2004年8月13日金曜日

洗礼(2)


 ベンチにへたり込んだ僕の頭には「珍しく自分で何にも調べず適当に行動するからこうなるんだ」「乗り遅れたもんはしょうがないから、しばらく休んで次の行動を考えよう」といった思いが去来していた。


 そこに、あまりにも意気消沈している僕を見るに見かねたのか、一人の中国人が寄ってきた。
「チケットを見せてみろ」
「電車はもう行っちゃったんだよ」
僕はこういいながらポケットからチケットを取り出した。
 彼は一通りチケットを眺めると、
「大丈夫、これなら明日のおんなじ電車のチケットに換えられるよ」
と、僕の筆談ノートに書き込んでくれた。
「どこに行ったらいいのか」
さらに聞くと、一緒にいってやるからついてこいとのこと。


 彼はとても優しい青年で、外見は頼りなさそうに見えるがいろんな人にたずねて窓口を回り、明日の同じ電車の寝台が満杯で交換ができないとわかると、払い戻しをしてくれた。さらに、滝のような汗をかいている僕に飲み物を分けてくれた。
こうして、無事払い戻しを受けた僕はお礼を言って彼と別れたのであった。


 少し落ち着いた僕は善後策を講じようと、また姉のところに電話を入れた。寝台にこだわらず、座席でもいいから今日のものと同じ列車のチケットを購入してなるべく早く沿岸部を離れる、ということになって電話を切る。そこでふと、いままで腰に巻いていたウエストポーチを見ると、とんでもないことになっていた。
 チャックが開いている。中に入っていた、デジカメ、ガイドブック、トラベラーズチェックがまさに忽然と消えていたのである。まったく気づかなかった。ある意味、盗んだ奴の手口を褒め称えたいくらいである。電車に乗り遅れて、中国人の彼の後ろについてうろうろしてた間か、電話をかけている間だったのか。とにかくもこれからの旅行に欠かせないものがなくなってしまったのである。いつもならばチャックに鍵をかけているのだが、ドタバタしていたせいでうっかり忘れていたのが仇となった。


 さすがに、このときばかりはショックだった。唯一の救いは、一番大事なパスポート、現金などは貴重品入れの中に入っており大丈夫だったことだ。
 すぐさま再度姉に電話を入れると、「あんたアホねえ」とあきれられたが、とりあえず高いところでもいいから宿を決めて、明日の朝チケットを買うように指示を受けた。しかも姉の余っている銀行のカードをあとで僕のほうに送ってくれるらしく、お金の心配はするなとのこと。こういうときには非常に頼りになる姉である。


 僕は、「奔流」の人が泊まっていた駅前の「良安大酒店」というホテルを宿に決め、落ち着いた。


 中国の洗礼を浴びた。
 田舎から出てきた人で職が見つからない人も多い。いかにも観光客然とした格好で駅前をうろうろしていてはそのような人のよい標的になるだろう。電車に乗り遅れたショックでだいぶパニックになっていたらしいが、蘇州のことも含めだいぶ自分に油断というか不注意があったことは確かである。


―結局は、金なんだな―
 人の行動原理は、金、或いはその日に食べるものがあるかで規定される。
日本で普通の暮らしを送っていると、ついつい忘れてしまいがちなことだ。
僕の物を盗んだ人を、ましてや200元とって上海まで連れてきた人を、しつこい客引きたちを責めるわけにはいかない。
 あたりまえの基本原理をわすれ、油断をした者が悪いのだ。


 熱い風呂に浸かって、ベッドの上に体を横たえそんなことを考えながら、目を閉じた。中国二日目の晩のことである。