2012年5月3日木曜日

程陽の観光化とありのままさー文明化と観光化の功罪について(3、完)


   程陽についてワゴンから降りると、入場券を買うように言われる。なんと60元(約780円)だという。中国の観光地の入場料は特に物価と比べても軒並み高いことは承知していても、例えば桂林から三江まで200km弱のバス代が40元であったことからすると、破格の出費である。「学生証があれば半額」というので、日本の学生証をみせるとあっさり半額にしてくれたが、これは蛇足である。
   今回の旅ではこれまで一度も入場料は払ってはいない。高定等が観光地化されていないというのはまさにこの点に現れている。もちろん、入場料の件を取り上げたのは高額だというような不満を言いたいからではない。文明化と観光化の功罪についての問題に直結するからである。

   たしかに、これまで見てきたどんな風雨橋よりも、程陽のそれは素晴らしかった。1916年に建築され、5つの櫓をもつこの橋は風雨橋の中でも最大規模で保存状態も良好なものだということであった。そして、ライトアップのための照明も準備されていたし、付近の散策道もよく整備されていた。橋の付近は清掃が行き届いており、ゴミも見当たらない。これに対して、これまで見てきた華錬等の風雨橋はゴミが橋内や周辺に無造作に捨てられたままになっていたし、美しい高定の村でも路上に目を転じればタバコの吸殻やら、ビニール袋やらのゴミがとても目立っていた。

程陽風雨橋は噂に違わず素晴しいものであった

   景観の美しさを保ち続けるためには、観光化につながることは避けられないのかもしれない。高い入場料があるからこそ、清掃員がゴミを片付けてくれる。あたりまえのことだが。そして、高い入場料に見合った魅力を作り出さねばならず、その工夫がたとえばライトアップであったりとか、作り物の民族舞踊のショーになるのであろう。
   独峒の数年前の写真をみると、今ほど無機質なコンクリートの無機質な建築物目立つ状況ではなく、なお風情をとどめているように見える。先に書いたように、今は少なくとも中心部にはあまり風情は感じられない。鼓楼の隣に4階建てのコンクリートビルを建てるのだけはやめて欲しかった。行政による観光地化のための規制が存在しないからこのようなことになるのである。ついでだが、程陽で田おこしを見た際には、みな小型の耕運機を使っており、馬や牛は使われていなかった。

   そして、風雨橋を渡ると、英語の記載まじりで外国人を含めた観光客をあてにしていると思しきゲストハウス兼レストランが何軒もあった。風雨橋の中は、集会場になっているのではなく、土産物の売り場と化しており、私が到着した時間は既に遅かったから皆帰り支度をしていたが、土産物を勧められるかわりに宿を勧められた。
   客引きには従わなかったが、私が宿泊したのもそのようなゲストハウス兼レストランのうち最も環境が良さそうに思えたところだった。既に書いたように私も24時間いつでも出るホットシャワーと、インターネットという文明の魅力にあえなく屈した旅人である。そしてその文明の魅力は、高い入場料やライトアップ等に象徴される観光化と切り離して考えることはできない。

   程陽の風雨橋は素晴らしかったが、既に高定のまちを見てきた私にとってはそれ以上に大きな見どころがあるとも思えなかった。作り物の舞踊にもそれほど興味はない。もっとも今にして思えば独峒の踊りと比較してみても良かったかもしれないが。
   それで、翌朝便利で清潔な食堂にてトン族名物の油茶を朝食にした私は、近郊を含めたまちをぶらぶらすることに決めた。

トン族名物の油茶


   少し本筋からそれるが、トン族の村は子どもが多い。これは高定でも程陽でもどこでも変わらない。そして、20代から40代くらいまでの若者、とくに男性が見当たらないのが特徴的だ。おそらくは、農民工として広東省などの都会に出稼ぎに行っていると考えられる。赤子をあやしてるのは半分かそれ以上が母親でなくて祖母にあたるおばあさんであるような印象だった。高定村の呉さんの話や、このような現実を見るにつけ、おそらく私を含めた多くの観光客が好ましく思わないであろう、風雨橋での土産物売りや客引きを責めることはできないと感じる。トン族の名誉のために付け加えておくと、個人的にはナシ族の次くらいに貧しいながらも廉潔かつ暖かい心を持っている民族だと思う。華錬で途中下車する際、座席にデジタルカメラを忘れかけた僕に、トン族の子どもはすぐ声をかけてくれた。ほうっておいてもし私が気づかなければ、容易に数百元の収入になったであろう。高定村の呉さんの無欲なガイドの申入れや、独峒の宿のおかみさんがワゴンを止めるまで世話を焼いてくれたことなど、他にも例を枚挙するに暇がない。貧しさに対して良心を屈することのないトン族には敬意を抱く。

   決して以上のような小難しいことを考えながら散策していたのではない。当時もやもやっとしていたことを今整理しながら文章にしているだけである。
   まちの美しさは到底高定村には及ばないが、まち歩きは心浮き立つものだ。河で洗濯する人、元気そうに小学校に登校する沢山の子どもたち、幼稚園で走り回る子どもたち、集会場にもなっている鼓楼でトランプや将棋に興じる老若男女、懐かしい風景にたくさん出会うことができた。

   特に、程陽の風雨橋から一時間強、最後は山道を歩いてようやく到着する吉昌村の印象はよかった。徐々に強くなる雨のため、私はかっぱを着ていたが、それがよほど変だったのか、山道ですれ違うトン族の人たちは物珍しそうに見ていく。トン語の挨拶は最後まで勉強しなかったので、日本語で「こんにちは」と僕が言えば必ず満面の笑みでお返ししてくれる。これまで割に旅行者に無関心にみえたトン族のよりは、明らかに積極的だった。
   茶畑が広がる未舗装の山道を30分強登ってたどり着いた村は本当に小さかった。高定同様、あるいは小学校を含め幾つかのコンクリート建築がある高定よりもより厳密な意味で、木造建築しかない、昔ながらの村であった。鼓楼周辺ではおじいさんとおばあさんがすることなさげに座っており、鼓楼の隣の舞台では幼稚園児くらいの子どもが走り回って遊んでいた。子どもたちは僕の姿をみとめるとキャアキャアと大きな声をあげ、ちょっかいをかけては逃げるということを始めたので、私も童心にもどって鬼ごっこに興じた。本当に無邪気な子どもたちだった。おじいさんおばあさんは僕が逃げられる姿をみて、あわてて逃げようとした子どもがスリッパを落としたのを見て歓声をあげていた。本当に平和な時が流れていた。
   あまり遊んでいてもしょうがないので、しばらくして小さな村をひと通りながめて、座っているおじいさんおばあさんたちと適当な会話をして写真を取らせてもらったりすると、村を後にした。比較的若いおじさんが、「これでもう帰っちゃうのか」と残念そうに言った。
   このあと、平埔村という別の村にも行ったが、こちらは国道沿いに面しており、かつ風雨橋のような観光上の目玉もないせいか、観光地化はされていないが中途半端に文明化されたトン族の村になっていた。程陽橋付近のように観光化の恩恵を得ることもないので、あえて古いままの姿を残す必要がないのであろう。観光化と無関係に文明化が進んでいるこの村は、ある意味であるがままの現在のトン族の村の姿かもしれなかった。

吉昌村の子どもはあくまで無邪気だった。


   近郊の村むらを散策して戻ると、もうお昼過ぎだ。今日は深夜に桂林から春秋航空で上海にもどるが、三江発桂林行きの最終バスの時間は早いので、そろそろ出発しなければならない。
   観光化・文明化の功罪を語るのは難しい。
   ただ、宿泊していたゲストハウスの前の川沿いに机を出してもらい、新たに落成したという作りものの鼓楼と、昔ながらの小さい風雨橋を眺めながら、ユキヤナギのような花が舞い散るなかで昼からビールをあけながら味わった昼食は、この旅のなかでも格別なものであったことは確かである。そして、観光化・文明化されていないがゆえに美しい高定の村の魅力よりも、私はホットシャワーとインターネットという文明の魅力にあっさり屈したこともまた、紛れもない真実だった。
   ビールでほろ酔いになって気分が良くなり、三江行きのワゴンを捕まえて飛び乗った私は、もはやその問題を考えることはなかった。
  はっきり言えそうなことは、高定村が観光化の道を選ぶとしても、そうでないとしても、あと数年もすれば手付かずの高定村の風景を見ることはできないであろう、ということである。

この昼食の味は格別だった

                                                                                                                 (トン族の村訪問記、了)