2013年4月30日火曜日

ブハラ―民族の興亡と不思議な寛容さ


 ウズベクに行けばわかるが、ウズベク人はとても親日的である。街を歩けば「こんにちは」とか「ハロー」と必ず道行く人に声を掛けられるし、すぐに何かと助けてくれるものだ。おそらく「外国人はお金持ちだから少し多めにお金をもらってよい」という感覚があたりまえなのであろう、少々ボラれたことはあったが、ブハラまでの道のりではたくさんのウズベク人に助けられた。

 モンゴル人の団体客を載せて満席の大韓航空機は、夕闇せまるタシケントに着陸した。多くの先人の指摘があるが、税関検査に大幅な時間を要し、ようやく空港の出口にたどり着いた時はもう着陸して2時間近く経過していた。

 今回は初日のホテルすらまったく予約していなかった。僕のウズベキスタン滞在期間は到着日を入れて8日で、主要なサマルカンド、ブハラ、ヒヴァの3都市を回るとすると結構時間的に余裕がない。そこで、なるべく夜行列車での移動を取り入れることを大まかに考えていた。具体的には、初日はタシケント空港から駅に直行し、ブハラに近いナヴォーイというまちまで夜行列車を使うつもりだった。列車の切符が買えなかったら、最悪多少高くてもタシケントでホテルを探せばいい、そう思って空港を出た僕はタクシーを探した。

 やはり、空港に到着そうそう駅に向かうような酔狂な人間はあまりいないらしく、タクシーの運転手に「トレインステーション」と連呼してもまったく通じなかった。最終的に、英語できる人に運転手が電話し、通訳してもらうことでようやく駅が目的地であることを理解してもらうことができた。このタクシーは10分強の距離であったと思うが、5ドルと、ややボラれることになった。まあ、最初だし、切符を手に入れることが先決なので仕方ない。

 駅の周辺は柵で囲ってあり、切符を検札所で見せて構内に入ることになる。が、一見して切符売場がみつからなかった。事前の情報収集で、駅の左右2箇所に別棟で切符売場が存在するということは知っていたが、それらしきものも見当たらない。
 そうしてバックパックを背負ってうろうろしていると、何人かの現地人が声をかけてきて、「カッサ、カッサ」という。おそらく「カッサ」は切符のことだろうと思い、切符購入用のメモを示すと、「それきた」とばかりに一人のおばさんが切符売り場まで案内してくれた。ちなみに、このおばさんは駅利用者への売り子のようで、後で駅に戻るとチップを要求されたが、これはご愛嬌だ。

 案に相違して、切符はあっさり購入できた。切符売り場にほとんど人はいなかった。「本日、ナヴォーイまで」と切符売場で告げると、「今日はないよ」と金髪のロシア人女性に言われて一瞬ひやっとしたが、やっぱりあるということだった。タシケント発サンクトペテルブルク行きという気の遠くなりそうな長距離列車がその曜日にあり、ナヴォーイを経由することは調べてあったので、僕は安心した。

 駅構内に入って、トイレを探してウロウロしていると、ベンチに腰掛けていた老人が切符を見せろという。切符を見せると、近くの売店の売り子の女性を呼んで、連れて行ってやれと行ってくれたのだろう。女性はわざわざ売店の鍵を閉めて、僕を車両まで連れて行ってくれた。まだ出発予定時刻までは一時間弱あると思っていたが、女性は小走りで急ぐので驚いた。結局女性は息を切らせながら、僕の乗る予定の車両を見つけて、車掌さんに取り次いでくれた。

 やっぱり出発までは時間があったらしい。車内は動き出すまで真っ暗で、出発までの間僕は特にすることもなかった。車掌さんは日本人が珍しいのか、興味を持ったようで、車掌室に僕を招くいていろいろと聞いてきた。と、いっても僕はウズベク語もロシア語も挨拶程度だし、車掌さんは英語ができない。車掌さんが「ウズベク、タシュケント、ジャパン?」とやる。これは日本の首都を尋ねる意味だと理解して「ジャパン、東京」と僕が答える。車掌さんが僕を指さして「東京?」と聞く、これは出身地を尋ねる意味と理解して「ノー。名古屋」と答える。こんな感じで言葉は全く通じないながらなんとか会話が成り立っていった。結婚しているのか、子供がいるのか、今回どこに行くのか、私はサマルカンド出身だ、サマルカンドはいいところだ―不思議なもので、こういうやり取りはなんとかできてしまう。僕は久しぶりに中国語も分からぬままはじめて中国に飛び込んだときや、ホータンのヨーグルト屋さんでの出来事を思い出した。車掌さんとは、「ナヴォーイにつく15分くらい前に起こしてあげるから、安心して寝るんだぞ」といってわかれた。


寝台車はサンクトペテルブルグまで行くそうだ。




 僕が選んだのは開放寝台といって3段ベッドが向かいあって並んでいる安いものである。しかし、僕の区画には他に人はいなかった。疲れていたし、時差もあったので、あっさり眠りにつき、車掌さんに起こされたときはちょうど太陽が地平線から顔を出している時であった。

 ナヴォーイの情報はガイドブックにも、インターネット上にもほとんどなく、ブハラまでの道のりに関しては多少不安だった。まあ、朝早いし、時間はたっぷりあるから、最悪ある程度の額を出してタクシーをチャーターしてしまえば問題ないだろうという楽観的な考えの方が強かった。
 ナヴォーイの駅前には何もないと行ってよかったが、改札を出る前に早速バックパックを抱えた僕の周りに白タクの運転手のおじさんがまとわり付き始めた。「ブハラ」を連呼すると、「50ドル」という。それはあまりにも高いので、「他に頼む」とやっているうちに、どうやら「バスターミナルまで2ドルで行く。そのあとバスに乗っていけばいい」と言っているようだった。この値段なら問題ないので、OKし、タクシーに乗り込んだ。
 本当に何もない街だった。モスクらしい建物は2つ見て、タクシーのおじさんも車を止めて「写真をとれ」と言っていたが、正直それほど由緒あるモスクにも見えなかった。タクシーは田舎町を15分ほど走っただろうか、バスターミナルに到着した。降りる際に運転手のおじさんは「4ドルだ」とにわかに言い始めた。2ドルであることは紙に書いて確認しているからその旨主張して断ったが、相手も譲らない。その間にバスが行ってしまっても面白くないので、やむなく4ドル支払うことにした。口頭であっても、一度合意した金額を後で引き上げてくるという体験は中国でも、ベトナムや他の国でも滅多にというか、まったくなかった。紙に書いてある値段を反故にしてボろうとするのはもちろんはじめてだが、ウズベクではもう2回ほど同じような事態を体験することになる。残りの2回は毅然とした態度で先の約束を指摘すると、頭をかきかき引き下がるという微笑ましいものだったから、そのことでウズベク人の親切さを疑うわけではないが。


ナヴォーイの名も無きモスク


 ブハラへ向かうバスは、客がいっぱいになるまで1時間強待ってようやく出発した。バスの中でも運転手さんと、添乗員の女性にいろいろと話しかけられた。夜行列車の車掌さんと似たようなパターンで、旅行なのか、ブハラ以外にどこにいくのか、結婚しているのか、子供がいるのかというもので、言葉が分からなくてもなんとかやりとりできてしまう。思えば、これははじめて中国を旅行した時に聞かれる黄金パターンであって、僕の中国語はこのような会話からはじまったのだった。ほどなくおよそ日本人と見られることがなくなり、この黄金パターンを忘れていたが。それにしても、ベトナムやタイ、マレーシアなどではあまりこのパターンで話しかけられることはなかったように思うが、どうしてなのだろう。やはりそれだけウズベク人は外国人に関心があるということなのだろうか。

 乗合ワゴンのルートをしっかり書いておらず、あまり役に立たないガイドブックのせいでムダにバス停と街の端っこを2往復した挙句、タクシーを使って僕はブハラの旧市街の中心、ラピハウズに到着した。まあ、ガイドブックの所為にしてはみたが、「ラピハウズ、ラピハウズ」と連呼してれば親切なウズベク人は助けてくれたと思う。

 ブハラはもともとソグド人が居住しており、安禄山がブハラ出身であることは先に触れた。その後13世紀のモンゴル軍来襲により破壊しつくされたため、現在のこるモスク等の歴史建築は主に16世紀以降、シャイバーニ朝のものである。旧市街に歴史的建造物が固まっており、なかなか趣のあるまちだ。
 この旅で一番居心地のよかったのは実はブハラだったかもしれない。夜になれば真っ暗で、人気もないからすることがない。しかし、昼のバザールに行くと、生ビールを格安で飲ませてくれる屋台があり、その雰囲気が何より気に入った。バザールまでの路上も、下校中の小中学生や、大人まで、カメラを首から下げている僕に声をかけては写真を撮るようにせがんだ。屋台には2日連続で通ったが、2日目は1杯1400シム=50円の生ビールをついつい5杯も飲んでしまった。


生ビールと串焼きで乾杯!


 旧市街のハイライトは、カラーン・ミナレットと隣接するカラーン・モスクだ。12世紀の建築で、モンゴル軍による破壊を免れた数少ない建築物である。なんでも、ジンギスカンが見上げた時に帽子を落としたとかで、腰をかがめて帽子を拾ったジンギスカンが「私に頭を下げさせたのだから破壊するな」と述べたそうである。どの史料が出典なのか、信憑性があるのかは知らないが、他の市施設とことなって破壊を免れたのは事実のようだ。
 ミナレットとモスクの構えが青空に見事に映える。モスクはメドレセ(=神学校)になっていた。メドレセでの学業は厳しかったかもしれないが、きっと青空に映えるミナレットとモスクを見て昔の学生は気分転換をしたのだろう。


カラーン・ミナレットを中心とする風景は青空に映える


 また退屈な歴史の話に戻って恐縮だが、ウズベク人とタジク人の関係について触れておきたい。ティムール帝国を滅ぼしたシャイバーニ朝がウズベク人の起こりであることは述べた。その後、現在のウズベキスタンとタジキスタンにあたる地域はブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国というウズベク3ハン国に分かれたがタジク族は非支配民族であったようである。3ハン国は19世紀にロシアに征服され、20世紀初頭のロシア革命によって民族分布とは無関係に人為的にウズベキスタン共和国、タジキスタン共和国などの中央アジア国家の国境線が引かれてしまった。そして、その分割時においては、サマルカンドやブハラではウズベク人だけでなく、結構な数のタジク人が暮らしていたようである。
 前述のとおりウズベク語はチュルク語族であり、タジク語はインド=ヨーロッパ語族であるペルシャ語の一派であってまったく異なるようである。なお、民族的にもタジク人はペルシャ、イラン系の民族である。

 以上のような背景があるため、サマルカンドやブハラではウズベク語と全く異なるタジク語が結構用いられているそうである。サマルカンドでたまたま日本で働いた経験のある絨毯屋の人に声を掛けられた時に聞いたが、大体サマルカンドやブハラの人々はウズベク語とタジク語とロシア語のトリリンガルだそうだ。日常会話はウズベク語もタジク語も両方用いるが、さっきはタジク語で話していたよ、ということだった。

 僕にはタジク人とウズベク人の見分けはつかない。ただ、ブハラでもサマルカンドでも、僕の見た限りでは「ウズベク人とタジク人」という民族的な住み分けは一切なされていないようだった。まして、明らかにスラブ系である金髪碧眼の人も、ごく普通に登下校したり、あるいはバザールに馴染んで買い物をしていた。

 どうやら、ウズベク人というか、ウズベキスタンに暮らす人々は良い意味で民族的な自意識が少ないのではないかと思う。
 かつてソグド人が栄え、イラン系のアッバース朝の支配やモンゴルの侵略を受け、ウズベク人が起こりながらも近代はロシアの支配を受けた、そんなブハラの激動の歴史の中でかえって言語系統や民族の差が大きな意味を持たなくなったのだとしたら、まことに興味深い。

 カラーン・モスクを背景に沈む夕日は喩えようもなく美しかった。この風景を偶然見つけた旅人は幸運だ。そういう幸運な旅人が僕と同じように言葉を忘れてじっと夕日に見入っていた。
 風景の美しさを楽しむのに難しい知識はいらない。ただ、僕にとってもなんとなく一番ブハラの居心地がいいように感じたのは、のどかさや美しい風景のためばかりでなく、激動の歴史の中で多民族への驚くほどの寛容さを身につけてきたブハラ人のおかげかもしれなかった。


この夕焼けはウズベク一だった



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