表情をした。が、それも一瞬のことで、すぐに「写真とって」とねだって、僕は彼女らのいい退屈しのぎとなった。もちろん、僕の退屈しのぎにもなっているが。
 そうこうしているうちに、何か複雑なことを中国語で言ったので、僕は理解できなかった。筆談ノートを出して書いてもらうと、綺麗な漢字で「これから私たち遠くに行くから、それを写真にとってね」という意味のことを書いた。中国にはひらがながないから、小さな子供でもこれだけの漢字を書けるのだな、と感心した。
 そういって、こっちを見ながら去っていった。親元に帰ったのだろう。また一人に戻って散歩を続けた。

 そして襄陽から重慶に向けて夜行電車に乗った。誰も僕が日本人と気付かなかったし、上海から蘭州のときのような体験もないまま、電車は翌朝、霧深い重慶の町に到着した。


こんなに小さな子どもでもしっかり漢字を書く


 重慶の町は、僕が知らないだけかもしれないが、取り立てた観光地がない。重慶では、長江と嘉陵江という二つの大河が交わる。山間の坂ばかりの都市だが、3000万近い人口があるというから、飲料水や農業用水の豊富なことと、水運の影響力の偉大さを感じざるを得ない。
 ガイドブックによると、重慶の反日感情は強いという。僕の勉強不足だが、重慶の近代史を全く知らなかった。日中戦争時、蒋介石の国民党政府がここを臨時首都とした際、日本軍は苛烈な爆撃を行ったらしい。中国側の資料では、死者が11000人を越えるというから、戦慄すべき行為と言ってよい。4年後、同僚を上海に案内する機会があって上海の歴史や特に上海事変などについて勉強した時にも思ったのだが、もう少し日中戦争の流れについて詳細に高校で学ぶべきでないか、と思う。自分の不勉強を棚に挙げての話だが。
 僕が重慶に来た理由は、三峡下りの基点だからである。実際、駅で電車を降りると一見して旅行者風の僕は客引きから次々と声をかけられて勧誘された。ただで町まで車に乗せていってくれるという人が現れ、たしか大分きつく「無料だな」と問い返したのだろう、乗ることにした。そうすると、案の定旅行会社に連れて行かれて三峡下りを勧められた。相場が分からない僕は断った。観光船でなく、普通の交通手段としてフェリーがあるはずなので、一般の中国人が買うチケット売り場で買うのが一番確実なはずである。
 チケット売り場に行くと、若い女性とおばさんが2人で担当していた。僕は、白帝城と張飛廟は欠かせないと思っていたので、筆談ノートを使って必死で行けるかどうかを確認した。その中で、おばさんが
「あなた、韓国人か」
と聞いてきた。僕は隠すことなく、
「日本人だ―」
と答えた。
 するとすぐにおばさんは眉間にしわを寄せて、不快の表情をあらわにしたが、横から若い女性のほうが
「日本人も韓国人も差不多(チャーブドゥオ)」
と、たしなめるように割って入ったのが今でも深く印象に残っている。「差不多(チャーブドゥオ)」とは読んで字のごとく、「差多からず。大差ない」の意味だ。そうやって雰囲気が険悪になるのを避けてくれたのであった。こうして翌日の夜発のチケットを手に入れた。
 ホテル探しも決して容易でなかった。例によって安いホテルを探すのだが、なかなか見つからない。そんな僕を見咎めたのか、勝手に僕にまつわりついて
「ホテルを探しているのか―」
と、案内してくる男が現れた。僕は無視して、いかにも安そうな宿に行って空室を確かめてみたが、外国人不可とか値段が高すぎるとかでなかなか決まらない。
「重慶は物価が高いからそんな安いホテルはないんだよ」
怪しげな満面の笑顔でそんなことを言ったと思う。もちろん、そんな話は全く信用しなかったが。
 とはいえなかなか見つからないので、彼の勧めるまま、ためしに何十階とあるビルに入ったホテルに入って値段を聞いてみた。シングル170元とか言われ、すぐに回れ右して出て行こうとすると、従業員が必死で「安くするから―」と引き止めてきた。
「僕は学生で金がないんだ。どれだけ高くても60元くらいでないと泊まらないよ」
こういうと、相手方も徐々に値段を引き下げてきた。最終的に「110元」となったときに、僕も根が切れて泊まることに決めた。シングルで、部屋内にトイレ・シャワーつきであり、エアコンも24時間付け放題、お湯も24時間でるという。部屋をみるとなかなか綺麗なものだった。この長い旅行中、後にも先にもこんなにいいホテルに泊まったことはない。値段的には、実は河回マウルの民泊(約2500円)が韓国からタイまでの旅行をとおして最高値だったと思うから、それでも安いが。
 その後、荷物を部屋において、両替するために彼がまだうろうろしていた。「どこへ行くのだ」というから「中国銀行、両替」というとまた勝手に案内してくれ、勝手に両替を請け負ってくれた。
 そうして、別れ際に
「小費(チップ)」
と手を差し出してきた。まあ、途中からそう予想はしていたが、「お前が勝手についてきただけだ」とやりあう気力はなかったし、途中で追い払わなかった僕も悪い。そこで10元(約150円)札を渡すと。
「不好意思(わるいねぇー)」
と言って満面の笑みで去っていった。
 以上のチケット売り場でのやり取りと、インチキガイドとのやり取りが僕にとっての重慶の点景だ。
 一人旅の寂しさは、募るばかりだった。



重慶は霧深いまちだ。対岸まではロープウェイで移動する。


 船に乗り込むと、日本人とみたか、早速旅行社の人間らしき人が寄ってきた。どうやら、オプショナルツアーを売り込むつもりらしい。旅行社の人間は「小姐が来るからまってて」と言い残していったが、そこで登場したのが、劉敏(リィウ・ミン)小姐である。小姐といってももう30は軽く過ぎている、おばさんといって差し支えない感じの人だった。
 「白帝城は、真夜中に通り過ぎてしまうから、寄ることが出来ない」と言う。チケット売り場の女性とは言うことが違うので突っ込んでいくと、どうやら途中下船して行く気なら不可能ではないということらしい。長江ダムができると、白帝城は島になってしまうらしいし、白帝城はなんと言っても孫権に敗れた劉備が諸葛亮に後事を託す地である。「劉禅(劉備の子)に力がなければあなたが皇帝になってくれ」と劉備が諸葛亮に言った話は三国志演義だけでなく、正史にも出ている。劉備の人柄を表すようなストーリーだが、それだけになんとなしに白帝城にはあこがれていた。結局、あきらめた。
 船の中では、久しぶりに観光客に出会った。2等船室では、青島から来たという老夫婦と、福建省から来たという自称商売人と一緒になった。自称商売人は乗りのいい人で、僕にギターを弾いて歌うように何度かリクエストした。当時中国で流行っていた、刀郎という新疆を主題にする曲が多い歌手の歌を歌うと、大分僕のことを気に入ったようで、いろいろ親切にしてくれた。老夫婦は、仕事をやめてから中国各地を旅行しているのだ、と言った。僕が日本人でほとんど中国語も分からないまま旅しているのを聞いて、「You're very good!」とほめてくれた。
 オーストラリア人が3人乗っていた。別に、欧米人と華僑らしく北京語と英語を操る女性のカップルも乗っていた。僕らは、トランプゲームなどに興じて楽しんだ。
 困ったのは、商売熱心な劉敏小姐が、オプショナルツアーがある観光地に差し掛かるたびに、僕にその内容を中国語でわーっと説明して、「お手数だけど、オーストラリア人たちに英語で今のことを伝えてくれ」と来ることだ。中国語もろくに分からず、英語だって受験英語程度しか知らない僕が、にわかにトリリンガルをやるのはちょっと大変すぎた。
 船の上ではマージャンをやっている人がいた。マージャン嫌いでない僕がそれを見ていると、
「やらないか―」
と誘いをかけられた。
 簡単に結末を語れば、1万円弱騙し取られた。僕以外の3人はグルで、いかさまマージャンなのであった。僕は最初賭けではないと思っていたが、いざ席に着くと一点100元だかのとにかく日本の物価から考えても高額なレートでやるという。普通なら1元くらいのものだったと思う。その時点でやめるといって引き下がればよかったが、「中国人とマージャンで交流」という事態に判断能力がマヒしていたのか、席を立てなかった。
 敵は三順もしない間に上がりを積み重ねていったので、あっという間に僕の手元から金はなくなった。もう金がないんだ―といってやめたいという僕を、彼らはあまり引き止めることはなかった。それはそうだ。この地域では1ヶ月ぶんの給料ぐらいの金額をものの10分程度で稼いだのだから。
 劉敏小姐が心配していたらしく、
「船にはいかさま師がいるから注意しなさい、と言おうと思っていたところなのよ」
と部屋に戻った僕に結末も聞かず言った。
「いくら損したんだ」
と聞いたのは、自称商売人の彼だった。
「中国にはいい人が多いが、悪い人もいるのだ」
厳しい顔つきで、老夫婦の主人のほうが僕を諭した。
 船は2泊3日で宜昌に到着するが(3泊目の朝に到着したのかもしれないが、忘れた)、船の中ではこんな感じだった。



新張飛廟は由緒もなにもなかったが、夜景が美しかった





 張飛廟は、長江ダムの完成にともない、水没してしまうそうだ。水没にともなって移転するそうだが、張飛の首が流れ着いた由緒ある場所にたつ張飛廟を見るのはこの機会を逃せば不可能だろう。そう思って、例によって張飛廟の説明をお願いに来た劉敏小姐に、古い張飛廟に行くんだよね、と聞くと、
「新的」
新しい張飛廟に行くという。
「うそだろ、もうすぐダムが出来て水没してしまうのに、何故新しいのに行くのだ―」
びっくりした僕は、筆談でなく、おそらく当時もてる最大限の中国語力でこう伝えた。すると、劉敏小姐は、
「一様的(いっしょじゃないか)」
と、何でそんなことを気にするんだ―といった顔で首をかしげた。
 このやり取りが、僕の今回の史跡めぐりの旅を象徴的にあらわしているような気がした。

  そんなこんなで、寂しさは結局まぎれることはなかったと思う。張飛廟は、いかにも由緒なく、ただ三国志の物語にそって銅像などを展示しているようなものであった。張飛廟から眺めた対岸の夜景が、神秘的に美しかった。
 中国人の乗船客は、張飛廟からでると、10人くらいで食堂に入って皆でご飯を食べていた。劉敏小姐が気を利かせて、僕も一緒に食べるように言ってくれた。
 食堂ではお米が足りないらしく、マントウ(肉まんの生地だけで中身がないものを想像すればよい)で誤魔化していたが、野菜の炒め物、チンジャオロースーやらホイコーローやら、スープなど、何の変哲もない普通の中華料理ではあるが合計10皿以上の料理が食卓に並んだ。

 おいしかった。このときの食事は、涙が出そうなくらいおいしかった。
 中国歴史の旅の間、何週間かくらい、ずっと一人でご飯を食べていた。食堂の従業員と仲良くなって話したり、いろいろしゃべる機会はあったが、ひとりの食事が寂しさを増幅させる原因になっていたのかもしれなかった。
 司法試験の受験勉強をしているころ、1週間くらい誰とも会話しないということもしょっちゅうあった。もちろん、食事も毎日一人だった。その時よりも寂しさを感じていたのは、異国ならではの不安ということなのだろうか。

 船を下りれば、またしばらく一人だな―
 僕は満腹になって、船までの短い道のりを歩き出した。