2012年5月2日水曜日

高定村の美しさとその影にひそむものー文明化と観光化の功罪について(2)


   独峒のホテルは一つしか営業してなく、選択の余地もない。部屋も見ずに宿泊を決めたところ、部屋の一角にあるトイレ兼シャワールームにはかつて湯沸かし器が取り付けられていた形跡はあるものの、今はなにもついていない。夜は冷えるし、とても冷水シャワーを浴びられたものではないので、我慢してシャワーは浴びないことにした。

   朝起きて腹ごしらえをすると、高定村を目指し出発しようとした。前日に宿の主人から聞いた話では、祭りのために頻繁にワゴン車が行き来しているから、それを捕まえれば5元で行けるということであった。そこで、高定村の方向から来るワゴンに片っ端から「高定村に行くか」と聞くと、ことごとく「干冲だ」と言って否定された。干冲は高定村と同じく、独峒よりもさらに奥まった地にあるトン族の村だが、トン族の村の中では人口最大らしい。なかなかワゴンを捕まえられない僕を見かねてか、宿のおかみさんがちょうど高定村から来たワゴンをうまく捕まえて話をつけてくれた。おかげで、なんとか出発することができた。

   ワゴンは渓谷と美しい棚田の広がる田舎道を快走して、20分ほどで高定村の入り口についた。入り口は鼓楼のようなゲートになっており、そこから坂を下って村の中に入っていく。坂をすこし下ると、ぱっと視界が開けた。

   そうして目に飛び込んできたのは、タイムスリップしたのではないかと錯覚を覚えるほど、木造建築がひしめきあっている風景であった。正直、まちなかについては独峒の村には多少失望していた。コンクリートづくりの無機質な建物が中心部にはかなりの量あり、鼓楼の隣ですらそうであった。少数民族の隠れ里のようなものを勝手に想像していた私の期待はもろくも裏切られていたのであった。
高台から望む高定の村。4本の鼓楼が美しい。右はじには小学校も見える

   ところが、高定村はどうか―。その勝手な私のイメージそのもの、いやそれ以上の状態がなおも保たれていたのであった。わたしは高揚する気持ちでまちのなかを歩きまわった。まちはずれにも足を伸ばしてみたが、風情のある小さな風雨橋や、馬を使って田おこしするトン族の姿を見たり、ここでもタイムスリップしたかのような風景を満喫することができた。それにしても、鼓楼が数本立ち並ぶ姿は圧巻であった。私はしばし疲れを知らずに歩きまわり、気づけば歩き疲れたことから、5本ある鼓楼のうち一つの前にある広場のベンチに腰掛けて休憩をすることにした。


   呉智明さんに話しかけられたのはここであった。
   おそらくトン族の人はシャイなのだと思う。あまり外から来た観光客に積極的に声をかけることはしない。もっとも、こちらが挨拶をすれば必ずはにかんだ様子を見せながらも挨拶を返してくれる。宿のおかみさんやご主人がそうであったように、基本的にとても親切だ。高定村は観光地化されていないとはいえ、おそらく日に数人程度は観光客が足を踏み入れるところであるから、村人としては観光客に慣れていないはずはない。しかし、観光客なれしているからいつものこととして放置しているものとは思えない。いずれにせよ、私の経験上、珍しく外国人が来たりすると、すぐに町中から「何事だ」とばかりに老若男女が集まって来ることが普通だったので、この点はやや意外だった。
   だからというか、呉さんも最初は私が腰掛けて使っていたノートパソコンを遠巻きに見つつ、「それは何だ」という風に声をかけてきた。そこから「旅行に来たのか」「どこから来たのか」という質問があり、私が日本人だということが呉さんに分かるまで時間はかからなかった。
   呉さんも話好きなのだ。今日は朝から山に木を切りに行って疲れて今休憩しているんだとか、日本と中国とどっちが綺麗だと思うとか、僕の持っているカメラやスマホの値段であったりとか、家族構成であるとか、いろいろな話をした。歴史好きでもあるらしく、中国と日本はもともと同根なのだ、秦の始皇帝の時代に中国人が日本に渡ったのが根付いているのだ(これは徐福のことを指したのだろうか)とか、日本には女帝がいたのかとか色々な話を投げかけて来た。私もこの手の話は嫌いじゃなく、日本人は皆三国志が好きだとか、中国の女帝は武則天(則天武后)ただ一人だが日本には昔女帝が数人いたとかなどと応答していた。徐福のことは誤解があると思ったが指摘するのはやめた。

   そうこう話ししているうちに、「最近このあたりはどんな変化があったか」と、文明化・観光化がどう進んでいるかという問題意識を念頭においた質問をしてみた。私の予想していた答えは「大分便利になった」とか、「伝統が廃れてきた」というようなものであった。
   ―農村にはなにも変化なんてないよ。
   呉さんはそう吐き捨てた―というほどではなかったが、淡々とそう答えた。これは意外だった。実際は変化がないはずはない。電気は既に行き渡っているし、家々の屋根には衛星放送用とみられるパラボラアンテナが付いており、なんといってもこんな山奥でも携帯の電波はアンテナ5本分、完璧に入っていたのだ。そのおかげで、私はこんな中国の辺境で日本からのショートメールに返信して用事を済ますことも出来たのである。
   「道路は出来たけど、農村の貧しさはずっと変わらないよ」呉さんはこう続けた。理解した。それはそうだ。呉さんらにとってまず最大の関心事は生活の向上なのだ。そしてそれは何も変わっていないのだ。村の入り口付近に、やや異色なコンクリート三階建ての建物があり、小学校である。3階には「国家最貧窮地区に義務教育を」といったようなスローガンが記載されている。そう、その美しさと裏腹に、高定村は間違いなく「国家最貧窮地区」なのだ。小学校は国の政策による援助で建てたものであろう。
   意外にも電気は1991年には通ったという。それにしては確かに他の部分の変化が乏しい。独峒のようにコンクリート造りの建物が増えていたっておかしくはないはずだ。そうすると、やはりまだまだ高定村は他の村に比べて文明化から遅れをとっているようである。そして、私が感動したところのまちの姿はその犠牲のもとに成り立っていた。

   私がこのまちの美しさを称えると、呉さんは「そうかい。私達にとっては何年も毎日見続けている風景だから、よくわからないよ」と、別に皮肉る様子でもなく、やはり淡々と続けた。いつからこういう生活を続けているのだろうと呉さんの生年を聞くと、1971年ということであった。そうして話題は私の生年やお互いの家族のことに移り、まちの文明化・観光化のことを改めて聞く機会を失った。
   呉さんはなおも饒舌に話しを続けた。風水を見ることができるらしく、このまちがいかに風水上よいかを熱心に語っていたが、私は半分も理解できなかった。さらに、私が望遠鏡を持っていないことを知ると、「望遠鏡は観光に必須だ!」と驚いて「次は必ず持って来い」と、これは別れ際まで3度くらい強調された。中国各地の名勝の話をしていると、「今度来たときは私が湖南、貴州、広西省のあたりを案内してあげるよ。少数民族はけっして開放的でない人も多いから、私がついていってあげれば便利だ。もちろん、宿も食事も私のおごりだから」と言ってくれた。これは決してセールストークでも嘘でもないだろう。日本からの距離や訪問に要した時間については聞かれなかったが、ちょっと足を伸ばせばこられるところくらいに思ってくれていたのだろうか。「次回来たら必ず私を尋ねてくれ」と鼓楼から路地を少し入ったところにある自宅の場所を案内してくれた。
   記念に一緒に写真撮影をしよう、というと「こんなボロっちい格好だから」と着ている服をさして固辞された。確かに、着ているジャンバーはあちこち破れてボロボロ、ズボンも破れや汚れが目立ち、気持ちはわからなくなかった。
   自宅の場所から鼓楼前の広場にもどると、ちょうど二人の娘さんが小学校から下校してきたところだった。トン語で呉さんは何かしゃべっていたが、私が二人にカメラを向けると、にっこり微笑んでよい被写体になってくれた。
   「そろそろ行くよ」と別れを告げる僕に、呉さんは「次は必ず望遠鏡を持って来るんだぞ」と念を押した。
   ―残念ながら次はないだろうな―
   多少後ろ髪を引かれるような思いで、僕は呉さんと別れた。

呉さんの二人の娘さん


   呉さんからまちの実情を聞いた私は、多少複雑な気持ちにはなったが、観光化されていない美しいまちを見ることができたことに大いに満足し、小学校などをさらに散策したのちに、ワゴンを捕まえて独峒に戻った。

   独峒に戻って宿で荷物を受け取ると、「今日ももう一泊するのか」とおかみさんから聞かれた。呉さんと話しているうちに高定村で大分時間をとったので、すでに昼の2時を回っていた。このあと、独峒からすこし三江寄りにある村むらの風雨橋をみて歩こうと思っていたが、三江に向かう最終バスの時間に間に合うか少し怪しい時間である。私は、「最終に間に合うようなら三江に行くよ。間に合わなかったらまた戻ってくる」と言い残して出発した。

   華錬という村で途中下車して、平流、八協という村をやや急ぎ気味で歩いて風雨橋を眺めつつ歩いて行くと、三江行きの最終バスは逃したが、乗合ワゴンを捕まえることができた。下車して、さらに有名な観光地である程陽に向かうワゴンを捕まえた。

華錬の風雨橋。これから八協まで幾つかの美しい風雨橋が眺められた。


   観光地化された程陽には外国人向けのゲストハウスがいくつもあり、ホットシャワーもWIFIも完備されていると聞いていた。観光地化されていない場所がよいなどと偉そうなことを言っていた私は、何のことはない、わずか1日でホットシャワーとインターネットという文明の誘惑に負けたのであった。
   やや水圧が足りないもののホットシャワーを存分に浴びつつ、高定村にホットシャワーはあるのか、呉さんたちはどのくらいの頻度で浴びられるのだろうか、などということを少し考えた。

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