2005年3月1日火曜日

バクハの花モン族とサパの黒モン族-文明と文化-ベトナム・中国国境地帯


 今、ベトナムへと向かう機内でこのベトナム旅行記を作成している。
 と、いうと何やら奇妙に思われるかもしれないが、8年ぶりにベトナムを訪問するに際して、8年間サボタージュして、手をつけるきっかけを失いかけていた旅行記を認めているというわけだ。もちろん薄くなっていった記憶をもとに書くわけだが、何かしらの臨場感は得られるかもしれない。
 少数民族の暮らしを見てみたいと思っている。これはこの長いアジア縦断の旅の後でも変わらないが、一応このアジア横断の旅のテーマは、「韓国、中国、ベトナムという黄河文明・漢字文化圏と、カンボジア・タイというインダス文明圏を渡り歩いて、各文明内と文明間の共通点・相違点を感じる」ということであった。
 各地の少数民族は、そうすると興味深い存在ということになる。黄河文明やインダス文明の影響を受けながら、独特の文化を維持してきた存在なのである。ただ実際は、近代以降の西洋文明の浸透が急激すぎるので、古い文明の影響はわずかにしか感じられなかった。その意味で、「文明化と観光化の功罪」のくだりとやや重複するきらいはあるが、思い出すままに書き連ねてみたい。



 実は、ベトナムに入国するのはかなり怖かった。およそ無茶な旅行をしているのにまたおかしなことを、と思われるかもしれないが、実際そうだったし、旅行の情報、特に安全やお金に関することにかんしてはかなり綿密に調べる性格なのである。そして、ガイドブックの情報によれば、“ベトナムでは金持ちの外国人からは多くお金をとることは当然とされている”とか、“バイクタクシーに乗ったら人気のいない場所に連れていかれてお金を巻き上げられた”とか、ネガティブな情報が溢れていたのである。

 昆明発の夜行バスは早朝に国境のまち、河口に到着した。バスで一緒になったアイルランド人バックパッカーたちと早速国境に向かう。陸の国境越えは、香港と中国本土のそれをカウントしないとすれば、私にとってはじめてだった。国境となるホン河の向こうには、漢字ではなく見慣れないアルファベットの看板をつけた建物が並んでおり、イミグレーションの建物は重厚で、国境にかかる橋も少なくとも私たちが通過する際は一台の車も通過しなかったのにもかかわらず、広く、しっかりした作りのものであった。国の威信をかけて建設したことの現れなのだと思う。

 国境を抜けると、早速、バスターミナルまでの移動のためのバイクタクシーとの交渉が待ち構えていた。が、多少の値下げ交渉を経ると、ガイドブックのいう適正相場まであっさりとディスカウントがあり、無事にバスターミナルまで到着した。
 ベトナム側の国境のまちは、ラオカイ(老街)という。ラオカイからまず私が目指したのは、バクハという高原にある少数民族のまちだった。毎週日曜日のマーケットには、色鮮やかな民族衣装を身にまとった花モン族の女性が集まるという。生のままの少数民族の姿を是非見たいと思ったのだ。

 ラオカイは河が流れるため、山間の渓谷にできたまちのようになっているが、バクハはその片方の山側にある高原の山あいにある。
 ラオカイから現地民を満載するミニバスに乗って、山あいの道をノロノロと越えてバクハについてみると、数件のホテルとレストラン、あとは学校と民家があるという、とても小じんまりした印象のむらであった。サパにはおしゃれなフランス料理店のようなお店もいくつかあるが、もちろんバクハにそのような店はない。なお、「少数民族のまち」と書いているが、基本的にまちなかに少数民族が暮らしているわけではない。近郊に少数民族の集落が点在しており、その集落の中心的なむらであるということだ。
 適当に部屋を見せてもらって、値段を聞いて(確か一泊2ドルくらいだったと思うが)、泊まることに決めたホテルのおばさんは、私のベトナムに関するイメージとは相違して、親切だった。ニコニコしながら、レストランはどこどこだ、明日は日曜日で市場が開かれる、などといろいろ世話を焼いてくれた。不安を抱えたままのベトナム初日は、こうして平穏に過ぎていった。


バクハあたりの高原地帯ではハッとするような棚田風景が続く


 翌日、起きると、目的であるマーケットを見に行った。圧倒された。
 いわゆる少数民族っぽい少数民族というのは、実ははじめてみたのかもしれない。昆明のあたりでは刺繍の行商に来ている少数民族(確か彝族)をよく見かけたし、麗江ではナシ族にたくさん出会った。行商の人たちは観光用ではないだろうが、ナシ族はまちなかでは民族衣装を着ているひとは少なかったし、まちなかで着ている場合は観光用であった。虎跳峡で出会ったナシ族のおばあちゃんは、人民服のような衣装だったと思うが、民族衣装には見えなかったし、少なくとも華やかさはなかった。
 ところが、バクハには見渡す限りというか、色鮮やかな民族衣装を来た女性であふれていた。まだ2、3歳の子どもですらそうだ。子どもまで民族衣装を着ているのは珍しいことだと思う。衣装は人によって違いがあるが、黒や青をベースにした服に、色とりどりの刺繍が施された上着とスカートを身にまとっているという感じである。これは写真を見て頂いたほうが早いであろう。
 文明、すなわち、それなりに通用力をもった普遍的なものというのは私がこれまで旅してきた、新疆ウイグルのオアシス、貴州や雲南の少数民族のむらでも豊富にみられた。それは例えば、ジーンズであったり、携帯電話であったり、ビールであったりした。ただ、このバクハでは、少なくとも女性については頑ななようにそういう文明的な衣装というのを拒否しているように見えた。

 マーケットが終わると、花モン族たちはそれぞれのむらに帰っていく。私は地図も、予定もないまま、ある一団のあとをついていくことにした。
 バクハの中心街をすぐに抜けて、目のさめるような棚田の風景を眼下にみつつ歩き続けていくと、追いついたのか、彼らが休憩していたのか、老人と若い男性の二人と一緒になり、なにやら話すこととなった。
 話すーといってもお互い一切共通言語を解さないので、身振り手振りとか、雰囲気なのだが、
「私はベトナム人だけど、花モン族だ」
とでも言ったのだろう。身分証明書を取り出して、名前や民族が記載されている部分を示してくれた。
 歩きながら、僕のカメラを興味深そうに眺めて、写真をとってくれ、とか、あれを写真にとれとかいうので、言われるがままに僕はこれらをカメラにおさめた。その中には、鼻をたらしながら、樹の枝を持って遊んでいる3、4歳くらいの少女がいたが、今写真を見なおしてみると幼いような、妙に大人びたようなオーラをもっている不思議な写真である。この長い旅の中でも、お気に入りの一枚だ。


花モン族の少女。なにか不思議なオーラをもっている。



「少数民族の暮らしは大変なんだ」
 とか、かれは続けたのだと思う。座って話し込んだ際に僕が取り出したボールペンを指さして、「これをくれないか」というようなことを言った。僕は迷ったが「安易にものをあげてはいけない、あげてしまうと、彼らはそれで生計が立てられると思うようになってしまう」というガイドブックの記載に忠実に、あげないことにした。彼は別に不満そうにするわけでもなく、笑顔で次の話に移った。
 そうしているうちにも、バクハから戻ってきたと思しき花モン族の女性たちが通りかかった。まだ僕と同じくらいの年齢の女性が小さな子どもを背負って帰り道を急いでいた。写真撮影をすると、照れくさそうに笑いながら応じてくれた。
「私のむらまで一緒に来たらいいよ」
 私、彼を順に指さして、さらに道の先の方向を彼は指さした。正直かなり行ってみたかったのだが、地図を持っていないのと、帰るまでの時間が読めないので、大事をとって断念した。この点は下調べをもっとマメにしておけばと後々まで後悔しつつ、バクハに戻った。


花モン族の皆は、基本的にノリの良い人たちだった。


 ラオカイを起点にして、バクハの、反対側の山にはサパという避暑地として有名な観光地がある。サパ近郊には多数の少数民族が暮らしているが、黒モン族という民族がおそらく数としては最多数であると思う。有名な避暑地だけあって、まちの中にはフレンチのおしゃれなレストランがあったり、大きなホテルがある。私が行ったのは真冬のシーズンオフだったので、どのホテルも閑古鳥が鳴いており、立派なホテルの部屋もわずか一泊2ドルで使うことができた。

 黒モン族の少女たちも、やはり民族衣装を着ているが、文字通り黒っぽい衣装で、花モン族ほどの華やかさはない。ただ、サパの黒モン族はいろんな意味ですごかった。英語はもちろん、片言の日本語まで駆使して、まだ中学生くらいの女の子たちが土産物を販売してくる。小さなまちのメインストリートあたりを歩けばすぐに彼女たちにつかまってしまう。オフシーズンであるからかもしれないが、彼女たちは結構ひまを持て余していて、おそらく観光客向けと思われるインターネットカフェでパソコンゲームやインターネットに興じたりもしている。近郊の電気もとおってないようなむらから出てきて、黒モン族の名に象徴される黒い民族衣装をまとつつ、いわば文明の先端の象徴であるインターネットカフェに彼女らがたむろする姿は大いに違和感を感じさせるものであった。文明と未開の極端な交差がサパでは起こっていたのである。
 結局話しをうまくまとめあげることはできない。が、それが生計に関わることであるから、黒モン族の少女たちは英語も日本語もすぐに習得するのであろう。そしてあまりに身近に文明が存在するから、ごく自然な形で彼女らはそれに触れるのであろう。
 バクハの花モン族の女性に私は文明に侵食されない頑固な文化を見たような気がする。しかし、男性はすでに民族衣装を放棄していることに表されるとおり、それも時間の問題であるかもしれなかった。あれから8年経った今では、あるいは花モン族のみなも、英語や日本語を駆使して土産物を売っているのかもしれないし、やはりかわらないのかもしれない。

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