2012年5月1日火曜日

独峒のユエイエー文明化と観光化の功罪について(1)




   独峒の町の鼓楼前は、民族衣装を着たトン族の女性と、笛を吹く男性と、それを見る大勢の観衆で大賑わいだ。童謡で「村の鎮守の神様の~今日はめでたいお祭り日~」というのがあるが、まさにその歌がぴったりあてはまるような感じだ。村民は輪になって掛け声を挙げていたが、私にもう少し勇気と強引さがあれば、一緒に輪に入ってはしゃいでいたかもしれない。

   桂林といえば水墨画の如き奇岩の風景が有名であるが、それに一目もくれずトン族の村にやってきたのは理由がある。一つは、8年前の旅行で十分すぎるほど満喫していたからで、二つ目は、8年前は無職でほぼ無制限に時間がありながらも、容易には訪れ難い少数民族の村を旅することをしなかったからである。また、なぜ「トン族」かといえば、城のような櫓を組んだ「風雨橋」や村の象徴的な存在である「鼓楼」の美しさを写真で見て大いに惹かれたからである。8年前の旅行の時はその存在を知らなかった。

   ここ数年、大型連休の際には、溜まっていた仕事を片づけたり、大型事件の準備を集中して行ったり、普段はなかなか手を付けられない原稿やらなにやらを処理したりと、結局十分に休養をとることができないままだった。それがたたってか、昨年の秋ごろからほとんど恒常的にやる気が起きず、仕事に集中できない時間が多くなり、結果的に仕事の効率が落ちる状況が続いていた。そこで、なかば強引に5日の休みをとって旅行に出ることにしたのである。

   8年前の旅行の際も少数民族に関する場所をあれこれ訪れたのだが、どうも観光用に作られた感じのする場所が多かった。新疆ではウイグル人の踊りを見たり、龍勝ではミャオ族の棚田を見たり、貴州や昆明では少数民族の文化村というところに立ち寄ったり、麗江ではナシ族の文化に触れたりはしたが、いずれも観光=金儲けのために作られた感を否定することができなかった。そういう作り物のようなものより、例えば蘭州近郊の炳霊寺でたまたま出会ったチベット僧であるとか、ウイグル人ならばウイグル人街に飛び込んでなにがなにやら分からないままにコミュニケーションを取ったこととか、麗江の近郊をトレッキングしているときにたまたま家に招いてくれたナシ族のおばあさんとか、ベトナムのバクハで出会った花モン族の人々とたまたま話したこととか、至って自然な出会いが強く印象に残っている。
   そういうわけで、トン族についても、できるだけ観光化されていないところ、生のトン族に触れられるところを旅先に選択しようとした。そうして選んだのが、冒頭の独峒とその近郊の町々なのであった。昔ながらの村落と、トン族の象徴たる鼓楼と風雨橋がそのままに残っているらしいということであったからである。

   独峒とその近郊の町々はそのような私の期待にまったく違わないものであった。5月1日は労働節(メーデー)で、中国でも大型連休の時期である。にもかかわらず、おそらくその日に独峒を訪れていた観光客は私を除き中国人が10人以下、宿泊したのは4人だけであった。
   独峒の町は、今や決して辺鄙とまでははいえないとおもわれる。私が事前にネットで調べた情報だと、三江の町からバスで2時間半を要するということであったが、実際には一時間強で到着した。後に触れるが、高名な観光地である程陽は三江から約30分であることと比較しても、気になる程度の時間ではない。なお、公式的な路線バスは30分に一本であるが、乗合のワゴン車が頻発している。12時40分のバスに乗ろうと窓口でチケットを買おうとした私が実際に購入できたのは2時40分のものであった。あまりにも待ち時間が長いと思ってバスターミナル付近を探すと、案の定乗合ワゴンが乗客を手ぐすね引いて待っているところで、ものの10分も経たぬうちに出発することができたのである。ちなみに、料金は路線バスが11元であるのに対し、乗合ワゴンは15元であり、気になるような差ではない。私も2時40分のチケットを破棄してワゴンに乗り込んだことはいうまでもない。
   一方、数年前の情報では、路線バスが1時間に一本であり、独峒に少なくとも4件のホテル・旅館があったようであるが、今は一つしか営業していない。つまり、交通の便が向上して、人の往来が活発化した割には、訪れる客は減ったということである。

   独峒の町がいかに観光化されていないかを長く述べすぎた。
   桂林からバスで3時間かけて三江に到着した私は、そうして2時ころには独峒に到着した。他のトン族の村でもそうであったが、トン族はわりあい引っ込み思案の方が多いのか、あるいは観光地化されていないためなのか、逆に私のような旅人が時に訪れることに慣れているのか、明らかにストレンジャーである私に対しても全く自然体であった。他のまちであれば、観光地か否かを問わずに客引きに取り囲まれるが、誰一人声をかけるようなことはして来なかった。それで、とりあえず宿を決めようと小さな町を歩き回ったが、それらしい場所では「もう営業していない」と断られたり、あるいは全く開いていなかったりと、私はまず宿に窮することになってしまった。
   仕方なく、バックパックを抱えたまま町をウロウロしてみた。メインストリートは、基本はトン族の木造建築であるが、中にはコンクリート造りの4階建て以上の建物がいくつかあり、風情を損なっていた。ただ、5分もまちの外に歩けば、小さな風雨橋があったり、見事な棚田が一面に広がる光景があったりと、風情ある風景が広がっていた。
一歩まちを出ればのどかな田園風景が広がっていた


   まちはずれの棚田をうろついてメインストリートに戻ってくると、きっちりした民族衣装とミャオ族ににた金属の髪飾り(というか冠に近い)に身を包んだ少女たちが勢揃いしているのが目に入った。トン族の女性は今でもほとんど民族衣装を来ているが、それはかなり青に近い紺のシャツと、黒のズボンというお決まりの格好である。髪飾りをつけた少女たちの服装は明らかにそれと異なり、ハレの日の格好であることを物語っていた。
   メインストリートの中心にある鼓楼の周りには、町中総出のような感じで人だかりができていた。あとで村の人に聞いたところによると、5月1日の労働節の祭だ、という人と、ある男性が女性に愛を誓う祭りだ、という人もいてはっきりしなかった。今調べると、トン語「月也(ユエイエ)」という祭りであり、トン族のある村が別の一つの村をもてなす伝統的な社交活動をさすとある。昼には老若男女が民族衣装で正装し楽器をならして踊り、夜にはトン族の民謡を男女で唱和し(原文は[対唱]で、現代風にいうとデュエットである)、未婚の男女が愛を語らうということである。
   確かにほぼそのとおり、鼓楼の前でまず若い男性たちが笙に似た楽器を鳴らし、その後民族衣装に身を包んだ女性が輪になって踊った。中央で一人が一節を歌い、輪になった皆が次の一節を皆で続けるという掛け合いを繰り返しながら踊り、どんどん盛り上がって行く。掛け声は聞いたままでカタカナにすると「ヤーモホイー、イエモッホイヤ」「ヤー、モヘアッホヤ」という2種類のくり返しなので、単純である。皆弾けるような笑顔で、声を張り上げて踊っているのにつられて、思わず冒頭のように加わってみたくなったというわけだ。
   踊り終わると、民族衣装の女性を先頭に一列にならんだ。何故か女性は折りたたみ傘をさしている。先頭の女性だけは蛇の目傘に似た伝統的な傘をさしていたので、現代は折りたたみ傘で代用しているのかもしれない。この女性たちを先頭に、後には男性がつづき、派手な爆竹音の中、皆でまちの外の方向に歩き出した。その日の夕食時にレストランの人に聞いたところによると、まちをでていったあと、平流という三江よりのまちにて男女が宴会を行なっているということであった。確かにユエイエの説明どおりである。



   独峒はおよそ観光客を想定しているようなまちとは思えないし、実際に訪れた観光客も既に書いたようにごくわずかであった。この祭りは観光用のものでなく、紛れもなくトン族本来のものであったわけである。たまたま遭遇できた私にとっては、この上ない幸運であった。

   行列が去って祭りの騒ぎが嘘のように一段落すると、さっきまで固く門が閉ざされていたホテルの門が開いている。一泊50元のツインの部屋にチェックインし、日本のパスポートを見せると、少し珍しがられた。宿のおかみさんは気のいい人で、10年前に宿泊したという北海道在住の一家の写真をわざわざ見せてくれた。
   私のあとにチェックインしようとしていた二人も珍しがり、さらに偶然があって夕食をともにすることになった。陳さん、戴さんという二人組で、湖南省から自家用車で旅をしているという。陳さんは私より2つ年上で「小小的生意」、ちっちゃな商売をしてるよーと言っていた。が、旅行期間を聞くと「やめたいと思う時まで」と言っていたくらいであるから、きっと商売が軌道にのっているのであろう。そこにレストランの店員なのか、たまたま居合わせていた人が湖南省出身とのことで、二人と意気投合し、結局4人で「米酒」という日本酒によく似たお酒と、ビールを空けつつ大いに盛り上がることとなった。平流というまちで、祭りの一行が宴会を行なっているというのはその店のトン族の店員から聞いたものだ。陳さんが「それはよそ者でも参加できるのか」と聞くと、「もちろん大丈夫だ」というので、「ではこれから行こうか」という話になりかけた。しかし、陳さんがつづけて平流までの時間を聞くと「すこし遠いなあ」ということで、行く流れではなくなった。

   少し惜しい気がしたのは間違いないが、それでもできるだけ観光化されていない少数民族の村を求めて来た私にとって、十二分すぎるほどの一日になったことは間違いなかった。