2013年4月26日金曜日

ウズベク旅行記(1)―ウズベク人のおおらかさ


 シルクロードの旅の続きを、と思ってウズベキスタンへ向かった。
 とはいえ、ウズベキスタンについては、サマルカンドの青い風景以外、これといって知識はなかった。サマルカンドがティムール帝国の首都であったこと、というか、ティムール帝国という存在は、大学入試の際のおぼろげな知識を後にガイドブックの記載を見て思い出した程度だ。

 ただ、新疆ウイグル自治区の主要民族、ウイグル人のウイグル語とウズベク語が似ていることは知っている。僕が通う名古屋大学大学院の法学研究科にはウズベクからの留学生がたくさんいて、何かのきっかけで話したウイグル語の挨拶が通じることに驚いた。そして、ウイグルの名物である麺のラグマンがウズベクでも名物であることをその時に知った。
 どうも調べてみると、ウズベク語はキリル文字を使うらしい。他方でウイグル語はアラビア文字であって、僕はイスラム世界の中央アジアではてっきりみんなアラビア文字を使うものと勘違いしていた。ここで頭がこんがらがってしまったので、まずは手始めに中央アジアの諸言語と民族的な歴史をおさらいすることから旅行準備を始めることにした。この旅行記もそのおさらいから始めることとしたい。

 まず諸言語に関する問題の結論は、要するに、文字と言語の系統は必ずしも一致しないというあたりまえといえばあたりまえの話だった。
 アラビア文字はアフリカ北部から中国西部のウイグル語まで幅広い言語で用いられている。が、言語の系統としては、本流であるアラビア語はもちろん、インド=ヨーロッパ語族のペルシャ語、チュルク諸語(トルコ語、ウズベク語、キルギス語、カザフ語、ウイグル語等)のおおまかに3系統に分けられるということだ。独自の文字を持たない(厳密にはそう言えないかもしれないが)ペルシャ語やチュルク諸語は、かつてアラビア文字を借用した。そして、トルコ語は後にアルファベットを採用し、ウズベク語を始めとする旧ソ連地域のチュルク諸語はキリル文字を採用したのである。ウイグル語はさすがに漢字をあてるのは難しかったからかはわからないが、依然として多少改良されたアラビア文字を使っている。つまり、チュルク諸語であるトルコ語、ウズベク語、カザフ語、キルギス語、ウイグル語などは、使う文字は違えど文法的には近いし、例えばウズベク語とウイグル語などは互いにほとんど通じるらしい。
 蛇足だが、モンゴル語はチュルク語に含まれないが、伴にアルタイ語族という上位語族に属しているため、それなりに近似性があるのではないかと思う。この稿を書いていて思い出したのが、多分ウズベク語でもモンゴル語でも黒のことを「カラ」というのではないか。ヒヴァのバザールで食事をしているときに同席になったおじさんの写真を撮ろうとした際、最初逆光だったので顔がうまく映らなかった。写真を見せるとおじさんは「カラ、カラ」と連呼し、私は「カラ」は「黒い」の意味だと直ぐに理解できた。というのは、昔、NHKのシルクロードを見た際、「カラ・ホト」という西夏の遺跡の名前の由来を紹介する際に、「カラ」はモンゴル語で「黒い」の意味だ、と説明していたのを記憶していたからである。
 蛇足ついでに、満州語もアルタイ語族に分類されるが、さらに朝鮮語、日本語もアルタイ語族に分類する学説もあるようである。その分類の適否はともかく、確かに韓国語、満州語、モンゴル語はもちろん、チュルク語系も主語+目的語+述語の語順がよく似ている。だから、トルコ人やウズベク人などが日本語を勉強すると習得が早いらしい。

 民族的な歴史については、以上のとおり現在の中央アジアの諸国家がチュルク諸語を用いていることからわかるが、現在の中央アジアのルーツは「チュルク」にある。そして、「チュルク」の始まりは中国の歴史書にいう「突厥」であるらしい。ここまでたどりついて、そういえば昔の教科書の「突厥」の説明の枕詞に「チュルク系」とか「トルコ系」というのがあったかもしれないと思い当たった。なお、突厥は突厥文字という独自の文字を用いていたが、石碑のみであって史書の類は残されていないようであり、概ね中国の歴史書からしかその歴史を探ることはできない。突厥の起源になると神話的で、狼と人間が交わって子を授かり、それが突厥の始祖となった、という類のものである。
 この旅行記は別に言語と歴史を紐解くためのものではないからこれ以上は触れないが、ごく大雑把にいえば、突厥を始祖あるいははじめにして、「チュルク」は多民族との混血などの様々な来歴を経て、トルコ人やウズベク族、カザフ族、キルギス族などに分れたということらしい。

 ここまですすんでなかなか本題に入らない旅行記を読むのをやめてしまった方もおられると思うが、もう少し民族の話におつきあい頂きたい。ソグド族の話である。
 中国史が好きな人なら、ソグド族といってまず思い浮かぶのは安史の乱の主役である安禄山ではなかろうか。古来、タシケント、ブハラ、タラス河畔の戦いで有名なタラス、汗血馬で有名なフェルガナなど、ウズベク、カザフ、キルギス、タジクにまたがる地域をソグディアナといい、ソグド人はこの地域に暮らしていた。独自の国家を作るよりは他の国家、クシャーナ朝(ペルシャ系)や突厥に支配されながらも、独自の文化を保っていたようである。
 今回のウズベキスタン旅行記は、ブハラ、サマルカンド、ヒヴァを主な対象とするが、ブハラとサマルカンドがソグディアナに属しており、安禄山はブハラ出身だったそうで、それを知るとなにやら親しみが湧いてくる。
 ソグド族は商才に長けた民族であったようで、シルクロードの貿易を通じて活躍していたようで、それがもとで唐に入り込んだようである。玄奘の記録によると「性格は臆病であり、風俗は軽薄で、詭詐がまかり通っている」だそうであり、安禄山が太鼓腹を指して「陛下への忠誠心が詰まっております」と玄宗に媚びたことを思い出した。もちろん、玄奘は太宗李世民の時代の人であるから、安禄山のことは知らない。
 そうしてソグド族は独自の文字を持つ高度な文化を保持して栄えたようだが、アッバース朝支配の時代になると、地域のイスラム化に伴い、他の諸民族に同化して消滅してしまったらしい。現代ではソグド人も、ソグド文字も、ソグド語も用いられす、唯一タジキスタンのヤグノーブ渓谷に住むヤグノビ人がソグド人の末裔らしい。
 要するに、ソグディアナからソグド人は忽然と姿を消してしまった。

 現在世界遺産となっているサマルカンド、ブハラの建築群は主として14世紀のティムール王朝時代か、それ以降のものである。ジングスカンの来襲とともに街は破壊し尽くされ、基本的にそれ以前のものは残っていないらしい。ティムールが都をおいたサマルカンドの中心部には大きな彼の像が残っており、ウズベクでは今でも英雄である。
 ところが奇妙なことに、ウズベキスタンは、そのティムール王朝を倒したシャイバーニ朝が直接の起源らしい。なぜ自分たちの仇敵を英雄扱いすることになったのかはよくわからない。

 話が長く脱線したように思うが、旅行記の本題に入る前に次のようなことを考えたのである。
 ソグド人という一大民族が消滅してしまうほどに、中央アジアの歴史は、チュルクはもちろん、そして西方のギリシャ系、アラブ系、ペルシア系、東方のモンゴル、中国といった諸民族の激しい興亡地帯であった。その割に、不思議なまでにウズベク人はおおらかだ―仇敵を英雄扱いしてしまうほどに―というのが歴史からみることができるのかもしれない。

 そんなおおらかなウズベク人の土地にいよいよ一人乗り込んでいく。

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