2004年8月31日火曜日

敦煌での出会い-インインさんや純粋な少女など


 敦煌は、今回の旅のまさにメインと言ってもいいと思う。昔、小説「異域の人」を読んで涙が止まらなかったのは班超が玉門関を越えるシーンである。彼は、そこに骨を埋めるつもりで数十年来西域の平定に力をそそいだが、晩年、望郷の念を生じ時の皇帝に上奏文を送る。曰く、
「数十年来、西域の平定に尽力してきましたが、老いて旧友はこの世を去り、一人生きながらえております。洛陽まで戻りたいとは申しません。せめて、玉門関を越えて最後を迎えたいと思います」
 これを見た皇帝は、自分が生まれる前から西域の平定に当たっていた班超にいたく同情し帰郷を許可したのである。
 班超は玉門関を越えて洛陽に帰郷すると、思い残すことはないかのように息を引き取った。


 ガイドブックには玉門関の写真が載っていたから、日本を出てくる前によくよくみていた。興味がない人が見れば、ただの泥の塊ではある。しかし、だれが何と言おうと玉門関だけははずせなかったのだ。


 そういうわけなので、敦煌に着いた次の日早速日本から来た雑誌の編集者の人とふたりで例によってタクシーをチャーターしていざ玉門関へ向かったのであった。
 玉門関は敦煌の町からおよそ100キロはなれている。ゴビの中をまっすぐ横切る道路を突っ走ると1時間くらいで到着する。昔は、わざわざ玉門関を訪れる人もまれだったらしい。だから、敦煌から一日がかりで車をチャーターして道なき道を走ってようやく見ることができたような代物だとか。今は、中国政府の観光政策のお陰であろう、「西の方陽関をいずれば故人なからん」の唐詩で有名な陽関とともに観光道路が整備されている。


 僕は、ついに見た。この目で見た。玉門関を。
ああ、班超は一体何をおもってここを越えたのだろう。昔、志を抱いて玉門関の外に出たときからの数十年間が走馬灯のようによみがえったか―勝手な想像をたくましくして一人感動に浸っていると―


 「オニイチャン。ウマノルー?ヤスイネー。ヒトリ30ゲン」
妙なイントネーションだが感情のこもった喋り方だった。ヤスイネー、の部分なんかは思わず「そうか、安いんか」と頷きたくなるほど見事であった。
 そう、馬オバちゃん登場である。まさかこんなところに来て日本語で勧誘を受けるとはさすがに予想だにしていなかったので、僕も、編集者氏も面食らった。
 だが、相手にせず無視していると、
「トモダチー。20ゲン」
とかいいながら、どんどん値段を下げていく。
最初はまったく相手にしなかった僕らだったが、うっとうしくなり、
「ふたりで7元ならいいよ」
とこれはさすがに無理だろう、という値段を言ってみた。すると、案に相違してあっさりOKがでた。後で知った話だが、相場はだいたい一人3元だそうである。馬オバちゃん只者ではない。


 おかげで、感傷的な気分はすっ飛ばされたが、まあ、それはそれでいいとしよう。今日も馬オバちゃんは玉門関を訪れる日本人をてぐすねひいてまっているのか……


玉門関で馬にのる図




 敦煌は、井上靖の小説で有名なだけあり、日本人観光客が本当に多い。この旅で初めてドミトリーに泊まれたと思ったら部屋のなかはほぼ日本人で占領されていた。上海以来久しく日本人と喋ったことがなかった僕はそのギャップに戸惑った。


 ここでの出会いは結構あとまでつながっている。チベットの方からやってきた大学生の二人組は、一人は中国への留学生で、もう一人はその友達だった。留学生の方とは、後に上海で再会することになる。
 別に一人旅の留学生の女の子がいて、その子には中国人にうける曲を教えてもらった。後に日本に帰ってから、中華ポップスについて載せているブログを愛読していたが、実はそのブログの主が彼女で、彼女の敦煌旅行記に「頼りなさそうなギター君」として僕が登場していた。上海で一式盗まれた―という話をしてそう思ったそうだ(ただし、ギターを弾いた僕を見て、「見直した」とちゃんとフォローしてくれている)。彼女は、麗江の町と、とあるゲストハウスを非常に絶賛していたので、僕も後に訪れることになった。
 韓国人のスンヨプともここで出会ったが、スンヨプのことはトルファンのところで詳しく書く。他にも、某皇室御用達の大学から留学していたジャスミン。いかにもお嬢様そうな肩書きの人が一人旅しているので驚きだったが、「本名が「茉莉」だから「ジャスミン」があだ名なの。似合わないでしょ」なんて言って笑っていた、面白い人だった。隣に寝ていたマレーシア人は、嘉峪関に行くというので、もちろん「皇都招待所」を紹介しておいた。

 ジャスミンとスンヨプが自転車で莫高屈に行ったというので、僕も自転車で何時間かかけて行って見た。片道2,30kmあったので恐ろしく疲れたが、いい思い出だ。莫高屈は小説「敦煌」の主題となった敦煌文書が発見された場所である。自転車で行った僕は、集合時間を気にせず、ゆっくりとたくさんの屈を見て回ることができた。


 敦煌には長く滞在する必要があった。姉が銀行のカードなどを送ってくれるのでそれを待つためである。いくら、高名な観光都市といっても3日ほどあれば大体の観光地は回れてしまう。僕は、暇をもてあましては同じやどで知り合った人たちと旨いものを食べることが楽しみとなった。インインさんは地元だけあり、おいしいお店をいろいろと知っている。それを別に嫌がりもせず教えてくれるのだ。ワンタン、ロバ肉、鶏湯麺、などなど毎日食べては飲んで、楽しかった。
 宿の清掃をする従業員の中に、まだ中学生と小学生くらいではないかという幼い少女がいた。小学生くらいの少女のほうは、見かけるたびに本当に屈託のない顔で「ニイハオ」と挨拶してくれるので、あまりにも可愛らしく、何か忘れていた大事なものを持っているような気がした。ジャスミンにこの話をすると、このニュアンスの難しい日本語を見事に翻訳して伝えてくれた。
 出発の朝、別れの挨拶をすると、いつもの屈託ない笑顔がなく、もじもじしている。中学生くらいの女の子のに背中を押されるように一歩前に出てくると、プレゼントがあるといって、おそるおそる陶器の人形を僕に手渡してくれた。
 これは嬉しかった。もちろん、陶器の人形は僕の好みでもなかったし、高価なものでもないことは一見してわかる。でも、こんな幼い少女が、自分の大事なものをくれたその気持ちがうれしかった。残念ながらバックパッカーには陶器の人形は不釣り合いで、そのうち割れてしまった。荷物を開いてそれがわかったときは、少女の純粋無垢な心までも割ってしまったようで、少しばかり良心に堪えた。


 突然インインさんの名前を出し、紹介が遅れたが、彼女は僕の大恩人である。大きな観光地では大抵個人旅行者の日本人のために、日本人向けのカフェがある。敦煌ではインインカフェがそれにあたった。
 オーナーのインインさんは、中国人である。日本人のだんなさんと愛娘ユエユエと共にシーズン以外は日本で暮らしておられる。シーズン期間だけ敦煌にやってきてカフェの仕事をされているのだ。
 上海以来、盗まれたものの盗難届を出していなかったが、インインカフェでその話をすると、なんとインインさんが通訳をして、一緒に警察署に届けてくれるという。僕は、もちろんその言葉に甘えた。それ以来、インインカフェに毎日入り浸るようになったのである。
 玉門関に一緒に行った編集者さんと知り合ったのもインインカフェなら、車の手配を頼んだのもインインさんにである。


 インインさんがこういう人なので、自然インインカフェには人が集まる。でも、どうやらこの店をつづける気はあまりないらしい。
 もともと、趣味で始めたような店だし旦那さんと別れて暮らすのも大変だろう。インインカフェの料理の値段はもちろん周辺の地元の食堂よりは高いが、材料をわざわざ日本から送ってもらっている割には、そして何より味の割には、安いものである。そして、地元の客はわざわざ高い金を払って日本料理を食べにはこないので、いくら人気があると言っても売上げは知れたものである。
「昨日なんか、売上げはたったこれだけだったのよ」
そうこぼすインインさんだがあくまで陽気だ。
「上海で、月給45万円くらいで雑貨屋の店長をやらないかなんて誘われたこともあったのよ。でも断ったの。上海という町、あんまり好きじゃないし」
 金ではなく、信念によって生きる。
言ってしまうとものすごく単純なようだが、実際はすごく難しい。
欲深な自分が恥ずかしく思われるほど、欲のない人なのだ。


 敦煌を出発する日も、やっぱりここに立ち寄った。
「いってらっしゃい」
 と、敦煌を出発する僕を見送る声を背中に受け、僕の心には涼やかな風が吹いたようだった。


敦煌のサバクは本当に美しかった



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