2004年12月23日木曜日

韓国人の不思議な自然さ―ソウル・青島・上海


 以前、シルクロード旅行記でスンヨプとの出会いについて書いたことがあると記憶している。その際、韓国人と会話すると、なぜか後になって違和感がない、まるで日本人といたようだ、と書いた記憶がある。今回も、そんな韓国人との出会いのお話。

 安東からバスを使って、一路僕はソウルへと向かった。プサンで引いた風邪は十分に治りきっていなかったのかもしれない。ずっと頭がボーっとしており、ソウルでの常宿と勝手に決めていたキムズゲストハウスに朦朧としながらたどり着いた僕に、オーナーのキム・サニーさんは自分の夕食であるキムチチゲを振舞ってくれた。

 キムズゲストハウスは、2度目だった。前の年、司法試験に失敗した僕は失意で勉強に全く手がつかず、ふと思い立って韓国への放浪の旅に出かけたのだ。その時に、たまたま選んだ安宿が、キムズゲストハウスだった。その後世界各地のいろいろなゲストハウスに宿泊しているつもりだが、このゲストハウスほど家庭的でフレンドリーなものはいまだに出会ったことはない。当時、ゲストハウスの構造は、1階にドミトリーが一部屋と2階に個室が何部屋かあったと思う。そして、1階のリビングとダイニングでは皆がくつろげるようになっているが、実はこれはサニーさんの家族と共用なのだ。安東の民宿(ミンバク)も実に家庭的であったが、こっちもそれに劣らず家庭的である。そして、サニーさんは長い間日系企業に勤めていたことがあり、日本語が堪能で、日本の文化にも精通し日本人に好意的で、そのせいか日本人客も多い。
 前の年に来たときには、ここで別の日本人の宿泊客とマッコリを飲みながら語り明かした。サニーさんももちろんその輪に入っていた。一つだけやりとりを覚えている。サニーさんが、「アメリカが韓国に軍事介入してくる可能性が大きい」という言葉を発し、驚いたことがある。僕は、「韓国」とは「North Korea」のことですか、とすぐに聞き返したところ、サニーさんは、そうだ、といった。サニーさんの日本語は堪能であるから、「韓国」と「北朝鮮」を言い間違えたということではない。つまりサニーさんの感覚では、「北朝鮮に米軍が軍事介入する」というのは「韓国に米軍が軍事介入する」と同じような出来事なのだ。あらためて、南北分断の重さを知った気がした。
 サニーさんは非常にホスピタリティあふれた人で、いつも笑顔でわれわれゲストに応対してくれる。客のことにあれこれいつも気を配ってくれて、帰ってくると「今日はどこに行ってきましたか」、ダイニングに座っていると「お茶でもどうですか」、などと声をかけてくれる。リビングで集まって一緒にお酒を飲んだのも、サニーさんの人柄ならではだと思う。
 そんなサニーさんが、一瞬顔をゆがめたのを今も忘れていない。「今日はどこに行くの」と聞いたサニーさんに対し、国立博物館にいって、その後、「独立門」に行くんだ―と答えたときである。「独立門」という言葉に、サニーさんはすぐに眉をひそめ、少し間があって、
「それなら、歩いていけばいいと思います」
 とだけ答え、身を翻し別の作業に移った。
 「独立門」はフランスの凱旋門を模して作られた門であり、ガイドブックなどでは、すぐそばにある西大門刑務所―日本統治時代の韓国の独立運動者が投獄された監獄のあとの代名詞である。つまり、韓国の植民地支配への抵抗と独立の象徴とされているのだ。

 サニーさんは、僕のことを覚えていてくれた。それで、「夕食はまだだ」と言った僕に対し、「常連なんだから、遠慮しないで」とチゲを振舞ってくれたわけだ。風邪で食欲のない僕に、このチゲは本当にありがたかった。サニーさんは一事が万事、だいたいこういう人なのである。そんなサニーさんの暖かさが大好きだ。
 翌日は、風邪で一日中寝込んでいた。韓国の仁川から青島にフェリーが出ているが、それは週2便で翌々日の出発であったので、ソウルを観光することなく、僕は出発することにした。サニーさんは、旅行会社に電話して、ここでもフェリーチケットの余りが無いかどうか確認してくれた。


仁川で乗ったフェリーから見た空と夕日は何故かとても美しかった



  仁川の港へは、ソウルから地下鉄(途中からは地上だが)がつながっている。チケットも特に苦労なく買うことができた。ただ、乗客は当たり前だが中国人か韓国人で、日本のパスポートを見せるとある係員は訝しげにじろじろ見、ある係員は好奇心旺盛な顔で僕にいろいろ声をかけた。
 船の上は、退屈だった。風呂にはいったり、映画を見たり、船内をうろうろしたりしたが、すぐに飽きて僕は寝てしまった。
 起きれば、青島だった。雪が積もっている。寒い。ソウルもかなり寒かったが、それ以上だ。
 船を下りた僕は、とりあえず地図を買って、本日の宿を探すべく青島の駅に向かおうと、バスを待った。
 と、そこへ一人の韓国人が僕に声をかけた。
「君は日本人だろう?君の背負ってるギター、船でみたよ。僕は隣に寝ていたんだ。もっとも君も僕もすぐに寝ちゃったから話すことは無かったけど」
 僕も突然のことにびっくりしたが、すぐに言葉を返し、お互い簡単に自己紹介をして、旅行中であることを話した。お互い貧乏旅行者であることが確認されると、僕らはすぐに2人シェアして一緒に泊まれる宿を探すことにした。今にして思えば、すこし危機感が無さすぎに思えるが、その時は「この人は大丈夫」と思ったのだろう。
 彼の名前は忘れてしまった。仮にOさんとする。年齢は27くらいだったと思うが、プサンの大学院生で、顔の整形をするために整形治療費の安いハノイまで陸路で行くそうだ。途中、張家界という観光地に寄るらしい。
 僕らは駅前の客引きに従い、一人20元のホットシャワー付の部屋を見つけ、翌日以降の移動のための切符を購入しに、駅へと向かった。僕は上海に留学中の友人にあうために、上海に向かう予定だった。彼は張家界行きの切符を買う。
 僕とOさんは、貧乏旅行者というところでは一致する。ところが、彼はとことん貧乏旅行者であり、僕は違った。上海行き電車(硬臥)の値段は大体180元くらいだったと思うが、駅前に止まっているバスなら100元くらいだった。それでも僕は快適さから考えて、電車だなと思っていたのでそれを購入した。しかし、彼はそれを信じられない、もったいない、といって僕にバスで行くことを勧め、それでも僕が断ると、少しすねたような顔で「わかった。君は快適に寝台電車で上海まで行く。僕は、座席で24時間かけて武漢まで行って、それからまた乗換えさ」と言って硬座のチケットを買った。
 彼は、物怖じしない、そういう面で僕と対照的な人だった。最初にバスに乗ったときも、つたない発音で「フォーチャーザン、フォーチャーザン(鉄道駅の意味)」と連呼し、行き先を通じさせていた。青島で有名な偽物市場の名前も覚えているらしく、これも連呼して道を聞いていた。僕はといえば、何度か書いたがシャイな性格が災いしてなかなかそれができない。それで、前の旅行をとおして少しはできるようになった中国語を使うのだが、それも「アー」と中国人独特の聞き返し方をされるのが決まりが悪く、中途半端なままだった。
 でこぼこコンビな我々であったが、旅は道連れ、なんだかんだで結構楽しかった。一緒に青島市内をうろうろし、寒いのでマクドナルドでお代わり自由のコーヒーをのみ、夕食は「日本のしゃぶしゃぶに近いものが食べたい」ということで「火鍋」を食べた。
 彼は、「自分の初体験はいつで、こうだった」とか、「中国でも彼女が何人かいるんだ。一人はやせててであとはデブ……ホテルにいってはじめて分かったよ」とか、まあ下世話な話題を提供してくれ、これには若干閉口したが、一人で飯を食べるよりははるかにいい。
 翌日、僕の電車のほうが早く、駅でお別れしたが、やはり一抹の寂しさを感じたものだ。スンヨプともあれほどしゃべっていない。会話はずっと英語だったが、日本語でしゃべっていたような感覚だった。

彼は少し変わっていたが、やりとりは自然だった

 上海へは、翌日の朝ついた。留学生の友達と会えるか心配だったが、駅のホームまで迎えに来てくれていたおかげで、電車から降りるとすぐに分かった。
 上海では、青年船長酒店というユースに泊まる予定だった。留学生の友達に通訳してもらい、ホテルで聞くと、満室らしく、会議室に臨時のベットを置いたところなら空いているということで、それで了解した。
 そこでもまた、韓国人の女の子2人と同室になった。
 2人は学生で、上海には友達に会いに来たらしい。その友達という女の子も含めて僕らは英語と中国語まじりでいろいろと話をした。これももう何を話したか余り覚えていない。が、いろいろ話をしたはずだ。親の仕事のこと、彼女らの大学のことなどなど。

 僕が上海を立つ朝、2人は蘇州に半日観光に出かけ、上海駅に戻ってきてから電車に乗って移動するとのことだった。まるで、夏に来た僕とそっくりだ。
 そこで、上海駅への移動方法と、荷物をどこに預けるかについて彼女たちと一緒についていって教えてあげた。僕は、淮陰という、項羽と劉邦に出てくる韓信という将軍の生まれ故郷にバスで移動する予定だった。バスターミナルは上海駅の近くだったのである。

 彼女たちからは、日本に帰った後、メールと写真をもらった。曰く「ありがとう。あなたがいなければ上海駅までたどり着けなかったと思う」。
 韓国から中国へ移動し、その前半は友達以外に日本人にはあわなかった。ずっと韓国人としゃべっただけだが、不思議に外国人としゃべった感じがしない。それだけ、東洋人としての感覚に近いものがあるのかもしれない。


右の二人が同室の韓国人で、左の子はその友達の中国人




―以下余談
 淮陰へのバスの時間は、留学生の友達に教えてもらっていた。しかし、駅からバスターミナルは以外に遠く、道に迷ったこともありなかなかたどり着かない。やむを得ずタクシーをつかまえてバスターミナルについたころには、既に淮陰行きのバスは出てしまっていた。次のバスは午後、6時間くらい待たなければならない。
 そう思って、思案に暮れていた僕のところに客引きらしい男が声をかけてきた。「どこに行く」「淮陰だ」男はしたり、という顔でうなずいて、そこに行くバスがあるといった。ようは白バスらしいが、6時間待つのは無駄なので、その誘いに乗ることにした。バス代も、値切って正規の値段より低くした。
 こうして、紆余曲折はありながら、無事?に僕は憧れであった中国歴史の旅に出ることになった。